第24話「白翼の剣」
◆◇◆◇◆
日がさらに傾き始めた頃。社に戻って、遅い午後の掃き掃除をしていた。
サッ、サッ、と箒を動かしながら、ふと、視線が西に向いた。古い交易路が続く方角。
夕陽が山の稜線に触れ始め、空を燃えるような茜色に染めている。
…赤い。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、視界を満たす美しい夕焼けの赤が、私の記憶の底にこびりついた、あの凄惨な「別の赤」と重なった。
業火に舐められ、轟音と共に崩れ落ちる回廊。
空気を焦がす熱。顔に降りかかる火の粉。喉を焼く煙。血の生臭い匂い。
…。
呼吸が浅くなり、箒を握る手が、木が軋むほどにぎゅっと強張った。
「ハルさーん!」
リーナの明るい声が、背後から飛んできた。
「マルタおばあちゃんが、学問所やるなら毎朝の掃除の後がいいって! 私が生徒第一号!」
「…はは。そうですか」
振り返って、自然に笑った。リーナの声のおかげで、手の強張りはもう解けていた。過去の亡霊は、夕陽の向こうに引っ込んでくれたらしい。
リーナが小首を傾げる。
「ハルさん、どうかした?」
「いえ。夕焼けが綺麗だなと思って」
「ほんとだ。きれー。鳥居が赤く光ってるみたい」
リーナが鳥居を見上げた。黒漆の表面が夕陽の残光を吸い込んで、燃えるような、それでいて静かな赤みを帯びている。
赤い鳥居。
…朱塗りの鳥居が、いつか建てられたらいいな。辰砂が朱の原料になることは、もう知っている。だが、それはまだ先の話だ。まずは、この村の暮らしだ。
「ハルさん、ご飯行こう! おじいちゃんが今日は芋の煮物だって!」
「芋ですか。楽しみですね」
リーナに手を引かれて、ゴルドの家へ向かう。秋の空気は涼しく、竹林がさわさわと心地よい音を立てている。広場では男衆が作業道具を片付け、子供たちが笑いながら走り回っている。
明日の朝は、また竹が異常に増えているのだろう。ゴルドがまた真っ赤な顔で怒鳴るのだろう。マルタが「ちょうどいい」と笑い、ブルーノが無言で作業台を直すのだろう。
それでいい。それが、この村の愛すべき日常だ。
ゴルドの家の煙突から、芋を煮る素朴で温かな匂いが漂ってくる。
私は、自分の右手をそっと開いてみた。数分前まで過去の幻影に囚われていたその手は、今はただの、竹箒を握る神主の手だった。
この温かな灯りだけは。この日常だけは…二度と。
◆◇◆◇◆
同じ夜。
ルーテ村から遥か西。木々が鬱蒼と茂り、月明かりすら届きにくい古い交易路の寂れた道を、一人の老人がゆっくりと歩いていた。
白く長い髭を胸まで伸ばし、風雨に晒された褐色の肌には深い皺が刻まれている。節くれだった大きな手。背は高く、厚い胸板と広い肩幅からは、かつては相当な偉丈夫であったことが窺える体躯だ。
だが、その歩みはどこか引きずるようで、常に左腕をわずかに庇うように歩いている。
旅装束は、質素を通り越して粗末だった。泥にまみれた外套と、すり減った革のブーツ。
だが、腰に佩いた長剣だけは、そのみすぼらしい装いの中でひどく異質だった。
鞘こそ何度も繕われた跡のある粗末な革巻きだが、柄の意匠が尋常ではない。柄頭には、白い翼を象った精緻で神聖な装飾が施されている。それが、木漏れ日の下でかすかに、だが誇り高く銀色に光っていた。
老人はふと足を止め、暗い山並みの向こうに目をやった。
…あの山の向こうに、昔、小さな村があったな。ルーテ、とか言ったか。もうずいぶん前に討伐任務で通りかかったきりだが、まだ人は住んでいるだろうか。
左腕が、また鈍く、骨の髄を削るように疼いた。
老人は顔をしかめ、右手で左腕を押さえる。もう何年も、この腕は自分の言うことを聞いてくれない。王都の最高位の医者にも診せた。教会の枢機卿クラスの治癒師にも頼んだ。だが、どれも駄目だった。治癒術の光を当てると、逆に反発して激痛が走るのだ。
まあ、仕方ない。この腕の呪いは、自分が背負うべきものだ。
長い年月、光の御名のもとに多くの命を奪い、多くの非情な判断を下してきた。その代償として、魂にこびりついた暗い澱みが、利き腕ではないこの左腕に溜まっている。それは、まだ神の慈悲なのかもしれない。
老人はふっと鼻を鳴らし、自嘲するように笑った。
「…慈悲、か。私如きにそんなものを賜る道理もないが」
誰に言うでもなく呟いて、再び重い足を引きずるように歩き出す。
道は暗く、長い。だが、老人の足取りは、肉体の疲労とは裏腹にどこか軽かった。行く宛のない旅は、それはそれで気楽なものだ。何しろ、遅刻も怠慢もない。うるさい上官もいなければ、守るべき部下もいない。面倒な討伐報告書を書く必要もない。
高位役職の重責を退いてから五年。かつての部下たちは、自分が温かい南の領地の片隅で、安楽椅子に座って静かに余生を送っていると思っているはずだ。
まさか一人で、こんな辺境の道を這うようにうろうろしているとは、夢にも思うまい。
夜風が、老人の白い髭を揺らした。
もう数日も歩けば、あのルーテ村に着く。着いたところで何があるわけでもないが、まあ、温かい麦飯と、雨風を凌げる屋根があれば、それで十分だ。久しぶりに、獣の気配を気にせずに横になりたいものだ。
老人は、月明かりの下で小さく欠伸をした。
白翼の柄を持つ剣が、腰元でかちゃりと、小さく、だが澄んだ音を立てた。
ただそれだけ。ただ金属が微かに触れ合っただけのその音色に、茂みの奥で老人の命を狙って息を潜めていた数匹の野犬が、肺を潰されたような悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように森の深淵へと逃げ去っていった。
老人は、逃げていく獣の気配に一瞥もくれず、ただ悠然と、月明かりの道を歩き続けた。
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