第22話「暴走する若竹」
◆◇◆◇◆
「ハルさん、おはよー! 大変だよ!」
いつもの朝。だが、いつもの小道を駆けてくるリーナの声は、今日はいつにも増して切迫していた。
裸足のまま朝露を激しく蹴散らし、息も絶え絶えに社の前に飛び込んでくる。亜麻色の髪には、どこでくぐってきたのか蜘蛛の巣が引っかかっていた。
「おはようございます。…大変?」
「おじいちゃんが怒ってるの! 今日のはいつもの『竹が増えたぞ』じゃなくて、本気のやつ! 顔が赤い!」
「ゴルドさんの顔は、いつも赤いのでは」
「いつもの三倍赤い!」
三倍。それは確かに尋常ではない。
私は手にしていた竹箒を肩にかけたまま、リーナに腕を引っ張られて村の広場へ向かった。社殿の板戸を閉めるのも忘れて。
秋の朝の空気は肌に心地よく、榊の大木が朝日を受けて葉の表面を金色に輝かせている。こんなに清々しい朝なのに、一体何が起きたというのか。
広場に着くと、なるほど、ゴルドの顔は確かに三倍赤かった。
怒りで肩を怒らせ、頭から湯気が立ち上らんばかりの勢いで、一点を指差している。
「ハルさんよ! これはどういうことだ!」
ゴルドの太い指の先を見て、私は絶句した。
広場の奥にある臨時の竹細工工房。昨日、ブルーノが男衆に竹の割り方を教えていた場所の周囲が、一面の青々とした竹林に飲み込まれていたのだ。
一晩で。
瑞々しい緑の表皮を持った若竹が数十本、工房の隙間という隙間から爆発的に噴き出している。
板壁が一枚内側から押し退けられ、あろうことか、ブルーノが丹精込めて削り出していた分厚い楢の作業台の脚を、太い竹が完全に『貫通』して真っ直ぐに天を突いていた。
工房の萱葺の屋根は無惨に突き破られ、朝の陽光の中で、若竹の笹の葉が「どうだ」と言わんばかりに誇らしげに揺れている。
…これは、さすがに、ちょっとまずい。
「ハルさん。前から言っとるが、あの竹、明らかにおかしいだろう! 一晩でこれだけ伸びるのは、どう考えても普通の竹じゃない。しかも、工房の中から生えとるんだぞ! ブルーノの作業台をへし折って!」
「…竹は、その、成長が」
「『早い』って言ったら、今度こそ本気で怒るからな!」
言えなかった。ゴルドの目が血走っている。
原因は分かっているのだ。
昨日、この工房で大勢の村人たちが集まり、和気藹々(わきあいあい)と竹細工の作業をしていた。人が集まり、笑い、手を動かし、前向きにものを作る。その営みが生む、微かな「感謝と活気の波動」が、鳥居を通じて神域に注ぎ込まれたのだ。
結果として、神気が局所的に異常なほど濃くなった。神気は生命の源だ。それが濃くなれば、植物は育つ。それも、物理法則を無視して爆発的に。
つまり…『みんなが楽しそうに竹細工を作っていたせいで、竹が制御不能に増殖した』のだ。
これをこの激怒する村長にどう説明すればいいのか。私にも正解が分からない。
「ゴルドさん、すみません。今日中に全部切りますから」
「切るだけで済む話か! ブルーノの作業台を見ろ! 完全に貫通しとるんだぞ!」
「作業台も、直します…」
「ハルさんよ。あんたは確かにこの村を助けてくれとる。だがな、この竹だけは! いい加減に! なんとかしろ!」
ゴルドの怒鳴り声が、秋の澄んだ空に響き渡った。
広場には、いつの間にか村人たちが集まり、遠巻きに事態を見守っていた。半分は「村長が怒っている」と心配そうに、もう半分は「すげえ所に竹が生えたぞ」と明らかに面白がっている。
マルタに至っては、乾燥させた薬草の束を抱えたまま、くっくっと肩を揺らして笑い声を漏らしていた。
「笑い事じゃないぞ、マルタばあさん!」
「いやあ、すまないね。でもゴルド、これ、ある意味すごいことだよ。切っても切っても一晩で勝手に生えてくるんだ。竹細工の材料が、文字通り無尽蔵ってことだろ?」
