第23話「神域拡張?」
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午後。ようやく社に戻って、本来の掃き掃除と祝詞奏上を済ませた。
午前中の大騒ぎのせいで、いつもの日課がすっかり後回しになってしまった。祠の奥の五柱の御札の前に正座し、背筋を伸ばして二礼二拍手一礼。
「五柱の大神様。本日の遅参、お詫び申し上げます。竹が…暴走しまして」
神様に竹の暴走を報告している自分がなんだか可笑しくて、声に出しながら少し笑ってしまった。
社殿の板戸を開けて、境内を眺める。
今日も秋の空は高く、刷毛で引いたような薄い雲が流れている。漆黒の鳥居が午後の陽光を浴びて、深い黒の中に微かな艶を見せ、静かに村を守るように立っていた。
鳥居の向こうの広場では、ブルーノが完璧に修繕した作業台の上で、男衆が小気味良い音を立てて竹を割き、隣でリーナを含む子供たちが真剣な顔で竹を編んでいる。マルタが他の老婆たちと一緒に、漆と木くずを練る「刻苧」作りに精を出している。
村全体が、躍動している。一つの大きな営みとして。
つい数ヶ月前まで、この辺境の村には「細々と辰砂を掘って、たまに来る行商人に安く買い叩かれる」以外の収入源がなかった。それが今、竹細工と漆の技術が加わり、老若男女問わず、村人全員が何らかの役割と希望を持ち始めている。子供たちですら「編み手」として、立派に村の経済に貢献しているのだ。
私がやったことは何か。
竹箒を作るために竹を割いていたら、それをブルーノが見て漆塗りの水筒にした。マルタがそれを商機と見抜き、商品にした。子供たちが遊び半分で編み方を覚えた。そして、皆の活気で神気が濃くなり、竹が勝手に増えた。
…全部、成り行きだ。
私は一度も「村おこしをしよう」と旗を振ったことはない。「竹細工で外貨を稼ごう」と計画したこともない。ただ、日々の掃除に使うための箒を作っていただけだ。それなのに、気づいたら村の経済が巨大なうねりとなって動き始めている。
巻き込まれている。完全に。
しかし…。
広場から風に乗って聞こえてくる笑い声。刃物が竹を割くパーンという乾いた音。子供たちの無邪気な歓声。
それらが、心地よい音楽のように社殿まで届いてくる。
悪くないな。
悪くないどころか、結界の密度が、明らかに上がっているのが肌で分かる。
人々の何気ない生活の営みが生む、「ありがたい」「楽しい」という純粋な感情。それが明確な信仰の形を持たない祈り未満の小さな波動となって、見えない水脈のように鳥居に吸い込まれ、神域を満たしているのだ。
明確な言葉による祈りではない。ただ「ここは居心地が良い」「水が美味しい」「子供たちが元気で嬉しい」という、ごく自然な感謝。それだけでも、神の領域は確実にその思いに応える。
掃除して、祝詞を唱えて、あとは人々の暮らしに寄り添う。それだけで、場は清まり、結界はより深く、より強固に地に根を張る。
まあ、竹は伸びすぎるが。
◆◇◆◇◆
夕方近くになって、もう一つの事件が持ち上がった。
リーナが、漆にかぶれたのだ。
「ハルさーん! 手がかゆい! すっごいかゆい!」
広場から泣きそうな声で駆けてきたリーナの両手は、指先から手の甲にかけて、うっすらと赤い発疹が広がっていた。竹籠の編み方を子供たちに教えていた時、誤って漆の下地が塗られたばかりの竹材に素手で触ってしまったらしい。
「見せてください。…ああ、典型的な漆かぶれですね。大丈夫、すぐ治りますよ」
私は懐から筆入れを出し、小さな紙に『布留部由良由良止 玉鎮』と流れるように書き入れた。
泣きべそをかいているリーナの手の甲にその符をそっと当てると、淡い翠色の光が蛍のように灯り、肌の奥へ吸い込まれていく。同時に、赤く腫れていた発疹が、熱を奪われるようにすうっと引いていった。
「あっ、痒くなくなった! ハルさんの符、すごーい!」
「漆の近くで作業する時は、必ず手に油を塗ってからにしてくださいね。以前もブルーノさんに同じことを言いましたが」
「うん。ブルーノさんにもめっちゃ怒られた」
「でしょうね」
そこへ、ゴルドが血相を変えて駆けてきた。
「リーナ! 大丈夫か! 漆にかぶれて泣いとると聞いたが!」
「もう治ったよ! ハルさんがピカーって治してくれた!」
「…ハルさん、すまんな。何から何まで」
「いえ。子供は好奇心旺盛ですから仕方がありません。でもゴルドさん、漆の作業場には柵を作った方がいいかもしれませんね。子供が簡単に乾燥中の品に触れないように」
「そうだな。…ブルーノ! 聞いたか!」
遠くの工房から、ブルーノの低い声が返ってきた。「聞こえている。明日、柵を作る」。相変わらず必要最低限の返事だ。
リーナはもう手の痒みをすっかり忘れて、「ねえねえ、ハルさん、あのピカーって光る符、どうやって書くの? 私も書けるようになりたい!」と目を輝かせている。
「書けるようになるには、数十年の厳しい修行と滝行が…」
「えー、そんなに?」
「少なくとも、文字が正しく読めるようになってからですね」
「私、文字読めるよ! …ちょっとだけ」
「ちょっとだけでは符は書けません」
リーナはぷくっと頬を膨らませて、「じゃあ、ハルさんが文字教えてよ」と食い下がってくる。
…文字を教える?
それは、つまり、読み書きの教育ということか。この村の子供たちに。
この世界の言葉と文字。天児屋根命の御力のおかげで、私は母国語のように不自由なく読み書きができる。だから教えること自体は容易だ。
だが、この辺境の村には、なにかを学ぶような「大学寮」のような概念そのものがない。文字を不自由なく読めるのはゴルドとマルタくらいのもので、若い世代や子供たちはほとんど読み書きができない。
竹細工の量産が始まり、ペドロのような商人との商取引が増えれば、数を数える能力、正確な記録をつける能力が村人に必須になる。
…また、巻き込まれようとしている。
「リーナ。文字を教えるのは構いませんが、私一人では日々の神事があるので手が回りません。マルタさんにも先生として手伝ってもらえるか、聞いてみてくださいね」
「やったー! マルタおばあちゃんに聞いてくる!」
リーナが弾かれたように走り去った。
私は竹箒の柄にもたれかかり、夕暮れが近づく秋の空を仰ぎ見た。
神主としての掃除と祝詞が私の唯一の仕事のはずなのに、気がついたら竹こり人夫で、職人の弟子で、かぶれの治療師で、そして今度は文字の先生。
…何者なんだ、私は。
「ただの神主ですよ」と夕空に向かって呟いてみたが、さすがに自分でも無理があると思った。
長く伸びた自分の影が、まるで「お前の背負うものはこれからもっと増えるぞ」と笑っているように見えた。




