第47話「あまねく言葉」
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祭壇の前の灰色の地面に、清水が染みていく。
水筒から注いだ清浄な水が、穢れに深く侵された土に触れた瞬間、じゅう、と微かな音が鳴った。水が、泥のような穢れを不可視の壁で押し返す音だ。
清められた範囲はごく狭い。私が正座できるだけの、畳一枚にも満たない小さな円。だが、儀式の場としてはそれで十分だった。
真新しい御札を膝の前に置き、筆入れを右手の横に揃える。
梓弓は右脇の地面に置き、小狐丸は帯から外し、白鞘のまま左膝の脇に横たえた。武器として抜くためではない。場を清める神具として、私の傍らに添えたのだ。
「カイルさん。グラキウスさん。始めます」
二人は広場の縁に立ち、私を背後にして外側の闇を向いていた。
カイルが静かに剣を抜き、グラキウスが白翼の柄に厚い右手をかける。死の森の奥深さを睨み据える二つの広い背中は、岩のように微塵の隙も見せていない。
カイルが、背を向けたまま短く応じる。
「いつでもいい。好きなだけやれ」
グラキウスが、柄を握る手にぐっと力を込める。
「何が来ようと、ハル殿の背中には指一本触れさせん」
私は深く息を吸い、肺の底からゆっくりと吐き出した。
もう一度、二礼。
額が灰色の地面に触れるほど、深く、深く頭を下げる。
朽ち果てた祭壇の石の前で、五日分の汗と冷たい泥と瘴気にまみれた白衣の神主が、ただひたすらに祈る姿勢をとった。
そして祝詞を、唱え始めた。
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声が、死に絶えた灰色の広場に響き渡った。
最初はごく低く、地の底を這うように。
春日社で、それこそ幾千、幾万回と唱えてきた大祓詞の冒頭。穢れを祓い、罪を清め、日常の空間を聖なる神域へと変え立てる、最も根源的な祝詞。
声を発した瞬間、周囲を圧迫していた瘴気がびくりと震えた。
空気が、明確に私の声の波に反応している。
今まで重く淀んでいた紫黒色の靄が、祝詞の音波に触れた輪郭から薄く裂けていく。清水で清めた足元の小さな円から、澄み切った翠色の光がかすかに滲み出し、灰色の地面を這うように、少しずつ外側へ広がり始めた。
だが、まだ足りない。
大祓詞の定型だけでは、気の遠くなるような年月、凝り固まったこの深さの穢れには届かない。
祝詞の旋律を切り替える。
天児屋根命の御名を唱え、言霊の力そのものを借りて声を大気の奥深くまで通す。声が一段階深く響き、地面を伝う翠色の光が明度を増した。
祭壇の石に向かって、両手を伸ばす。
石の表面に直接触れず、掌を数寸の距離でかざした。掌から、温かい気が脈を打って流れ出す。清浄の気。ルーテ村の神域の中で、毎日の地道な掃除と祝詞によって培ってきた、穢れに対する最も静かで、最も根源的な対抗の力。
石の表面にこびりついた紫黒色の穢れの層が、掌の温もりに反応してわずかにたじろいだ。
じゅるり、と不快な音を立てて後退しかけ、しかしすぐに波のように押し戻してくる。穢れの層は絶望的に厚い。果てしない歳月をかけて結晶化した、孤独と悲嘆の鎧だ。一朝一夕の力技では決して剥がれない。
だが、力で引き剥がす必要はないのだ。
私がやろうとしているのは、穢れとの力比べではない。穢れの分厚い殻の下で眠っている、本来の神性に直接呼びかけ、目覚めさせること。内側から本来の光が灯れば、外側の穢れは朝日に当たる霜のように自ずと溶け落ちるはずだ。
膝の前の御札を、両手で取った。
『布可母利久爾多摩命』
先ほど書き入れた九文字の万葉仮名が、翠色の光を帯びて心臓の鼓動のように脈打っている。
この名前を、呼ぶ。
「布可母利久爾多摩命」
はっきりと声に出した。
祭壇の石に向かって。分厚い穢れの下に封じ込められた、悲しい存在に向かって。
「あなたの名を呼びに来ました」




