第43話「歪められた命」
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三日目は、最も過酷な行軍だった。
未明から降り出した冷たい雨が、油布を容赦なく叩き続けた。
足元の腐葉土が泥濘と化し、苔むした岩が氷のように滑りやすくなる。一歩一歩の足の置き場に極限の神経を使う。背嚢の革が雨水を吸ってずっしりと重くなり、肩と腰の筋肉が悲鳴を上げる。
雨の中を五時間ほど黙々と歩いた頃、グラキウスが右手を水平に上げ、歩みをピタリと止めた。
「カイル殿。右の藪の奥、何かいるぞ。大きくはない。動かない」
私も感覚をそちらへ伸ばした。穢れを帯びた獣の気配。だが、その穢れの質がこれまで戦った魔獣とは違う。
「…攻撃してきません。穢れが表面だけで、芯まで侵されていない」
カイルが警戒しながら藪を分けると、一頭の鹿が泥の中にうずくまっていた。
角が左右非対称におぞましく歪み、体表に紫黒色の筋が蛇のように這っている。目は赤く濁っているが、瞳孔の奥にまだ本来の深い茶色が残っていた。怯えと、自分の体が自分の意志とは無関係に変わっていくことへの絶望的な恐怖が、その目に浮かんでいる。
私は無言で片膝をつき、筆入れを抜く。雨に濡れないよう外套で庇いながら、和紙の切れ端に『布留部由良由良止 玉鎮』と祝詞を書き込む。
鹿の熱を持った額にそれをそっと当てた。翠色の光が淡く灯り、体表の紫黒色の筋が熱を奪われるように少しだけ薄まる。
だが、完全には祓えない。穢れの源が近すぎて、祓った先から新たな瘴気が、冷たい雨と共に皮膚から容赦なく染み込んでいくのが肌で感じ取れる。
鹿が、細く震える脚で立ち上がった。
よろめきながら私を一度だけ振り返って見る。濁った瞳の中で、茶色がほんの少しだけ面積を取り戻している。そして、雨の中を、森の奥の暗がりへと消えていった。
「…まだ助けられる。この子たちは、まだ自分を保っている」
雨に打たれながら、私は震える声でこぼした。
カイルが何か言いかけたが、固く口を閉ざして飲み込んだ。冒険者としての冷徹な合理的判断と、目の前で起きている惨状の間で、彼なりの折り合いをつけようとしている顔だった。
三日目の午後、雨が上がった。
だが、それと引き換えに、森の様相がさらに一段階悪化した。
木々の幹の黒ずみが焼け焦げたように増し、樹皮が剥がれた下から紫色の粘ついた樹液がドクドクと滲み出している。地面に、小動物の白い骨が散乱し始めた。鹿、兎、鳥。穢れに耐えきれず、ここで力尽きた生き物たちの、静かで残酷な痕跡。
カイルが足を止め、地面の一角を鋭く睨みつける。
「ハルさん。これを見ろ」
そこには、狐のような体に、鷲の翼が不気味に生えかけた死骸が横たわっていた。翼は完全に形成されておらず、羽根と毛皮が混在した痛々しい姿のまま、命が途絶えた瞬間を留めて硬直している。
「キマイラのなり損ないだ。融合に耐えきれず、途中で命が尽きている。村に来たあの個体は、多くの犠牲の末にたまたま完成した一体だったということかもしれん」
「ええ。穢れの力で無理やり変容させられて、体が耐えられなかった。どれほど苦しかったでしょうね」
三日目の野営地は、巨大な岩の張り出しの下を利用した。雨上がりの湿気が重く、焚き火がなかなか安定しない。グラキウスが火打ちを何度も打ち、カイルが枯れ枝の芯の乾いた部分だけを削り出して種火にした。ようやく火がつくと、三人とも無言で火に手をかざす。
寒い。骨の芯まで疲れている。体に穢れの粒子が少しずつ溜まり、関節を重くしている。だが、まだ三日目だ。あと三日かは進める。
「ハル殿。穢れの源は、まだ遠いか」
グラキウスが焚き火の火の粉を見つめながら、深く息を吐く。
「少しずつ近づいています。方角は変わらず同じです。…ただ、今日あたりから、別のものを感じ始めています」
「別のもの?」
「穢れの奥底に、何か波動のようなものがある。低くて、とても重い。まだ遠いので、はっきりとは読み取れません。でも…怒りではない。もっと別の何かです」
カイルとグラキウスが、無言で顔を見合わせた。
三日目の夜。湿った毛布にくるまりながら、私は穢れの奥から届く波動に深く意識を向けていた。
低く、重く、途切れることなく続く震え。それは音ではなく、感情だ。
何の感情なのか、まだ分からない。でも、確実に近づいている。明日には、もう少し鮮明に感じ取れるはずだ。




