第33話「似たもの同士」
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村の外れの柵を抜け、古い交易路から魔の森に面した獣道へ折れる。
神域の結界の目に見えない境目を越えた瞬間、大気の質が劇的に変わるのが分かった。
清浄で軽い気がふつりと途切れ、代わりに、じわりと肌にまとわりつくような、湿った重い泥のような空気が押し寄せてくる。
グラキウスもすぐに感じ取ったらしい。太い眉をひそめ、鼻をひくつかせた。
「…ひどく嫌な匂いだな。死骸が何日も沈んだままの、腐った沼のような臭気だ」
「穢れの匂いです。分かりますか」
「鼻だけは昔から利くのだ。火加減を見誤って飯を炭にするくせにな」
「鼻が利くのと、鍋の火加減の感覚は、全く別だと思います」
「気休めの言い訳にもならんか」
二人で、森の縁に沿って慎重に歩く。
私は神経を研ぎ澄ませて穢れの分布を肌で読み、グラキウスは地形の起伏、木々の間隔、そして視界の開け方を、鷹のような目で読んでいた。
「ハル殿。この道は、村から森の中に入る唯一の経路か」
「いえ、北側にも細い獣道がいくつかあります。ただ、人がまともに歩けるほどの幅があるのはこの道だけです」
「ふむ。となると、魔物が村に向かってくる場合、この道か、北の獣道を抜けてくることになるな。数が多ければ藪を力任せに突っ切ってくることもあるだろうが、大型の個体は動きやすいこの道を使う可能性が極めて高い」
「…詳しいですね。地形の読み方と、敵の動線予測が」
「昔、嫌というほどそういうことを考える仕事をしていた」
森の縁をさらに進むと、木々の密度が急激に増し、頭上で絡み合う枝葉が秋の陽光を完全に遮り始めた。空気がさらに一段と重くなり、肌寒さが増す。
穢れの濃度が、明らかに上がっている。先月カイルたちとここを歩いた時とは、もはや比較にならない異様な濃さだ。
「ハル殿。足元を見ろ」
グラキウスがピタリと立ち止まり、湿った腐葉土の地面を指差した。
視線を落とすと、そこには生々しい獣の足跡があった。
三本の太い指の、深くえぐれた爪痕を伴う巨大な足跡。通常の森の熊や狼のものではない。
「魔物の足跡ですね。かなり大きい」
「ああ。しかも、複数の種類が混ざっている。この深く抉れた爪痕は猪型の魔獣だが、こちらの丸みを帯びた蹄の跡は鹿型だ。…この地面の落ち葉を平らに引き摺ったような跡は、おそらく蛇型か蜥蜴型の大型個体だ。複数の種が、全く同じ方向に移動している」
私は顔を上げて、隣のグラキウスの横顔を見た。
この老人は、一瞥した足跡の形状から獣の種類を判別し、歩幅から移動方向を読み取り、複数の種が争うことなく混在して移動していることまで、瞬時に見抜いた。
これは単なる猟師の知識ではない。魔物の生態と行動原理を熟知した者の、恐るべき観察眼だ。
「…グラキウスさん」
「何だ」
「詳しいですね」
「…昔取った杵柄、というやつだ」
グラキウスが白い髭を撫でながら、ふいと視線を逸らした。
ほんの少しだけ、ばつの悪そうな顔。この人は、自分の隠している過去の能力が垣間見える瞬間を、ひどく居心地悪く思っているのだ。ただのポンコツな居候でいたいのに、長年染み付いたクセが、つい漏れ出てしまう。
私はそれ以上追及しなかった。追及する代わりに、森の奥から流れてくる穢れの流れに意識を深く集中した。
「…森の奥。あの方角に、巨大な穢れの塊があります。前に来た時よりも、ずっと近い。少しずつ、まるで呼吸するように膨張しながら、こちらに向かってきているのを感じます」
「向かっている、か。澱みが受動的に広がっているのではなく、能動的にこちらへ侵食していると」
「ええ。明確な方向性がある。それが一番、気味が悪いんです」
グラキウスが腕を組んだ。右腕だけで。
左腕はまだ完全には上がらないが、肘から先は以前より明らかに動くようになり、指先が微かに震えている。
「ハル殿。穢れに方向性がある、とはどういうことだ。わしの知る限り、瘴気なら、水が低きに流れるように、濃い場所から薄い場所へ自然に広がっていくものだが」
「本来はそうです。穢れは意志を持たない。溜まるところに溜まり、流れるところに流れる。でも、ここの穢れは違う。まるで、誰かが意図的に水門を開いて押し出しているような、悪意のある感覚があるんです。以前、冒険者のカイルたちにも同じ話をしました」
