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転生神主の日常 〜掃き清めた地が国となるまで〜  作者: 秋澄しえる


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第31話「条件と承認」

◆◇◆◇◆


 ゴルドの家の前で、ゴルドとグラキウスが切り株に腰を下ろし、向かい合って木杯で麦酒を飲んでいた。


 夜の帳はすっかり落ちたが、足元で燃える緩やかな焚火の赤い灯りが、二人の老いた男の顔を照らしている。


 私は社殿に戻る途中で、ゴルドに「おいハルさん、一杯どうだ」と声をかけられた。断る理由もないので、近くの丸太の上に腰を下ろし、並々と注いでもらった麦酒の木杯を受け取る。


 三人で、秋の夜のリーン、リーンという涼やかな虫の声を聞きながら、静かに喉を鳴らす。


「ゴルド。この村は、いい村だな」


 グラキウスが、焚き火を見つめながらぽつりと言った。


「唐突だな、爺さん」

「いや、素直にそう思ったのだ。王都から遠く離れた辺境だし、決して裕福とは言えん。だが、子供が驚くほど元気で、老人に確かな知恵があり、職人に一流の腕があり、村長に深い情がある。そういう村は、何があっても長く、しぶとく続くものだ」

「…褒めても酒のおかわりは出さんぞ。あんたはもう三杯飲んでる」

「そうだった。これ以上は明日の腰の痛みに響くな」


 グラキウスが木杯を置いて、夜空を見上げた。星が多い。半月が、ざわめく竹林の向こうに白く浮かんでいる。


「ハル殿」

「はい」

「あんたがこの村に来る前は、どうだったのだ。この村は」


 私が「さあ…」と答える前に、ゴルドが手元の杯を見つめながら、重い声で口を開いた。


「…酷いもんだったよ。魔の森から魔物は頻繁に来る、辰砂は行商人に安く買い叩かれる、若い者はこんな村に見切りをつけて街に出ていく。あと数年で村が飢えて消えるか、というギリギリの瀬戸際だった。たまに来る冒険者たちが、善意で魔物を間引いてくれなかったら、もっと早くに全て終わっていただろうさ」

「それが、今はこうだ」

「…ハルさんのおかげだ」


 ゴルドが、珍しく、一切の照れを捨てて明確にそう言い切った。

 酒の力もあるのだろうが、グラキウスという外部から来た初対面の相手だからこそ、胸の奥の本音を素直に口にできたのかもしれない。


「認めたくはないがな。あんまり口に出して認めると、ハルさんが調子に乗る」

「乗りませんよ。乗る余裕がないんです。竹こり人夫と、文字の教師と、神社の掃除で毎日手一杯なので」


 私のぼやきに、グラキウスが低く笑った。


「三つも立派な肩書があれば十分だ。わしなど、軍の肩書を捨ててただの老いた旅人になったら、途端に生活の何もできなくなった。自分の着るシャツの洗濯すら満足にできん」

「シャツの話はもういい。思い出すと腹が立つ」


 三人の間に、穏やかでくぐもった笑い声が広がった。

 焚き火の熱は届かず、秋の夜の冷たい空気が肌を刺すが、腹の底に落ちた酒の温もりと、この場の空気が、体の芯を確かに温めてくれている。


 ふと、グラキウスが右手で左腕をさすった。


「…この腕がな。今日、あの黒い鳥居に触れた時、久しぶりに指先が動いたのだ」


 ゴルドがピクリと眉を上げた。


「指が動いた? 左腕のそれ、単なる怪我じゃなかったのか」

「ああ。もう何年も、まともに動かん。王都のあちこちの医者や、高位の治癒師にも診てもらったが、呪いのようなものだと言われ、どうにもならなかった。…それが、あの門の柱に触れた時に、じわりと血が通って溶けるような感覚があってな。指先が、ほんの少しだが、確かに動いた」


 ゴルドが、じろりと私を見た。


「…ハルさんの仕業か」

「私は何もしていませんよ。鳥居がそこにあるだけです」

「また、それか」


 ゴルドが呆れたように大きなため息をついた。


 「あの鳥居がそこにあるだけ」で起きる奇跡のような現象の数々を、この村長はもう数え切れないほど見てきている。井戸の水がうまくなった。村人の病気が減った。竹が物理法則を無視して爆発的に伸びた。魔物が一切来なくなった。

 全て、ハルは「あの鳥居がそこにあるだけ」と言い張るのだ。


「グラキウスよ」


 ゴルドが、グラキウスの方を真っ直ぐに向いた。酒で赤くなった顔に、しかし村を預かる長としての、真剣な光が宿っている。


「あんたが過去にどこの誰で、何をしてきた人間だか、わしは知らんし、聞くつもりもない。だが、この村にいたいなら、なんぼでもいればいい。あんたは今日、工房の配置を直して、村の作業を倍近く速くした。それだけで、あんたに飯を食わせる価値は十分にある。だが…」


 ゴルドはそこで言葉を区切り、グラキウスを指差した。


「洗濯だけは、二度とするなよ」

「…ゴルド。恩に着る」

「恩なんかいらん。ハルさんもあんたも、ただ飯だけ食って、勝手に村の役に立ちやがるから困るんだ」


 ゴルドが残りの麦酒を一息に飲み干して、よっこらしょと立ち上がった。


「わしはもう寝る。爺さん、寝床はそのまましばらく使え。ハルさん、明日もまた竹が増えたら、それは全部あんたの責任だからな」

「善処します…」


 ゴルドが家の奥に消えた。残された二人の間に、虫の声と、パチッと爆ぜる焚き火の音だけが流れている。


「…ハル殿」

「はい」

「ゴルドは、良い男だな」

「ええ。とても不器用ですけど」

「不器用な者ほど信用できる。言葉で飾らない分、行動が絶対に嘘をつかんからな」


 グラキウスが立ち上がり、腰の剣がかちゃりと鳴った。白翼の柄が月明かりを受けて、一瞬だけ鋭く銀色に光る。


「わしも寝るとしよう。…明日は洗濯以外のことで、何か村の役に立ちたいものだ」

「工房の動線改善だけで、もう数ヶ月分の働きにはなっていますよ」

「いや。あれはただ口を動かしただけだ。この村で生きていく以上、いずれ自分の手も動かさねばならん。この右腕と…あわよくば、左腕もな」


 グラキウスが、だらりと垂れた左腕を見下ろした。月明かりの中で、微かに動いた指先をじっと見つめている。その横顔には、長年諦めていた未来に対する、静かな希望の火が灯っていた。


「…おやすみなさい、グラキウスさん」

「おやすみ、ハル殿」


 老人がゴルドの家に入っていく背中を見送ってから、私は社殿への小道をゆっくりと歩いた。


 鳥居の前を通りかかった時、ふと足を止めた。


 黒漆の門が、月明かりの中で、いつもとは少し違って見えた。


 三日前にグラキウスが来てから、この鳥居に触れる人間がまた一人増えた。ただ、それだけのことだ。それだけのことなのに、鳥居が纏う神聖な空気が、ほんの少しだけ、また厚く、確かなものになったような気がした。


 三人で酒を飲んだ夜は、一人で板間に寝転がる夜より、ずっと短く感じた。

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