第52話「六柱の社」
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翌朝。
私は社殿の内陣に入り、冷たい板の間の上で、五柱の御札の前に正座した。
懐から、大切に和紙で包んでいた一枚の御札を取り出す。あの森の最奥の祭壇から持ち帰った、新たな御札。
『布可母利久爾多摩命』の九文字が、穏やかで落ち着いた墨色で紙に深く刻まれている。
五柱の御札が並ぶ板壁を、静かに見上げた。
天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売神、天押雲根命。天の五柱。
私がこの世界に落ちてきてから、ずっと私を守り、この辺境の地に清浄な神域の基礎を築き、支えてくださった天津神たち。
その隣の空いた空間に、六枚目の御札を両手で掲げ、据え付ける。
布可母利久爾多摩命。地の一柱。
この見知らぬ大地に古くから根ざし、森と獣と共に在った国津神。長い絶望の眠りから目覚め、果てしない穢れの束縛からようやく解き放たれた神。
天と地。六柱の御名が、簡素な一間造りの社殿の板壁に揃って並んだ。
二礼二拍手一礼。
澄み切った柏手の音が、冬の朝の静寂に包まれた境内に高く響き渡った。
「五柱の大神様。本日より、布可母利久爾多摩命をこの社に謹んでお祀りいたします。どうか、天と地、共に力を合わせ、この地と人々をお守りくださいますよう」
手を合わせたその瞬間、社殿の中の空気が劇的に変わった。
微かだが、圧倒的に確かな次元の変化。
御札から流れ出す神気の質が、五柱だけの時とは明らかに違うのだ。
天から降り注ぐ冷たく清浄な気に加えて、大地の底から力強く湧き上がる、温かく豊かな気が完璧に混ざり合っている。
天と地が、この世界で初めて、一つの場所で正しく繋がった。
その変化は、小さな社殿の中だけには留まらなかった。
鳥居を中心にして、見えない結界がゆっくりと、だが凄まじい質量を持って膨張し始めたのだ。
これまで村の半分ほどしか覆えていなかった神域が、広場全体を優しく包み込み、竹細工の工房の端をあっさりと越え、ゴルドの家を越え、村の外れの牧草地にまで深く染み出していく。
村の共同井戸で朝の水を汲んでいたロザが、木桶の水を一口飲んで首を傾げる。
「あら。今日の水、いつもよりずっと美味しいわね…」
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変化は、それだけではなかった。
帰村から三日目の朝、ゴルドが血相を変えて広場に飛び出してきた。
だが、今回はいつものように顔を真っ赤にして怒鳴り散らしてはいなかった。怒鳴るどころか、完全に呆然としている。
「…ハルさんよ。竹が行儀よくなっとるぞ」
「え?」
「昨日も今日も、竹がおとなしい。新しい竹が生えてはいるのだが、以前のように建物の下から突然生えたり、道をふさぐように生えてはおらんのだ」
私は竹箒を持ったまま、ゴルドと共に竹林へ向かった。
確かに、竹林は以前と同じ豊かな密度で存在しているが、あの物理法則を無視した暴走的な増殖がピタリと止まっている。
「…なぜでしょうね」
正直に言って、完全な理由は分からなかった。
六柱目の大地の神の御札を祀ったことと関係があるのは間違いない。布可母利久爾多摩命の得意とする力、あるいはその統制力が働いているのだろう。五柱の大神については知識があるが、この地の神はこの世界で初めて出会い、私自身が魂で感じ取って名付けたばかりの存在だ。まだその御力の全容は計り知れない。
ゴルドが腕を組んで、しきりに首をひねる。
「竹が大人しくなったのは工房の管理としては助かるが…逆に不気味だ。何かの悪い前兆じゃないだろうな」
「前兆というより、何かが『安定』したのかもしれません。六柱目の神様をお祀りしたことで、神域の気の流れが完全に調和した可能性はありますが…正直、私にも理屈は分かりません」
「神主のくせに分からんのか」
「分かりません。でも、悪い変化ではないことだけは、肌で分かります」
「思う、じゃなくて村長に対しては断言しろ」
「善処します…」
薬草の束を抱えたマルタが通りかかり、静まり返った竹林を一瞥した。
「いいじゃないか。必要な分だけ過不足なく生えてくれるなら、商売としてはこっちの方がずっと都合がいい。無駄に切る手間が減って、ハルさんも楽だろう」
「確かにそうですが、急に理由も分からずおとなしくなられると…」
「結果として効くなら、理由なんかどうでもいいんだよ。あたしの調合する薬草と同じさ」
マルタのその徹底した合理的な割り切りは、いつ聞いてもひどく清々しかった。
森の方角からも、明白な変化の気配が届いていた。
結界の外縁部をうろついていた小型の魔獣の気配が、ここ数日、完全に途絶えている。代わりに、穢れを持たない普通の鹿や兎が、村のすぐ近くの草地まで姿を見せるようになったと、羊番の少年が興奮気味に報告してきた。
森の浄化が、深部から確実な速度で進んでいる。




