第37話「冬の訪れ」
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朝の広場。澄んだた冷たい空気を、盛大な破裂音が切り裂いた。
「ぶえっくしょい!」
ダリオという名の若い男が、鼻を真っ赤にして身をよじらせている。
「ダリオ、鼻水を竹につけるな。商品だぞ」
ブルーノの鋭い視線と冷え切った声が、工房の奥から容赦なく飛んだ。
ダリオは慌てて分厚い上着の袖で鼻を擦り上げ、割りかけの青竹を反対の手に持ち替える。ブルーノの一番弟子を自称するこの青年は、刃物の扱いは悪くないのだが、とにかく寒さに弱い。朝の底冷えが工房に吹き込むたび、こうしてけたたましいくしゃみを放ち、そのつどブルーノに睨みつけられる。
ここ数週間の、村の新しい風物詩だった。
足元の霜を踏みしめるたびに、ザクッ、という乾いた音が鳴る。
本格的な冬が訪れていた。
とはいえ、ルーテ村が位置する南東の辺境は温暖な土地柄だ。雪が降ることは稀で、遥か遠くに見える山の頂が薄っすらと白く化粧をする程度。朝晩はさすがに冷え込み、息を吐けば白く霞むが、日中に陽射しが強い日は、暖炉に火を入れる必要がないくらいには暖かい。厳しい冬籠りを強いられることはなく、人の往来も途絶えない。
この一ヶ月余りで、村の景色はまた少し変わっていた。
広場に建てられた竹細工の工房は、ブルーノの指揮のもと、ダリオを含む若い男衆三人が交代で作業にあたる体制が整っていた。
グラキウスが提案した動線の改善はさらに洗練され、今では割り場、編み場、漆塗り場、乾燥場が完全に分離している。それぞれの持ち場から小気味良い音が絶え間なく響き、生産量は当初の三倍近くに達していた。ペドロが半月前に二度目の買い付けに来た時には、荷馬車に載りきらないほどの在庫の山を前にして、嬉しい悲鳴を上げて頭を抱えていたほどだ。
学問所は、週に三回の定期開催になっていた。
生徒はリーナを筆頭に子供が七人。それに加えて、恥ずかしそうに頭を掻きながら申し出た大人が三人。私とマルタが交代で教えているが、マルタの竹の鞭を使った指導は容赦がない。大人の生徒たちは、マルタの当番の朝になると、まるで処刑台に向かうような青い顔をしている。
そして、グラキウスの左腕は、ほぼ完全に動くようになっていた。
拳を力強く握り込み、重い丸太を持ち上げ、両腕で難なく薪を抱える。到着した時には肩から先が死んだように垂れ下がっていた腕が、今では両手で木杯を包み、立ち上る薬湯の湯気を心地よさそうに吸い込んでいる。
マルタは得意げに胸を張り、グラキウスは鳥居の柱を撫で、私は竹箒を動かす。三人の間で毎回繰り返されるやり取りは、すっかり朝の決まりきった挨拶のようになっていた。
村の生活は活気に満ちている。
だが、森の穢れは、相変わらず重い。
キマイラ以降、大型の個体が村のすぐ近くに現れることはなかった。しかし、見えない結界の外縁部で、澱んだ空気に引き寄せられるように小型の魔獣が増えている。週に一度か二度、私かグラキウスが外縁部を歩き、気配を絶って処理している。
処理のたびに肌にへばりつく穢れを祓うための禊が必要で、真冬の小川での水浴びは、骨の髄まで凍りつくような冷たさだった。
穏やかだが、水面下で薄氷を踏むような、油断のならない日々が続いていた。
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その日の昼下がり。
私は社殿で、五柱の御札の書き直しを行っていた。
社殿の内陣に祀っている御札は、風雨と神気に晒されて、墨の文字が少しずつ薄れていく。定期的に新しい紙に書き直し、古い御札は丁重にお焚き上げするのが、神主としての務めの一つだ。
懐から筆入れを出し、小刀で切り揃えた紙を膝の上の板に広げ、五柱の大神の御名を、一柱ずつ、心を込めて書き入れていく。
この作業の時間は、好きだ。
墨の深く静かな匂い。筆の穂先が紙の表面を滑る、かすかな摩擦の感触。文字が結ばれ、完成した瞬間に和紙の奥底からふわりと灯る翠色の光。
春日社で過ごした静謐な日々を、最も鮮明に思い出させてくれる時間だった。
隣から、ひょっこりと小さな頭が覗き込んできた。
「ハルさん先生、今日は学問所の日じゃないのに、何書いてるの?」
リーナだ。この子は最近、私の書く文字の形に強い興味を示している。ただし、私が符に使うのは祝詞の文字であり、学問所で教えているこの世界の共通文字とは全くの別物だ。
「御札ですよ。これは学問所で教えている字とは違う文字なので、読めなくて当然です」
「ハルさんの故郷の字なんでしょ? いつか教えてくれる?」
「いつか、ね。まずは共通文字をちゃんと覚えてからですよ」
リーナはぷくっと頬を膨らませた。
「えー。共通文字は難しいよ。昨日も『羊』と『牛』を間違えたし」
「角の数が違うだけですからね。よく見れば分かりますよ」
「角の数で意味が変わるって、字ってほんと面倒くさい」
ぶつくさ文句を言いながらも、リーナは私の隣にちょこんと座り込んだ。
何をするでもなく、ただ私の筆の先をじっと見つめている。墨が紙に染み込み、文字が形を成すたびに灯る淡い光を、飽きることなく眺めている。
ふと、広場の方が騒がしくなった。
遊んでいる子供たちの声ではない。大人の、驚きと喜びが混ざったような声。ゴルドの太い声が、短く力強く応じているのが聞こえる。
リーナが顔を上げた。
「…誰か来たみたい」
立ち上がり、広場に向かって矢のように駆け出していく。その足の速さは相変わらずだ。
私は符を書く手を止め、静かに感覚を澄ませた。
複数の人の気配。四つ。穢れはない。
重心が低く、地面を確かに捉える、極めて訓練された足運び。
この足音の律動には、覚えがある。




