第25話「不思議な旅人」
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「ハルさん、おはよー! 今日は大変じゃないよ!」
リーナがわざわざ「大変じゃない」と宣言しながら走ってくるのは、昨日の竹の暴走がよほど印象的だったからだろう。
朝露に濡れた草を踏むペタペタという足音が、境内に小気味良く響く。
「おはようございます。大変じゃないなら良かったです」
「うん! 竹も昨日ほどは増えてないし、おじいちゃんの顔もいつもの赤さだし!」
「いつもの赤さ。基準がそこなんですね」
朝の掃き掃除。サッ、サッ、と竹箒を動かしながら、低い声で祝詞を口ずさむ。秋の朝特有の、肺の奥まで澄み渡るような冷涼な空気が心地よい。
リーナが私の隣にしゃがみ込み、昨日から始めた「学問所ごっこ」の予習と称して、地面に木の小枝で文字を書く練習をしている。
「ハルさん、この字で合ってる?」
リーナが地面の土を引っ掻いて書いた文字を見た。この世界の共通文字で「リーナ」と書こうとしているらしいが、二文字目がひどく歪んでいて、見慣れない別の字になっている。
「惜しいですね。ここの線が一本多いです。これだと『リーナ』じゃなくて『リーヌ』になってますよ」
「えー! リーヌって誰!」
「知りません。でも、もしこの世界のどこかにリーヌさんがいたら、朝から勝手に名前を地面に書かれて、迷惑しているかもしれませんね」
「あはは! リーヌさんごめんなさーい!」
リーナが笑いながら、地面の文字を裸足の足の裏でぐしゃぐしゃと消した。こういう時の彼女の笑顔は、本当に朝の日の光そのものだと思う。
ふと。
竹箒を動かす私の手が、ピタリと止まった。
…何か、来ている。
魔獣の穢れではない。いや…人だ。途方もない穢れを抱えた人の気配。
古い交易路の方角から、ゆっくりと、土を引きずるような重い足取りで、まっすぐにこの村に向かって歩いてくる気配が一つ。
極度に研ぎ澄まされた刃のような、武力を持つ者の圧力。だが、敵意や殺気は一切ない。
むしろ、ひどく疲弊している。命の灯火が、今にも風前の灯のように消えかかっているほどの、極限の消耗。
「ハルさん? どうかした?」
リーナが小首を傾げて私を見上げた。
「…いえ。お客さんが来るかもしれないな、と思って」
「お客さん? ペドロさん?」
「いえ、ペドロさんとは違う人です。たぶん」
私は竹箒をそっと置き、古い交易路の方角へと視線を向けた。
これほどの業を背負った人間が、なぜこんな辺境の村へ向かっているのか。風が、微かに鉄錆のような血の匂いを運んできたような気がした。
◆◇◆◇◆
その気配がルーテ村の入り口に辿り着いたのは、昼前のことだった。
私が社殿の前で竹を割いていると、広場の方からゴルドの大きな声が上がった。いつもの怒鳴り声ではない。どこか戸惑い、困惑しきったような声だ。
「おい、誰か来い! 入り口に人が倒れとる!」
竹を割く小刀を置き、立ち上がる。リーナが「行こ行こ!」と私の袖を強く引っ張る。
広場を抜け、村の入り口にあたる古い交易路の始点まで歩くと、ゴルドが腕を組んで見下ろしている姿があった。
その足元に——いや、足元というより道のど真ん中に、一人の老人が大の字に仰向けで寝転がっていた。
寝転がっている、というのは正確ではないかもしれない。行き倒れた、の方が近い。だが、その倒れ方が妙に堂々としていた。
道の真ん中で、手足を大きく広げ、空を見上げるようにして、豊かな白い髭を胸の上に広げている。まるで、「この場所がちょうど良いから昼寝をしよう」とでも決めたかのような、謎の威厳と自然さがあった。
「…生きとるのか、この爺さん」
ゴルドが怪訝な顔で、靴の先でそっと老人の肩を突いた。
「…生きておるよ」
老人が、目を閉じたまま、地を這うような深い声で答えた。
「ただ、少々、足が限界でな。もう一歩も動けん。悪いが、このまましばらく寝かせてくれんか」
「道の真ん中で寝られたら、荷馬車が通れんだろうが」
「この道に、邪魔になるほど荷馬車が通ったのは、いつの話だ」
「…」
ゴルドが一瞬、完全に言葉に詰まった。確かに、この古い交易路を荷馬車が頻繁に通っていたのは二十年以上前の話だ。今は年に数回、ペドロの荷馬車が来るだけである。老人の反論は、屁理屈だが不本意ながら正しかった。