「押し出している『誰か』。それは、森の奥にいると」
「いる、と思います。確証はありませんが」
グラキウスが、目を細めて森の奥の深淵を凝視した。
鬱蒼とした木々の向こうは、もう陽の光が全く届かない漆黒の暗がりだ。その闇の中から、確かに、重く湿った瘴気が脈を打つように、這い寄るように流れてきている。
「…深入りは今日はやめよう。ハル殿の言う通り、縁の偵察だけで十分だ。だが、一つだけ、老いぼれの経験から言えることがある」
「何ですか」
「意志を持って穢れを押し出してくる存在がそこにいるなら、それはいずれ、遠巻きの偵察や緩やかな侵食だけで満足しなくなる。必ず、先兵を送り込んでくる。村の防備と、こちらの戦力を正確に試すためにな」
「先兵」
「ああ。森の奥にいるものがどれほどの知性を持っているかは分からんが、明確な意志があるなら、必ず戦略がある。まず小さな個体で様子を見て、次に少し強い個体を送り、そしていずれ…」
グラキウスはそこで言葉を切った。しかし、その先の言葉は明白だった。
いずれ、村を滅ぼすための本気の一撃が来る。
「…帰りましょう。ここに長くいると、服にまで穢れが染み付きます」
「そうだな。帰るとしよう。こんな嫌な空気の場所に長居しては、せっかく良くなってきた体が鈍る。それに、腹も減った」
村への帰路は、往路よりもずっと足が軽かった。
森の重く粘り気のある空気を抜け、見えない結界の境目を越えた瞬間、澄み切った秋の風が顔を優しく撫でた。
思わず二人とも立ち止まり、深く、深く息を吸う。清浄な空気が肺の隅々まで満たし、森で纏った薄い穢れを洗い流していく。
「…この空気は、やはりたまらんな。まるで澄んだ冷水で魂まで洗われるようだ」
「神域の空気ですから」
「あんたの祀る神の力、か」
「私の力ではないですよ。私はただ、毎日掃除しているだけで」
「また、それか」
グラキウスが呆れたように、だが心地よさそうに笑った。
村の景色が見えてきた。
漆黒の鳥居が、秋の柔らかな陽光の中で静かに、揺るぎなく佇んでいる。その向こうの広場から、竹細工工房の活気ある賑わいが聞こえ、子供たちの無邪気な笑い声が風に乗って届いてくる。
「ハル殿」
「はい」
「あんた、この村を守りたいのだな」
「ええ。ここは私の居場所ですから」
「良い場所だ。命を懸けて守る価値がある」
グラキウスの声に、ほんの少しだけ、過去の悔恨のような重みが混じった。
「…グラキウスさんにも、命を懸けて守りたかった場所があったんですか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。だがグラキウスは怒りもせず、遠い目で、木々の向こうの空を見つめていた。
「…あった。守り切れなかったがな」
「…そうですか」
「お互い、似た者同士かもしれんな」
それだけだった。それ以上は語らなかったし、私も問わなかった。
鳥居の前に着くと、リーナが待ち構えていた。
「おかえりー! 偵察仲良し、楽しかった?」
「偵察仲良しという言葉は、定着させないでいただきたいのですが」
「もう定着したもん。おじいちゃんもさっき使ってたよ。『あの偵察仲良しはまだ帰らんのか』って」
ゴルドまで使っているのか。村長が公認したなら、もう手遅れだ。
「ハルさん、グラさん、お昼ご飯できてるよ。今日は豆のスープ!」
「おお、マルタ殿の豆のスープか。それは何よりの楽しみだ。わしが作ると、豆が全部小石のような炭になるからな」
「グラさん、豆も焦がすの!? すごいね、逆に才能だよ!」
「褒めておるのか、心底馬鹿にしておるのか」
「両方!」
リーナに両手をご機嫌に引かれて、三人で広場に向かう。グラキウスが大きな体を揺らしながら、リーナの小さな歩幅に合わせて歩いている。
その大きく頼もしい背中を見ながら、私はふと思った。
似た者同士と、この人は言った。
何が似ているのかは聞かなかった。聞かなくても、痛いほど分かったから。
守れなかった過去がある人間は、次に守るべきものに出会った時、絶対に二度と失わないために、他の誰よりも強くなれる。
それが本当かどうかは、まだ分からない。
でも、この頼もしい老人と一緒なら、信じたいとは思った。




