第49話「相克」
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翠色に光る御札を祭壇の石の表面に押し当てた。
分厚い穢れの層に、清浄な光が直接触れた直後、空気が文字通り爆ぜた。
祭壇を中心にして、目に見えない衝撃波が広場全体を円形に薙ぎ払った。地面が激しく跳ね上がり、立ち枯れた木々が悲鳴のような音を立てて軋み、頭上から枯れ枝の雨が降り注ぐ。
カイルが身を低くして衝撃に耐え、グラキウスが鞘を地面に突き立てて巨体を支える。群がっていた獣たちが一斉に甲高い悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと後退していく。
祭壇の石から、光が火柱のように噴き出していた。
紫黒色の圧倒的な穢れと、翠色の浄化の光が、石の表面で凄まじい勢いでぶつかり合っている。穢れが光を漆黒に染めようと押し戻し、光が穢れを根本から焼き剥がそうとする。激しいせめぎ合いが、音と光の嵐となって広場の空間を埋め尽くした。
私は目を閉じない。手も引かない。
石の上に押し当てた御札を、全体重をかけて両手で押さえ続ける。
穢れが、最後の死に物狂いの抵抗を見せた。
祭壇の底から濃密な黒い霧が間欠泉のように吹き上がり、私の体をすっぽりと包み込もうとする。喉が火で灼かれるように痛み、肺が雑巾のように締め付けられる。酸欠と瘴気で、視界の端が暗転しかける。
それでも、声だけは絶対に止めなかった。
「布可母利久爾多摩命。この森の守り神よ。目を覚ましてください。あなたの名を呼ぶ者が、ここにいる」
不意に、全ての音が消えた。
完全な沈黙が落ちた。
荒れ狂っていた穢れの嵐が、時間ごと凍りついたように、ぴたりと止んだ。
石の表面を分厚く覆っていた紫黒色の層に、一筋の亀裂が走った。
その細い亀裂の奥から、純度の高い金色の光が漏れた。
亀裂が広がる。二筋、三筋、蜘蛛の巣のように無数に。
絶対の絶望と思われていた穢れの殻にひびが入り、その隙間から、温かく、柔らかく、しかし太陽のように圧倒的な光が溢れ出した。
穢れが、内側から完全に砕け散った。
紫黒色の分厚い殻がガラス細工のように粉々に砕け、灰のように宙に舞い上がり、清浄な風に吹かれて跡形もなく散っていく。
その下から現れたのは、美しく金色に輝く石の表面だった。元はこういう色の、温かな自然石だったのだ。幾年もの悲嘆の穢れに覆い隠されていた、本来の神座の姿。
石の表面に押し当てた御札が、眩いほどの翠色の光を放った。
九文字の万葉仮名が、一字ずつ、黒い墨から輝く金色へと変わっていく。
布、可、母、利、久、爾、多、摩、命。
石に触れている私の掌に、膨大な温もりが流れ込んできた。
先ほどまでの微かな温もりではない。大地の底深くから湧き上がるような、深く、広く、力強い生命の温もり。長い、長すぎる眠りから目覚めた者の最初の深い呼吸のような脈動。
…ありがとう。
声ではなかった。耳で聞く言葉でもなかった。
だが、私の魂の最も深い場所に、確かにそれが響いた。感謝。途方もなく長い孤独の果てに、再び己の名前を呼ばれた者の、純粋で無垢な感謝の念。
涙がこぼれた。
今度は、悲しみの涙ではなかった。
◆◇◆◇◆
広場の景色が、劇的に変わっていた。
灰色に枯れ果て、死の灰が積もっていた地面から、柔らかな緑が萌え始めている。
最初は小さな草の芽が一つ。それが瞬く間に二つ、三つと連鎖し、みるみるうちに広場の足元全体を鮮やかな淡い緑の絨毯が覆っていく。
立ち枯れていた木々の幹から、おぞましい紫色の樹液が完全に消え去っていた。
代わりに、死んだと思われていた枯れ枝の先端から、瑞々しい新芽が一斉に顔を出し始めている。真冬の冷気の中だというのに。季節の理を超越した生命の芽吹きが、祭壇を中心に、波紋のように森の奥へと広がっていく。
空気が変わった。
五日間ずっと肺を蝕み、魂を削っていた瘴気の重圧が嘘のように消え去っている。
そこに満ちていたのは、澄んだ、清浄な、深い森が持つ本来の空気。湿った土の匂い、柔らかな苔の匂い、青葉の匂い。生きている森の力強い息吹。
カイルの剣の切っ先が、力なく地面に下がる。
「…何だ、これは」
先ほどまで灰色の死の広場だった場所が、目の前で爆発的な緑の生命力に満たされていく。歴戦の冒険者が、ただ呆然と周囲を見回している。
グラキウスも剣を静かに鞘に収め、完全に言葉を失っていた。
立ち枯れた木の幹に青々とした新芽が芽吹くのを、白い髭の老剣士が、まるで魔法を初めて見た子供のような、純粋な驚きの目で見上げている。
広場の縁に、退けられた獣たちがまだ留まっていた。
だが、狂気に濁っていた赤い目から光が消え、本来の深い獣の瞳の色が戻りつつある。体表を這い回っていた紫黒色の穢れの筋が、朝霧が晴れるようにすうっと消えていく。
一頭の鹿、あの雨の中で出会った、角の歪んだ鹿かもしれない。その鹿が広場の端に佇み、新しく芽吹いたばかりの柔らかな草をそっと静かに食んでいた。
祭壇の石の上で、一枚の御札が静かに光を放っている。
九文字の万葉仮名が、眩い金色から淡い翠色へと戻り、やがて最も落ち着く穏やかな墨の色に定着した。だが、ただの紙ではない。その繊維の奥底に、底知れぬ神気が確かに宿っているのが分かる。
ルーテ村の社殿に祀ってある五柱の御札と、全く同じ質の清浄で重厚な気。
六柱目が生まれた。
私は両手を胸の前で合わせ、祭壇の金色の石に向かって、もう一度深く頭を下げた。
「布可母利久爾多摩命。お目覚めになりましたか。…長い間、お一人で、本当によく耐えてくださいました」
石の表面が、微かに温かい。
もう、指を刺すような穢れの冷たさはない。大地の底から真っ直ぐに伝わってくる、確かな命の温もり。
返事はなかった。言葉として私の頭に届くものは、もう何もない。
だが、広場に不意に吹き込んできた冬の風が、かすかに、甘く芳醇な花の香りを運んできた。
雪の降る季節の森に、ありえないはずの花の匂いが。
それが、この神からの不器用で確かな返事なのだと、私は理解した。




