第30話「優しい重み」
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昼過ぎ。私が社殿の前の木陰で竹を割いていると、リーナがグラキウスの大きな右手を引っ張りながらやって来た。
「ハルさん! グラさんに、社を案内してあげていい?」
「構いませんよ。ただ、奥の御札には手を触れないでくださいね」
リーナの案内は、とても独創的だった。
「これがハルさんの竹林。にょきにょき勝手に生えるの。この間は、工房を突き破って生えてきて、おじいちゃんの顔がいつもの三倍赤くなったんだよ」
「三倍、というのは正確な測定か」
「うん。私の体感!」
「体感か。まあ、長年の経験に基づくなら、それも立派な測定法だ」
グラキウスが大真面目な顔で頷いている。この老人は、子供の言葉を決して馬鹿にしない。かといって大人が無理に子供に合わせるような不自然な媚びもない。ただ、一人の人間として対等に、面白がっている。
「こっちが漆の木。樹液を少しずつ集めるんだよ。ハルさんが教えて、ブルーノさんが塗るの。私はまだ触っちゃだめなんだって。かぶれるから」
「漆か。わしも昔、兵の装備に漆を塗る職人の仕事を見たことがある。あれは確かに、素手では触れん」
「グラさん、漆のこと知ってるんだね!」
「少々な。若い頃に少しだけ覚えた」
兵の装備。さりげなくこぼれ落ちる軍の経験。だが、リーナは気にも留めず、次の案内場所にぐいぐいと引っ張っていく。
「で、こっちがハルさんの鳥居! 黒くてすっごくかっこいいでしょ。ブルーノさんの漆塗り、世界一って私は思ってる!」
「世界一かどうかは分からんが、確かに惚れ惚れする見事な仕上がりだ。近くで見ると、漆の層の深さが分かる」
グラキウスが鳥居の前に立った。
大きな右手をゆっくりと伸ばし、黒漆の柱の滑らかな表面に、そっと指先を触れた。
その瞬間、老人の灰色の目が、微かに見開かれた。
指先から、清浄な神気が全身の血管を巡るように流れ込んだのだろう。呼吸が一つ分だけ深く、長くなり、強張っていた肩の線がほんの少しだけ緩んだ。
「…ハル殿」
「はい」
「この門に触れると、動かない左腕の奥が、熱くなる。痛みではない。むしろ、長年、骨の髄まで凝り固まっていた冷たい泥のような何かが、じわり、じわりと溶けだしていくような…不思議な感覚だ」
「…そうですか」
「気のせいだと言うか」
「気のせいかもしれませんし、そうでないかもしれません。ただ、もし痛みが楽になるのであれば、毎日触れてみてもいいかもしれませんよ。鳥居は誰にでも開かれていますから」
「…そうか。では、遠慮なく毎日ここへ来る」
グラキウスが漆黒の柱に厚い左肩を預け、静かに目を閉じた。秋の涼やかな風が、彼の白い髭をかすかに揺らしている。
その横で、リーナが不思議そうにハルアキとグラキウスの顔を見比べた。
「グラさん、鳥居好きなの?」
「ああ。この門は、不思議と魂が落ち着く。わしのような老いぼれでも、ここにいると、少しだけ体が軽くなるような気がするのだ」
「へー。私もここ好きだよ。ハルさんがいつもここにいるから」
「なるほど。ハル殿がいるから好きなのか。門が好きなのか」
「両方!」
リーナの即答に、グラキウスが腹の底から笑った。
大きな、何ひとつ遠慮のない豪快な笑い声が、高く澄んだ秋空に吸い込まれていく。この老人は本当によく笑う。そしてその笑い声は、不思議と周囲の空気を温め、人の心を解きほぐす力があった。
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社殿の前の広場で、二回目の学問所が開かれていた。
リーナと村の子供たち五人が地面に直接座り込み、私が木の棒で共通文字の基本を書いて見せ、子供たちが小枝で土の上にそれを真似て書く。マルタが横に座って、書き上がった文字の正誤を辛辣な口調で確認していく。
「はい。これが『村』という字です。左側の木の部分がこう、右側がこう」
「ハルさん、私のこれ合ってる?」
リーナが地面に書いた文字を覗き込むと、「村」の右半分が完全に崩壊しており、見知らぬ別の文字に進化していた。
「惜しいですね。右側の線が二本足りないのと、左側が多すぎます。これだと『村』ではなく『林』に近い字になってしまっています」
「えー! また別の字になっちゃった! 昨日は『リーヌさん』で、今日は『林』! 私、文字の才能ないのかなあ…」
「ありますよ。この歳で初めて文字を書き始めた人としては、筆順の飲み込みが早い方です。焦らず、一本一本の線を丁寧に置いていく感じで」
マルタが横から口を挟んだ。
「あたしが子供の頃は、親にケツを叩かれながら泣いて覚えたもんだよ。リーナは恵まれてるね、こんなに優しい先生がいて」
「先生じゃないです。私は神主です」
「先生だよ、ハルさん先生!」
リーナが無邪気に笑った。
この呼び名は、もう村の中で修正不可能らしい。
グラキウスが、少し離れた太い木の根元にどっしりと腰を下ろして、この光景を眺めていた。
広い背中を幹にもたれかせ、微かな笑みを浮かべている。子供たちが泥だらけの手で真剣に文字を刻む姿と、それを見守る神主と老薬草師の姿を、どこまでも穏やかで慈しむような目で眺めている。
学問所が終わり、子供たちが「また明日!」と散っていく中、グラキウスが立ち上がって私のそばに歩み寄ってきた。
「ハル殿。良いことをしておるな」
「リーナの勢いに押し切られただけですが」
「読み書きは、身を守る力だ。この辺境の子供たちが文字を覚えれば、悪徳商人に数字を誤魔化されなくなる。契約書の裏にある罠を、自分の目で確かめられる。記録をつけて、自分の仕事の成果を他者に正しく主張できるようになる。村の未来が、確実に、そして強固に変わるぞ」
「…大げさですよ」
「大げさではない」
グラキウスの声が、ほんの一瞬だけ低く、剣の切っ先のように重くなった。
「わしは長い間…文字を読めない若い兵たちが、文字を読める貴族や上官に都合よく使われ、最前線でただの肉の壁として磨り潰されていく光景を、山のように見てきた。読み書きができるかどうかは、自らの命の選択権に関わる。人としての尊厳そのものだ。あんたが今、遊びのように教えていることは、この村の子供たちの未来への、最大の贈り物だと思う」
文字を読めない若い者たち。都合よく使われ、磨り潰されていく命。
この重い言葉の奥にある、血の匂いのする具体的な光景を、私はあえて想像しなかった。想像する必要はない。この人がかつて何を見てきたかは、この人自身が語る時を待てばいいのだ。
「…買い被りすぎです。私はただ、リーナの笑顔に断れなかっただけで」
「断れなかった、か。それも立派な才能だ」
グラキウスが、厚い右手で私の肩をぽんと叩いた。
大きな手だった。骨太で、節くれだっていて、何千回、何万回も人を斬るために剣を握ってきたであろう手。
けれどその肩に置かれた重みはひどく優しく、深い肯定の言葉の代わりのようだった。
不思議な感触。
この村に来てから、こんなふうに肩を叩かれたことがなかった。ゴルドは不器用で身体的な親愛を示さないし、ブルーノは元々人に触れることを好まない。マルタは老婆で、リーナはまだ子供だ。
大人の男に、対等な重みで、その行いを認められ、肩を叩かれる。
ただそれだけのことが、胸の奥の柔らかな場所に、じわりと温かく沁み込んだ。




