第3話「神域の結界」
村の方から、悲鳴にも似た甲高い声が響いた。
「魔獣だ! 森の方から来てる! たくさんいるぞ!」
羊の番をしていた少年の声だった。続いて、ゴルドの怒鳴り声が村の中心から轟く。
「鐘を鳴らせ! 全員、家の中に入れ! 柵の扉を閉めろ!」
カンカンカンカンカン! 村の鐘が狂ったように打ち鳴らされ、辺りが一気に騒然となった。
家畜を追い込む声、子供を呼ぶ声、板戸を叩き閉める音が重なり合う。その動きに迷いがなかった。何度もこの村が経験してきた光景なのだ。
柵の外にいた羊は捨てる。畑の端に干していた布は回収しない。被害を最小限にして、嵐が通り過ぎるのをただ息を潜めて待つ。それがこの辺境の村のやり方。それしか、できることがない。
リーナの叫び声が聞こえた。
「ハルさんは!? ハルさんはどこ!?」
「ハルさんなら社殿だろう。あんたはこっちに来い!」
「でもハルさんが…」
「ハルさんは大人だ! 早く来い!」
「ハルさーん!」
リーナの泣きそうな声が、秋の空に吸い込まれていった。
大丈夫ですよ、リーナ。
心の中だけで答えて、私は竹の切れ端を静かに置いた。
森の縁を見る。木々の間を、赤い光の粒がいくつも跳ねていた。近づいてくる。
狼型の魔獣。通常の狼よりひとまわり大きく、牙は指の長さほどもある。瞳が赤く光るのは、体内に穢れを溜め込んでいる証拠だ。
先頭集団が竹林の端に差しかかった。四体。竹の枝に阻まれながらも一直線にこちらへ突進してくる。このまま行けば社殿に到達する。残りの十体以上は村の方へ回り込んでいるようで、柵の向こうから木材が軋む音と、村人の悲鳴が聞こえてきた。
問題は、結界の範囲だ。
今の私が張れている神域は、社殿と鳥居を中心にした半径十数メートルほどの円に過ぎない。この中にいる限り、穢れを帯びた存在は入ってこられない。しかし、村の家々や柵までは届いていないのだ。
つまり。社殿は守れる。だが村は——私が出なければ、守れない。
「…しょうがないな」
私は、胸元で交差する襷がけの紐に手をかけた。
結び目をほどく。白い衣の袖が、ふわりと両腕に落ちる。
首を一度だけ左右に振って筋をほぐし、社殿の壁にかけてあった梓弓を手に取った。白木の弓。五柱の大神から授かった神具。弦に指を触れると、弓がかすかに震えた。まるで待ち焦がれていたかのように。
矢筒を右肩にかける。中には普通の矢が十五本と、先端が丸く膨らんだ鏑矢が一本。普段は使わない。使いたくもない。だが…。
村の方から、子供の泣き声が聞こえた。
足が、動いた。
◆◇◆◇◆
竹林に突入してきた先頭の魔獣が、鳥居に向かって大きく跳躍した。
地面を蹴り、開いた顎から涎を散らし、勢いのまま漆黒の門をくぐろうとした。
キィン。
澄んだ金属音が辺りに響いた。目に見えない清浄の壁が、跳躍の頂点で魔獣の穢れた体を受け止め、激しく弾き返したのだ。三メートルほど吹っ飛ばされた魔獣は地面を二度跳ねて転がり、唸り声を上げながら立ち上がった。何が起きたか理解できていない目をしている。
後続の二体も同じだった。鳥居の前で見えない壁に激突し、衝撃に弾かれて散らばる。四体目は仲間が弾かれるのを見て急停止し、低い唸り声で威嚇を始めた。
「ここから先は神域なので。…まあ、伝わりませんよね」
伝わるわけがない。相手は獣だ。
結界に阻まれた四体は、即座に判断を変えた。社殿を迂回し、村の方へ走り出す。仲間の群れと合流するつもりだろう。全部で十五体が、村に向かっている。
柵の向こうから悲鳴が聞こえた。木の柵が魔獣の体当たりでメキメキと軋み、板が一枚、弾けるように割れる音がした。誰かが「逃げろ!」と叫ぶ声。
私は鳥居を背にして、一歩、神域の外に踏み出した。
