第46話「決意」
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私は祭壇の石にそっと手を触れた。
冷たい。氷のような穢れの冷たさだ。だが、その冷たさのずっと奥底に、かすかな温もりがあった。まだ完全に消えてはいない。この神は、まだ生きている。
…救える。
確証はない。前世でも、信仰を完全に失い穢れ果てた神を祀り直した経験などない。伝承の知識として知っているだけだ。だが、この掌に伝わる微かな温もりが、まだ間に合うと確かに告げている。
石から手を離し、振り返る。
「カイルさん。グラキウスさん。お願いがあります」
二人が同時にこちらを見る。
「ここで、神事を行います。この神を祀り直す。穢れを完全に祓い、名を呼び、祈りを捧げて、もう一度、神としてこの地に迎え入れる。…いま、ここで」
カイルが目を見開く。
「今? 村に戻ってからではなく?」
「戻る必要はありません。ここが、この神がいる場所です。ここでやらなければ意味がない。神事に必要なものは、筆と紙と、祝詞と、清水と、何より、祈る心です。全て、今ここに持っています」
カイルが私の目をまっすぐに見つめ、小さく、だが力強く頷く。
「…分かった。俺たちは何をすればいい」
「神事の間、私を守ってください。穢れを根本から祓い始めれば、周囲に溜まった穢れが防衛本能のように抵抗する可能性がある。歪められた獣たちが集まって暴れるかもしれない。森そのものが荒れ狂うかもしれない。その時、私は絶対に手を止められない。祝詞を途中で切れば、全てが崩れる」
「護衛なら任せろ。グラキウス、いけるか」
グラキウスがゆっくりと目を開ける。深い皺に、涙の跡がかすかに残っていた。だが、その灰色の目には、先ほどまでの激しい動揺はもうない。何かを明確に決断した者の静かで鋭い光が宿っている。
「…やれ、ハル殿。わしが守る。何が来ようと」
私は深く頷き、重い背嚢を地面に下ろした。
筆入れを取り出す。清水の入った竹の水筒を開ける。祭壇の前の灰色の地面を、持ってきた清水で軽く清めた。即席の、最低限の場を整える。
そして、新しく切り揃えた紙を一枚取り出した。
この紙に、御札を書く。六柱目の名を。
名前は…この可能性に思い至ってから、過酷な旅路の間、ずっと考えていた。この死にゆく森を歩き、朽ちた木々を見、侵された獣の痛みに触れ、穢れの底から届く嘆きを聴きながら、この神にふさわしい名前を探し続けていた。
この森を守り、この大地を育て、獣と共に生きてきた神。深い森の魂。
筆にたっぷりと墨を含ませる。穂先が紙に触れる。
布可母利久爾多摩命。
深き森の、国の魂の、命。
九文字の御名を、一字ずつ、ありったけの祈りを込めて書き入れていく。一文字書くたびに、紙の表面に澄んだ翠色の光がかすかに灯り、墨の跡に沿って脈を打つように流れていく。
書き終えた。御札が完成した。
私はそれを両手で高く掲げ、祭壇の石の前に正座した。五日分の泥と汗と瘴気にまみれた白衣のまま、それでも背筋だけは真っ直ぐに、天を突くように伸ばして。
神事の作法に則り、二礼。深く、深く頭を下げる。
これから始めるのは、敵との戦いではない。
祭祀だ。
忘れ去られた神を、もう一度、この世界に迎え入れるための。




