第32話「深くなる瘴気」
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秋が深まり、朝の空気に微かな冬の気配が混じり始めた頃。
社殿の板戸を滑らせて開けると、境内の榊の根元に、うっすらと白い霜が降りていた。吐く息がかすかに白く霞む。竹林の笹の葉が、昇り始めたばかりの朝日を受けて、冷たい露をきらきらと光らせている。
いつもの朝。いつもの掃き掃除。
サッ、サッ、と竹箒が地面を擦る音が、冷涼な空気に吸い込まれていく。
だが今朝は、箒を握る手が、ピタリと止まった。
風の匂いが、変わっている。
前回感じた時よりも、明らかに、そして決定的に重い。森の方角から地を這うように流れてくる穢れの気配が、一段階どころか数段階濃くなっていた。
古い鉄錆と、沼の底の腐った泥を煮詰めて混ぜ合わせたような、肺の奥にへばりつく不快な瘴気。神域の結界がそれを不可視の壁として弾いているから、境内の中にいる限り実害はない。だが、結界の外側、魔の森に面した村の端では、この穢れの匂いを、敏感な村人ならすでに悪臭として感じ取っているかもしれない。
「…そろそろ、確かめに行くべきか」
独り言のつもりだったが、背後から低い声が返ってきた。
「確かめに行くとは?」
振り返ると、グラキウスが漆黒の鳥居の前に立っていた。ゴルドの家から早朝の冷気の中を出てきたらしい。
ここ数日、この老兵は毎朝、日の出と共に鳥居を訪れるようになっていた。動かない左腕の回復のために、鳥居の柱に触れて神気を浴びる時間を取るのが、彼にとって欠かせない日課になっていた。
「おはようございます。早いですね」
「年寄りは朝が早いのだ。それより、何をぶつぶつ言っておった」
「…森の奥の気配が、ここのところ急激に重くなっているんです。以前、冒険者のカイルたちと話した時にも話題になったのですが、穢れの濃度と流れてくる方向性が異常で。少し、森の入り口まで偵察に行きたいと思っていまして」
「偵察か」
グラキウスの深い灰色の目が、すっと細められ、鋭い光を帯びた。
洗濯物を縮めてゴルドに怒られていた時の、あの間の抜けた老人の顔とは全く別の、戦場の空気を読み、血の匂いを嗅ぎ分ける戦士の目。
「わしも行こう」
「グラキウスさん、足の方は大丈夫なんですか」
「足はもう完全に治っておる。三日前から村の中を歩き回っても、骨の軋み一つない。この村の清浄な空気のおかげだろうな」
それは事実だった。到着時は古い交易路のど真ん中で大の字になって動けなかった老人が、今では杖もなしに背筋を伸ばし、広場を闊歩している。神域の浄化効果が、長旅の過労をたった数日で完全に削ぎ落としたのだ。
「それに」
グラキウスが鳥居の柱に分厚い右手を触れた。微かに目を細め、内側の変化を確かめるように息を吐く。
「左腕の指が、三本動くようになった。昨日は二本だった。この調子なら、あと数日で拳が握れるかもしれん」
「それは良かった。…でも、森の中は村とは逆に穢れが濃いです。グラキウスさんの左腕に沈殿している古い穢れと共鳴して、逆に悪い影響が出るかもしれない」
「構わん。空気が澱んだ場所を歩くくらいのことは、とうの昔に慣れておる」
慣れている。その短く重い一言に、この老人の壮絶な来歴が滲む。穢れを帯びた死地を歩くことに慣れている人間など、そう多くはない。歴戦の戦士か、異端を狩る教会の暗殺者か、あるいは最前線で血みどろの戦いを繰り広げる軍の将か。
「…分かりました。ご一緒いただけるなら心強いです。ただし、深くは踏み込みません。あくまで縁の偵察だけですから」
「承知した。で、いつ行く」
「午前中の掃除と祝詞を済ませてから。昼前に出発しましょう」
「了解した。では、それまで朝飯をしっかり食ってくる。ゴルドの作る粥が、そろそろ出来上がる頃合いだ」
グラキウスが鳥居から手を離し、身を翻して広場の方へ歩いていった。
その足運びは、やはりただの老いた旅人のものではなかった。重心が極端に低く、歩幅が一定で、足音がほとんど立たない。常に周囲の死角への警戒を解いていない。体に骨の髄まで染み付いた、極限まで訓練された者の歩き方。
…あの人と一緒なら、万が一何かあっても対処できる。
そう思える絶対的な安心感が、素直にありがたかった。
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出発前、社殿の裏手でリーナに見つかった。
「ハルさん、どこ行くの?」
「ちょっと森の近くまで散歩です」
「グラさんも一緒?」
「ええ」
「二人でお散歩? 仲良しだねえ」
リーナがにやにやしている。ひどく意味深な笑みだ。十歳の少女は、こういう冷やかしの時だけ妙に大人びた、小憎らしい顔をする。
「仲良しとかではなく、偵察です」
「偵察って何?」
「村の周りの様子が安全かどうか、確かめに行くことです」
「ふーん。じゃあ、偵察仲良しだね」
「…何ですか、その偵察仲良しって」
ゴルドが広場から太い声を飛ばした。
「おい、あんまり遠くの森の奥には行くなよ。昼飯までには戻れ」
「はい。昼までには」
「グラキウス、ハルさんの邪魔をするなよ。あんたは森の中でまた何かをぶっ壊しそうだからな」
「わしが邪魔になるかどうかは、ハル殿が判断することだ」
「邪魔にはならないでしょう」
マルタが家の窓から顔を出して、「あんたら、森に入るなら膝丈の草の茂みには気をつけな。この時期は冬眠前の凶暴な蛇が多いからね」と、薬草師らしい実用的な助言を投げてきた。




