第35話「白翼の閃き」
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最初に見えたのは、血に飢えた獅子の頭だった。
赤銅色の鬣を振り乱し、人間の腕ほどもある黄色い牙を剥き出した巨大な獅子の顔が、木々を押し退けて森の暗がりから飛び出してくる。体は通常の獅子よりもさらに一回り大きく、ペドロの乗る荷馬車ほどもある。
だが、その体の後半は獅子ではなかった。
背中の肩甲骨のあたりから、角の生えた山羊の上半身が不気味に生え出し、もう一つの頭としてぐるりと周囲を睥睨している。そして尻からは太く長い大蛇が伸び、それ自体が独立した意志と殺意を持つかのように、鎌首をもたげてうねっている。
三つの頭を持つ、三つの獣が冒涜的に融合した怪物。
「キマイラか」
グラキウスの低音の声が耳朶を打つ。
「キマイラ?」
「ああ。こんな場所に居ていい魔獣ではない。深い森の最奥か、瘴気に満ちた古い地下遺跡にしか生息しないはずのものだ」
「ずいぶんとすごいのが来ましたね」
キマイラという魔獣、穢れの密度が異常だ。
体表に、紫黒色の靄が粘液のように纏わりついている。目に見えるほど濃く、実体化した穢れ。
自然発生の魔獣には、とても見えなかった。
グラキウスの言葉が脳裏に蘇る。『必ず、先兵を送り込んでくる。村の防備を試すために』
「ハル殿」
グラキウスの声が、巨大な獣の咆哮の中でも、静かに、しかし明瞭に耳に届いた。
「あれは通常のモンスターではないな」
「ええ。穢れが目に見えるほど濃い。自然の生き物じゃありません。誰かが、あれを作り、ここに送り込んでいる」
「やはりか。森の奥の『意志』とやらの初手というわけだな」
キマイラが天を仰いで咆哮を上げた。
獅子の頭が腹の底から吠え、山羊の頭が耳をつんざく甲高い悲鳴のような声を発し、蛇の尾が地面を激しく叩いて震動を起こす。三重の絶叫が空気を震わせ、村の家々の板戸がビリビリと鳴った。
梓弓に矢をつがえたが、狙い処がわからない。一瞬のとまどいをグラキウスが察した。
「待て、ハル殿」
分厚い右手が、腰の剣の柄に触れた。純白の翼の意匠が、彼の太い指に包まれる。
「わしにやらせてくれ。一つだけ、確かめたいことがあるのだ」
「確かめたいこと?」
「この老いぼれた体が、実戦でまだ通用するかどうかだ。あの門のおかげで、少しは気力を取り戻した。だが、体が昔の剣筋を覚えているかどうかは、試してみなければ分からん」
キマイラが四つ足で力強く地を蹴った。
巨大な獅子の体が、その巨体に似合わぬ信じられない速度で突進してくる。蹄が地面を深く抉り、土煙が上がる。獅子の巨大な顎が大きく開き、鋭い牙が陽光を反射して白く光った。
グラキウスが抜刀した。
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擦り切れた鞘から滑り出た刃は、思ったよりも長かった。
片手半の剣。両手でも片手でも扱える長さの、完璧に均整の取れた直刀。
刃は曇り一つなく鏡のように磨き上げられ、そこに突進してくるキマイラの姿が鮮明に映り込んでいた。刃紋は波打つように流麗で、刀身全体が、まるで月明かりを固めたような淡い銀色の光を帯びている。
柄頭の白い翼が、抜刀の衝撃で微かに振動し、キーンという澄んだ金属音を発した。まるで、永き眠りから目覚めたことを喜んでいるかのように。
グラキウスが、その剣を右手一本でスッと構えた。
姿勢が、変わった。
腰が深く落ち、重心が地面に吸い込まれるように完璧に安定する。右腕はわずかに引かれ、剣先が斜め下を向いている。左腕はだらりと垂れたまま。片腕だけの構え。本来ならバランスの悪い、隙だらけの不完全な姿勢のはずだ。
だが、そこに一切の隙はなかった。
剣を持つ右腕を中心に、グラキウスの体が一つの究極的な力学的完成形を描いている。余計な力みが何一つない。見栄を張るための飾りがない。型の名前すら不要な、純粋な「殺すための構え」。
何千回、何万回と剣を振り、数え切れない命を奪ってきた人間だけが到達できる、無駄を極限まで削ぎ落とした氷のような姿勢だった。
突進してくるキマイラの獅子の頭が、グラキウスに向かって巨大な顎を開いた。頭からまるごと噛み潰そうとしている。
グラキウスは、動かなかった。
キマイラの牙がグラキウスの顔面に届く、その数ミリの寸前——彼の体が、水が岩を避けて流れるように、ほんのわずかに横へ滑った。
最小限の動き。半歩にも満たない体の移動。だがその流麗な半歩が、キマイラの噛みつきの軌道を完全に外していた。巨大な顎が、グラキウスが直前までいたはずの空間の空気を噛み砕き、虚しく空を切る。
そして、そのキマイラの体勢が崩れた、空振りの一瞬に。
銀色の閃光が走った。