私は老人の傍に片膝をつき、静かに状態を確認した。
まず目に入ったのは体格だ。頬はこけ、痩せてはいるが、元々の骨格が異常に大きい。肩幅が広く、胸板も厚い。若い頃は熊でも素手で倒したのではないかと思わせるほどの偉丈夫だっただろう。年齢は七十前後か。白髪を短く刈り込み、風雨に晒された褐色の肌には深い皺が刻まれている。
節くれだった大きな両手には、無数の古傷と、剣の柄を握り続けたことで石のように固まった分厚いマメがあった。明らかに武に生き、武器を握り続けてきた者の手だ。
旅装束は粗末だった。泥と埃にまみれた外套はあちこちが擦り切れ、革のブーツもすり減って底が薄くなっている。
だが、腰の長剣だけは、明らかに異質だった。
鞘こそ何度も繕われた革巻きの粗末なものだが、柄の意匠が尋常ではない。柄頭に、純白の翼を象った精緻極まる神聖な装飾が施され、それが昼の陽光の下で、星のように微かな銀色の光を帯びている。
この一振りだけが、老人のみすぼらしい装いの中で、王宮の宝物庫から持ち出されたかのように浮き上がっていた。
そして、左腕。
私は気づいた。老人の左腕が、微かに不自然な角度で体の横に投げ出されている。力が入っていない。動かしていないのではなく、動かせないのだ。
老人の体の中に、通常の人間の致死量を遥かに超える、おぞましい量の「穢れ」が蓄積しているのを感じた。それは全身を巡っているが、特にあの左腕の奥深く、骨の髄にまで黒く重い泥のように集中して凝り固まっている。
長い、長い歳月をかけて少しずつ溜まったもの。自分では気づかないほど緩やかに、しかし確実に魂を蝕んできた穢れの澱み。
この人は、どれほどの年月、穢れを帯びた敵をその手で殺し続けてきたのか。
そしてその血と業の穢れが、最終的にこの左腕に行き場をなくして沈殿しているのだ。
「…お怪我は」
「怪我はない。ただの老いと疲れだ。足が棒のようになっとるだけで、寝れば治る」
老人が、ゆっくりと目を開けた。
深い灰色の瞳。知性と鋭い洞察力を隠し持ち、それでいてどこか世を捨てたような、飄々とした光が宿っている。
その目が、私を見た。
一瞬。ほんの一瞬だけ。老人の瞳の奥で、何かの気配が閃いた。
私の着ている白い衣と紫の袴を見て、その背後に立つ、少し離れた漆黒の鳥居を視界の端に収め、そして再び、私の目を真っ直ぐに見た。
値踏みではない。もっと深い場所、魂の根源のようなところで、私の持つなにかを感じ取ったような、鋭い反応。
「…変わった格好をしておるな、若いの」
「よく言われます」
「ここの者か」
「ええ。ここで神主をやっています」
「カンヌシ? 聞いたことのない称号だな」
「この辺りでは珍しい職業なので」
老人はふっと笑った。深い皺が動いて、猛禽のような顔つきが、思いのほか柔らかく親しみやすい表情になる。
「…面白い返しをする。気に入った。私はグラキウスだ。ただの旅人だよ」
「藤原春暁です。ハルとお呼びください。…立てますか?」
「立てん。足が完全に死んでおる」
「では、肩をお貸ししましょう」
「すまんな。重いぞ、わしは」
言葉の通り、尋常ではなく重かった。老人とはいえ、この筋肉と骨格の密度だ。
私の肩に左腕を回そうとして、グラキウスが微かに顔をしかめた。やはり、左腕が上がらないのだ。
「…すみません。右肩にしましょうか」
「ああ。左は、少々、具合が悪くてな。古傷のようなものだ」
古傷。この重すぎる穢れの蓄積を、本人はただの古傷だと認識している。医者にも治せなかったのだろう。教会の治癒術は魔力で修復するだけだ。穢れそのものを『祓う』ことができなければ、この症状は永遠に治らない。
右肩に老人の太い腕を回し、ゆっくりと立ち上がらせた。ゴルドが反対側から無言で支える。
「ゴルドさん、この方を少し休ませてあげたいのですが」
「うちに連れていこう。空いてる寝床がある」
「ゴルド、だったか。すまんな」
「気にするな。この村では、行き倒れを拾うのは恒例行事だ」
ゴルドがちらりと私を見た。数ヶ月前、私を拾った時のことを思い出しているのだろう。私たちはゆっくりとした足取りで、村の中へと歩き出した。




