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転生神主の日常 〜掃き清めた地が国となるまで〜  作者: 秋澄しえる


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第42話「穢れの浸食」

◆◇◆◇◆


 結界の境を越えた瞬間、肌に触れる空気の質が劇的に変わった。

 肺の奥まで澄み渡るような冬の朝の空気が、古い泥水を一息に注ぎ込まれたように濁る。だが、森の縁はまだ序の口だ。


 一日目は、比較的順調に進めた。


 森の縁に近い領域には、かつて木こりか猟師が使っていた古い踏み跡がかすかに残っている。カイルが先頭で鉈を振るい、頭上に張り出す枝と足元の藪を鋭い音と共に払いながら進路を作っていく。

 私が穢れの流れを肌で読み取って方角を指示し、グラキウスが後方と右側面を守る。三人の間合いは常に一定。声をかけなくても、前の者が止まれば後ろも止まり、曲がれば曲がる。三角形の隊列が、森の暗がりの中をゆっくりと、だが確実に動いていく。


 木々はまだ概ね健康だった。冬の常緑広葉樹が頭上に繁り、陽光を遮って森の中は常に薄暗い。苔むした幹の間を、冷たい風がかすかに抜けていく。

 だが、下草に混じって、ところどころ灰色に変色した葉が見え始めていた。穢れが地下水脈を通じて、根からじわりと侵入している証拠だ。


 日が傾き、僅かな木漏れ日が橙色に変わった頃、カイルが大きな倒木の陰に適当な窪地を見つけた。


「ここで野営する。風が遮られるし、背後が壁になる」


 カイルが重い背嚢をどさりと下ろし、肩を大きく回す。

 初日の行程はおよそ四キロメートル。重い荷を背負い、道なき森を進む速度としては妥当だが、この広大な森の奥深さを思うと、気が遠くなるような距離だった。


 枯れ枝を集めて火を起こし、干し肉と硬いパンで簡素な夕食を摂る。

 硬パンは本当に硬い。木片を齧っているのかと錯覚するほどで、顎の付け根が痛くなるまで噛み砕き、唾液でふやかさなければ喉を通らない。口の中の水分が全て奪われる。だが、この過酷な環境で二週間日持ちする食料はこれしかない。


 グラキウスが、自分の剣の柄を撫でながら腰を上げる。


「わしが最初の見張りをしよう」

「焚き火を焦がすなよ」


 カイルが火打ち石をしまいながら真顔を向ける。


「焚き火は最初から焦げておるだろう」


 グラキウスの大真面目な反論に、カイルが黙って額を押さえた。


 初日の夜。焚き火の明かりが届く範囲だけが、底なしの闇の海に浮かぶ小さな島だった。その光の円の外側は、完全な暗黒。木々の向こうから、何かの遠吠えが微かに聞こえる。魔物か、まだ穢れに侵されていないただの獣か。区別はつかない。


 交代で見張りを立て、残る二人が毛布にくるまって眠る。地面は冷たく、硬い木の根が背中に容赦なく突き当たる。前世の戦でもこういう野営は何度かしたが、快適とは程遠い。

 自分の見張りの番の間、静かに感覚を研ぎ澄まし、穢れの分布を探った。まだ薄い。だが確実に、村の外縁よりは濃い。これが日を追うごとに、雪だるま式に増していくのだ。


◆◇◆◇◆


 二日目。古い踏み跡が完全に消えた。


 ここから先は、人跡未踏の領域だった。大蛇のように太い蔓が天井から幾重にも垂れ下がり、分厚い苔に覆われた岩が行く手を塞ぎ、朽ちた倒木が折り重なって腐海の壁を作っている。

 前に進むためには、それらを一つ一つ乗り越え、くぐり、回り込まなければならない。カイルの鉈が絶え間なく藪を打つ、パァン、パァンという乾いた音が森に響き続けた。一歩進むのに、三度鉈を振るう。その果てしない繰り返し。


 穢れの濃度が、昨日より明らかに上がっていた。

 空気に物理的な重さがある。一呼吸ごとに、喉の奥に細かい砂を飲んだようなイガイガとした不快感が引っかかる。周囲の木々の幹に、紫色の細い筋が明確な静脈のように走り始めていた。


 正午過ぎ、小さな沢に出た。幅は二メートルほどの細い流れだが、水が黒く濁り、底の石が全く見えない。腐った泥を煮詰めたような匂いが鼻を突く。


「この水は駄目です。穢れが入っています。色も匂いも、はっきりと分かる」


 濁った水面から顔を背ける。


「飲料水の残りは?」

「三人分で四日分ほど。節約すれば五日は持ちますが、帰路の分が足りなくなる」

「途中で安全な水源を見つけなければならんな」


 カイルの表情が引き締まった。水の問題は深刻だ。森の中での水の確保は命綱であり、それが汚染されているということは、行動可能な日数が水筒の残量だけで制限されるということだ。


 グラキウスが、目を細めて沢の上流方向を睨む。


「汚染が均一でないなら、上流に穢れがまだ届いていない支流があるかもしれん。帰路で上流を探りながら進めば、水の確保ができる可能性がある」

「それでいきましょう。帰りに上流の支流を探します」


 二日目の野営地は、二本の大木の根が天然の壁を作っている窪地を選んだ。風が完全に遮られ、焚き火の煙が上に抜ける。カイルの野営地選定は恐ろしいほど的確だった。数限りないほどの野営を繰り返してきた冒険者の経験則が、無意識のうちに最適な場所を嗅ぎ分けている。


 夕食の後、グラキウスが干し肉を硬い歯で乱暴に噛み切りながら、ポツリとこぼす。


「ハル殿。この森は深いな。わしも若い頃、深い森に入ったことがあるが、これほどの規模は見たことがない」

「おそらくこの大陸でも有数の森でしょう。人の手が一切入っていない。穢れがなくとも、この密度の森を道具なしで踏破するのは不可能でしょう」

「穢れがなかった頃は、もっと穏やかだったのだろうな」

「ええ。獣たちが普通に暮らし、木々が健やかに育ち、水が清らかに流れていた。豊かな森だったはずです」

「…その豊かな森が、こうなった」


 グラキウスの低い声に、焚き火のパチッという爆ぜる音だけが応えた。

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