第4話「鳴弦の儀」
矢の先端が木製の球状に膨らんでいて、その球に小さな穴がいくつも空けてある。『鏑矢』。
前世では神事に使うものだったが、今のこの体、五柱の大神から力を授かったこの体で射れば、ただの「音」では済まない。
梓弓をゆっくりと天に向ける。矢をつがえ、弦を引き絞る。弓が白木のしなりの限界まで撓み、弦が悲鳴のような高音を発した。狙いは魔獣ではない。空だ。
迫る魔獣たちの先頭が、三十メートルの距離まで来ていた。牙を剥き、涎を散らし、赤い目を燃やして。
指を離す。
鏑矢が天に向かって射出された瞬間、空気が裂けた。
ヒュウウウウウウゥゥゥ——!!!
私が弦を離す刹那に乗せた祝詞、「此地之穢自祓浄給」という言霊が鏑矢の音に溶け込んだ瞬間。
上空へと放たれた矢の軌跡を中心に、天が爆発したかのように眩く発光した。
純白。いや、白金の輝きだ。
目に見えないはずの音が、圧倒的な光の波紋となって可視化する。
空を衝く甲高い音色と共に、幾重にも連なる光の輪が天頂から地上へと放射状に降り注いだ。それは暗く澱んでいた森の瘴気を、薄氷を割るかのように次々と粉々に砕き散らしていく。
光の波が通過するたび、大気がビリビリと震え、木々の葉が黄金色に輝き、村を覆っていた生臭い穢れが一瞬にして清浄な神気へと強制的に書き換えられていく。
それはまさに、神が世界を拭い清めるための、光と音の嵐だった。
『鳴弦の儀』
音の波紋が頭上から球状に広がり、村全体を包み込んだ。
人の耳には、ただ澄んだ高い音として聞こえるだろう。
風が木の梢を鳴らすような、冬の夜空に響く笛の音のような。だが穢れを帯びた存在にとって、この音は全く別のものだ。
魂の芯を鷲掴みにされ、存在そのものを否定されるような、逆らいようのない神の圧力。
十二体の魔獣が、一斉に硬直した。
走っていた脚が止まり、地面に爪を立ててつんのめる。
耳を頭に張り付け、尾を股の間に巻き込み、赤く光っていた目から急速に狂気が失せていく。低い悲鳴のような、鼻にかかった細い声を上げ始める。
恐怖。本能的な、抗いようのない絶対的な恐怖。
先頭の一体が踵を返した。来た方向、森に向かって、悲鳴を上げながら全力で走り出す。続いてもう一体。もう一体。
堰を切ったように十二体全てが体を翻し、藪を薙ぎ倒し、竹を跳ね飛ばしながら、一目散に森の奥へ逃げ散っていった。
空を裂いていた鏑矢が放物線の頂点から落ちてきて、村の広場の地面に、とすん、と突き刺さった。
静寂が降りた。
風が吹き、竹林がさわさわと鳴った。魔獣の死骸の周りに赤黒い血が広がり、土に染み込んでいく。遠くで犬が一声だけ吠えて、黙った。
私は弓を下ろし、小さく息を吐いた。
「…うん。これでいいか」
◆◇◆◇◆
「ハルさーーーん!」
最初に走ってきたのは、やっぱりリーナだった。ゴルドの腕を振りほどいて、全力で駆けてくる。目に涙が光っているのに、表情は満面の笑みだった。
「リーナ、危ないですよ。まだ周りに…」
「ハルさん! 今の弓すごかった! 最初のやつバチーンって倒れて、次のやつ飛んでるとこにビューンって当たって、最後のやつ音でヒュウウウってやったら全部逃げてったの! すごい! すごいすごい! もう一回やって!」
「いや、無駄撃ちは神様に怒られるので…」
「えー! もう一回!」
「だめです」
興奮するリーナを宥めている間に、村人たちが恐る恐る家から出てきた。柵の向こうに転がる魔獣の死骸を見て、次に弓を手にした私を見る。
今までは「変な服の変な人」程度の認識だったはずだ。それが今、この人たちは、三体の魔獣を一人で射殺し、残りの十二体を音一つで追い払った男を見ている。
気まずい。
ひそひそ声が聞こえる。
「あの矢、百メートル以上あったぞ」
「しかも三本とも急所だ。一頭も暴れなかった」
「最後の音は何だ? あれは魔法か?」
「魔法じゃない。弓の音だ。弓の音だけで魔物を追い払ったんだ」。
マルタだけが、先ほど私が助けた魔獣の死骸のそばに立ったまま、こちらを見ていた。驚きも畏怖もない、ただ静かな確認の目。「やっぱりね」と、その目は言っていた。
ゴルドがゆっくりと近づいてきた。腕を組み、私の顔をじっと見て、しばらく黙っていた。周りの村人たちも、ゴルドと私のやり取りを固唾を呑んで見守っている。
「…ハルさんよ」
「はい」
「あんた、何者だ」
分かっていた。この質問が来ることは。
私は足元に転がっていた竹箒を拾い上げた。柄についた土を軽く払って、肩にかける。
「ただの神主ですよ、ゴルドさん」
「神主ってのは、弓で魔獣を射殺すのか」
「射殺したのは三体だけです。残りはお祓いしただけですよ」
「お祓い。あの音が、か」
「ええ。穢れたものを追い払うのは、神主の仕事ですから」
ゴルドはしばらく私の顔を見ていたが、やがて深いため息をつくと、「…まあ、助かった。礼は言う」とだけ呟いて背を向けた。
「ゴルドさん」
「なんだ」
「死骸の処理もしますね。あれ、放っておくと穢れが溜まるので」
「…頼む」
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