梓弓を左手に構え、右手で矢筒から矢を一本引き抜く。竹の矢。矢羽根は雉の羽を削いだもの。何の変哲もない矢だ。魔力も神気も込めていない。ただの矢。
けれど、当てるべき場所に、当てるべき力で矢を当てれば、それだけで十分に命を刈り取れる。
柵の最も大きな裂け目に魔獣が群がっていた。一体が前足で残った板を叩き、もう一体が隙間から頭をねじ込もうとしている。柵の内側では、壁に背を付けた村人たちが青い顔で身を寄せ合っていた。
距離、百五十メートル。こちらに来てから覚えた長さの単位。
遠い。だが、春日社の回廊から二百歩先の的を射抜いていた私の腕には、この程度は必中の射程内だ。
弓を起こし、弦に矢をつがえる。左腕で弓を押し出しながら、右手を耳の後ろまで静かに引く。梓の白木が軋み、弦が張り詰めて高い音を立てた。
息を吐く。
狙いは、柵を叩いている魔獣の頭部。正確には左の耳の付け根。獣の頭蓋は正面が厚いが、側面のここだけは骨が薄い。前世、鹿島の武者に教わった急所だ。
放つ。
弦が鳴った。矢は一瞬で百五十メートルの空間を貫いた。風切り音すらほとんどない。矢は魔獣の左耳の付け根を正確に射抜き、頭蓋を貫通して反対側のこめかみから突き出た。
魔獣は柵を叩こうとしていた前足を上げたまま、横倒しに崩れ落ちた。痙攣すらない。脳幹を一撃で断ち切られたのだ。
間髪入れず、二本目を矢筒から抜く。
死んだ仲間に一瞬気を取られた群れの中から、一体が身を翻して民家の石造りの屋根に飛び乗ろうとしていた。屋根に上がられたら、板壁を引き剥がされて中にいる村人が襲われる。
跳躍の頂点、最も重力に逆らい動きが止まる一瞬を狙った。
放つ。
矢は跳躍中の魔獣の喉を下から射抜いた。首の太い血管と気管をまとめて断ち切り、鏃が頸椎の間を抜けて背中側にわずかに突き出る。空中で勢いを失った魔獣は、屋根にかけた前足が滑り、地面に落下した。喉から赤黒い血が噴き出し、二度足を痙攣させて動かなくなった。
三本目。
背中を向けて逃げる村人の姿が見えた。マルタだ。野良着の裾を掴みながら、年齢に似合わない速さで走っている。だがその数メートル後ろに、地面すれすれまで体を伏せた魔獣が迫っていた。追いつくまで数秒もない。
引いて、放つ。
三本目の矢は、走るマルタの左肩からわずか数センチのところを掠め、突風で彼女の髪を揺らしてから、背後の魔獣の左目に吸い込まれた。眼窩を貫通した鏃が脳を破壊し、魔獣は走っていた勢いのまま前のめりに崩れ、地面を滑ってマルタの足元で止まった。
マルタが足を止め、振り返った。足元に転がる死骸を見下ろし、それから百五十メートル向こうに立つ私を見た。私は次の矢を矢筒から抜きかけた姿勢のまま、彼女と目が合った。
マルタは一つ頷いて、再び走り始めた。逃げるのではなく、近くで腰を抜かしている子供を助けに向かっている。この人は、本当に肝が据わっている。
三体を仕留めた。残りは十二体。
だが、三本の矢で仲間が音もなく即死したことで、魔獣の群れに動揺が広がっていた。あちこちで足を止め、鼻を鳴らし、倒れた仲間を振り返っている。
そして、十二対の赤い目が一斉にこちらを向いた。矢の出所を突き止めたのだ。
先頭の一体が低い唸り声を上げた。それを合図に、十二体が一斉に地面を蹴った。扇状に広がりながら、私に向かって殺到してくる。左右から回り込んで包囲しようとする動き。群れの狩りだ。獣のくせに、なかなか賢い。
残りの普通の矢は十二本。一対一で射抜いていけば数は足りるが、全て急所に当て続けなければならないし、包囲されれば弓は不利になる。
数で来るなら、こっちだ。
私は矢筒から、一本だけ形の違う矢を引き抜いた。
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