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転生神主の日常 〜掃き清めた地が国となるまで〜  作者: 秋澄しえる


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第48話「祈り高まる」

◆◇◆◇◆


 名前を呼んだ瞬間、森全体が、大きく波打つように震えた。


 足元の地面が微かに揺れ、頭上の枯れ枝が耳障りな音を立ててざわめき、周囲の立ち枯れた木々の幹から紫色の樹液が一斉にドクドクと噴き出した。

 穢れが、明確な意志を持って激しく反応している。深い眠りと絶望の中に、異物が入り込んできたことへの強烈な防衛本能。


 カイルが低く身構え、剣の切っ先を闇に向ける。


「来るぞ!」


 森の底無しの闇の中から、おぞましい気配が次々と集まってきていた。

 穢れに侵され、肉体を歪められた獣たち。一頭、二頭、三頭。数え切れない数の濁った赤い目が、広場を囲む暗がりにボツボツと灯り始めている。鹿、狼、猪、狐。大小さまざまな獣が、濃密な瘴気に操られるように姿を現した。


 彼らに狂暴な殺意はない。だが、本能が命じているのだ。穢れの源を守れ、と。


 獣たち自身の意志ではない。体に染み込んだ毒が、祭壇に近づく清浄の気を異物と認識し、排除しようと群れを成している。


 グラキウスが鋭い視線で闇を舐めるように数える。


「数が多い。二十は超えるな」

「大型はいない。だが、四方から来ている。包囲される前に距離を詰める」


 二人が広場の縁から一歩、二歩と後退し、私の左右にピタリと位置を取った。正面と背後を、それぞれの剣の間合いで完全に塞ぐ陣形。


 カイルが私の背中越しに叫ぶ。


「ハルさん! 止まるな! 続けろ!」


 私は振り返らない。

 祝詞を途切れさせれば、今ここで全てが崩れる。積み上げた浄化の気が霧散し、怒り狂った穢れが一気に押し戻してくる。そうなれば、二度目の神迎えの機会はない。


 声を絞り出す。祭壇の石に向かって。穢れの下に眠る神の魂に向かって。


「布可母利久爾多摩命。あなたはこの森を守っていた。この大地を育て、獣たちと共に生きていた。人々はあなたに感謝し、名を呼び、供物を捧げた。あなたは紛れもなく、この地の魂だった」


 定型の祝詞ではない。祝詞の形式を借りた、私自身の心からの言葉だ。前世で教わった作法のどれにも当てはまらない、即興の祈り。

 だが、言葉に一切の嘘はない。魂の底からの嘘のない言葉は、祝詞と全く同じ、あるいはそれ以上の言霊の力を持つ。


 背後で、重い金属の衝突音が響いた。


 カイルの剣の腹が、凄まじい速度で突進してきた狼型の魔獣を横殴りに弾き飛ばした音だ。


 カイルが刃を翻し、吼える。


「来い! いくらでも!」


 一閃。もう一閃。

 正面から殺到する獣の群れを、カイルは最小限の足捌きで次々と打ち払っていく。斬り殺してはいない。刃を寝かせ、峰と腹で弾き、ブーツで蹴り飛ばし、進路を強引に塞いでいる。

 私が「敵ではない。被害者だ」と言ったことを、この男は命のやり取りの中で完璧に守っている。血を流させず、命を奪わず、ただ力で退ける。


 右側から、紫色の筋を這わせた猪型の魔獣が地響きを立てて突っ込んできた。


 グラキウスが半歩だけ横へ滑り、白翼の剣の鞘のまま、猪の突進の軌道を横から強烈に叩き逸らす。猪が横へきりもみ状に吹っ飛び、枯れ木の幹に激突して土埃を上げる。


 息一つ乱さず、グラキウスが肩越しに確認する。


「殺さんでいいのだな、ハル殿!」


 私は御札から手を離さずに、声を張り上げる。


「殺さないでください! この子たちも被害者です!」

「了解した。だが、手加減は疲れるぞ!」


 老剣士の口元に、皮肉げな、しかし圧倒的な余裕を感じさせる苦笑が浮かんでいた。

 一刀両断する方が、戦いとしては遥かに楽だ。巨獣の突進を手加減して退ける方が、何倍もの精密な技術と体力を要求される。だが、この歴戦の老剣士はそれを平然とやってのけている。

 白翼の剣が空を裂くたびに、獣たちが致命傷を負うことなく、的確に無力化されて弾き飛ばされていく。剣の腹、柄頭、そして鞘。あらゆる部位を使い分ける、神業のような力の制御。


 彼らが背中を守ってくれている。

 私は、目前の石だけに意識を集中し、祝詞を続けた。


「あなたの名は忘れられた。祭壇は朽ち、供物は途絶え、あなたを呼ぶ声は完全に消えた。あなたは独りで、果てしない時間、苦しんできた。その苦しみが穢れとなり、この森を侵し、あなた自身をも蝕んだ」


 祭壇の石の表面で、穢れが激しく蠢いた。


 分厚い紫黒色の層がうごめき、波打ち、私の言葉に呼応して形を変えている。穢れが薄くなっているのではない。穢れの下にある「何か」が、必死に身悶えして動き始めているのだ。


「でも、あなたは消えなかった。朽ちかけながらも、嘆きながらも、ここに在り続けた。それは、あなたの中に、まだ神としての誇りと、この地を愛する心が残っているからです」


 両掌を、石の表面すれすれまで近づける。

 穢れの放つ絶対零度の冷たさが、指先の皮膚をちりちりと刺す。だが、その氷のような冷たさの奥にある、微かな温もりが確実に強くなっている。


 反応している。私の声に。私の祝詞に。

 自分かもしれない御名を呼ばれたことに。


「布可母利久爾多摩命。私はあなたの名を呼びに来ました。もう一度、あなたを神としてこの地に迎え入れるために。あなたは独りではない。もう二度と、独りにはしない」

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