グラキウスの右腕が、下から上へ、一度だけ鋭い弧を描いた。
音はなかった。風すら切らなかった。あまりに速く、あまりに精密な斬撃が、音を置き去りにしたのだ。
キマイラの獅子の太い首の側面に、すっと細い赤黒い線が走った。
刃が通った跡だ。たった一振りで、首の三分の二の骨と肉を断ち切っている。獅子の頭が一瞬にして力を失い、がくりと不自然な角度に傾いた。
だが、キマイラは死なない。三つの頭のうち一つを失っただけだ。背中の山羊の頭が怒り狂ったように甲高い叫びを上げ、背後から蛇の尾が鞭のようにしなり、グラキウスの足元を薙ぎ払いにきた。
グラキウスが、羽のように軽く跳んだ。
蛇の尾を飛び越え、空中で体を半回転させ、着地と同時に山羊の頭に向かって深く踏み込む。
二閃目。
今度は完全に、世界から音が消えた。
銀の剣が山羊の首を通過した時、まるで水面に指を通したかのように、一切の抵抗感がなかった。山羊の頭がポーンと宙に浮き、まだ甲高い悲鳴を上げながら、ドサリと地面に転がった。
残るは、蛇だけだ。
胴体の制御を失った蛇の尾が、狂ったように暴れ回る。太さは大人の胴体ほどもあり、その先端に鎌首をもたげた大蛇の頭が、毒液の滴る牙を剥いてグラキウスに飛びかかった。
グラキウスは、避けなかった。
飛びかかってくる蛇の口の中に、自ら剣を深く突き入れたのだ。
銀色の刃が、蛇の頭を内側から真っ直ぐに貫通し、背面の鱗を突き破って飛び出た。蛇の体が痙攣するように一瞬だけビクンと跳ね、それきり、糸が切れたように動かなくなった。
三つの頭を全て失ったキマイラの巨大な体が、ゆっくりと、地響きを立ててその場に崩れ落ちた。
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村の入り口に、重い静寂が降りた。
土煙が晴れていく中、グラキウスが剣を蛇の頭から引き抜き、刃についた血を一度鋭く振って払った。紫黒色の血が点々と地面に散り、触れた草が一瞬でジュッと音を立てて黒く枯れる。猛毒と穢れを極限まで帯びた血だ。
三閃。たった三度の右腕の斬撃で、キマイラの三つの頭を全て断ち切った。
華麗な剣技ではなかった。魔法の炎や雷を纏うわけでもなかった。ただ、恐ろしく的確で、恐ろしく速く、恐ろしく重い。一撃一撃が、急所への最短距離を通り、最大の破壊効果を生んでいた。
一切の装飾のない、実戦だけで磨き上げられた、純粋な一撃必殺の剣。
私は梓弓を構えたまま、ついに一度も矢を放たなかった。一矢たりとも放つ必要を感じなかったのだ。
グラキウスの広くて分厚い背中を見ながら、私は息を呑んだ。
冒険者カイルの剣も見事だったが、住んでいる次元が違う。
カイルは優秀な冒険者の剣だ。だがグラキウスのそれは、何十年もの途方もない歳月を、命のやり取りの最前線で指揮し、自らも血の雨を浴び続けてきた者だけが持ち得る、絶対的な死の凄み。
…この人は、一体何者なのだ。
だが、その思考は、直後に起きた出来事で完全に吹き飛んだ。
グラキウスが、剣を鞘に納めようとした右手を、ピタリと止めた。
顔が苦痛に歪んでいた。
動かないはずの左腕を、右手で強く押さえている。右手の力が抜け、銀の剣が手から離れて地面に突き刺さった。白翼の柄が陽光の中で小刻みに揺れる。
「グラキウスさん!」
私は弓を放り出し、駆け寄った。グラキウスは片膝をつき、歯をギリッと食いしばっていた。左腕を押さえる巨大な右手が、痙攣するように震えている。
「…すまん。大丈夫だ。大丈夫だが——左腕が、過剰に反応しよった」
「反応?」
「あの化け物を斬った時、刃を通じて、奴の濃密な穢れがこちらに流れ込んできた。それが左腕に溜まった古い穢れの澱みと共鳴して、暴れておる。——痛い。かなり、痛い」
老兵の額に、脂汗が浮いていた。
私は即座に懐から筆を抜いた。空中に『布留部由良由良止 玉鎮』と神気を込めて書き殴り、グラキウスの左腕に掌ごと力強く押し当てた。
澄んだ翠色の光が力強く灯り、彼の左腕の黒い澱みを包み込んで中和していく。
グラキウスの荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。苦痛に歪んでいた顔から、痛みの色がすうっと薄れていった。
「…すまんな。若いもんに、無様なところを見せた」
「無様なものですか。三閃でキマイラを瞬殺した直後に、何を言っているんですか」
「三閃? ほう、太刀筋を数えておったのか」
「見ていましたから。全部、瞬きもせずに」
グラキウスが、ふっと苦笑した。痛みの名残がある顔で、だが、どこか照れくさそうに。
「…まだ少しは、体が動くようだ。ありがとう、ハル殿。この村のおかげだ」
「治癒の符のおかげですよ、と言いたいところですが、鳥居のおかげでもありますね」
「また、鳥居の手柄にするのか」