「そういう問題じゃない!」
マルタの商魂による合理主義は、時として残酷だった。
◆◇◆◇◆
結局、午前中を丸々潰して、工房から生えた厄介な竹を切り倒すことになった。
私は小狐丸を社殿から持ち出し、根元から次々と竹を断っていく。
小狐丸は普段、白鞘に収まった美しい短刀の姿で社殿に奉納してある。祝詞を唱えれば神気を帯びた太刀へと変じるが、今回はただの竹伐採だ。短刀のままで十分だった。
右手に小狐丸を逆手に握り、作業台に絡みつく若竹の根元へ滑り込ませる。
抵抗は、無に等しかった。
刃が竹の表面に触れた瞬間、スッ、と空気を撫でるような感触の直後、太さ十センチはある若竹が、斜めに滑り落ちるように音もなく切断された。まるで、空間ごと分断されたかのような異常な切れ味。
…藤原家秘蔵の名刀で竹を刈っている。春日社の厳しい師匠が見たら、卒倒して激怒するだろうな。
「ハルさん、それ何で切ってるの? その小さい刀、すっごくよく切れるね」
リーナが、音もなく倒れていく竹を見て目を丸くしている。
「まあ、切れ味だけは良い刀なので…」
「ブルーノさんの鉈より全然楽そう! 私もやってみたい!」
「だめです。指ごと落ちますよ」
竹を切り開いた工房の中心では、ブルーノが黙々と作業台の修繕に取り掛かっていた。
竹が貫通し、無惨に砕けた楢の木の穴を丹念に削り広げ、別の檜の端材を楔のように打ち込み、漆と木屑を練り合わせたもので隙間を完璧に埋めていく。
その淀みない手つきと横顔には、一切の怒りも焦りもなかった。
「ブルーノさん、本当にすみません。作業台を壊してしまって」
「壊したのはあんたじゃなくて、竹だ。それに、この穴に異素材の楔を打って漆で固めた後の方が、構造としての強度はむしろ跳ね上がる。災い転じて、だな」
「…ブルーノさん、器が大きいですね」
「器は関係ない。事実を言っただけだ」
ゴルドはまだ赤い顔で腕を組んで立っていたが、ブルーノが一切の文句を言わず、むしろ楽しそうにすら見える手つきで淡々と修繕を進めるのを見て、完全に毒気を抜かれたように深い溜息をついた。
「…まったく。ブルーノは呑気なもんだ」
「呑気ではない。合理的だ」
「同じだ!」
同じではないと思うが、火に油を注ぐのはやめておいた。
◆◇◆◇◆
竹の片付けが終わった昼前、マルタが「ちょうどいい」と満足げな顔でやってきて、切り倒したばかりの青々とした竹を男衆に指示して全部回収していった。
「もったいないじゃないか。こんないい竹、放っておく手はないよ」
「マルタさん、もしかして…最初からこうなるのを待っていたんじゃ…」
「まさか。偶然だよ、偶然。でも、まあ、こんな若くてしなりが良く、艶のある上等な竹が一度にこんなに手に入ることは滅多にないからね。ペドロが次に来るまでに、籠と水筒の在庫を少しでも増やしておきたかったところだよ」
マルタの目が光っている。あの目だ。完全に商売の算段を弾いている時の、鷹のような目。この人が動くと、村のあらゆる現象が「利益」に変換される。恐ろしい老婆だ。
「ところでハルさん。あの竹、なんとか制御はできないのかい?」
「…正直、完全な制御は難しいです。神域の気が濃くなると、植物の生命力に直結して勝手に育つので」
「じゃあ、定期的に切ればいいだけの話だね。切った竹は全部うちに回してくれれば、それがそのまま村の収入になる。ハルさんが竹を切り、ブルーノが加工し、私が売る。完璧な分業じゃないか」
「私、いつの間に竹こり人夫になったんですか」
「今だよ」
マルタはにっこり笑って、竹の束を担ぐ男衆のケツを叩きながら去っていった。私は小狐丸を鞘に収め、呆然とその背中を見送る。
…神主から竹こり人夫への華麗な転身。五柱の大神様も、自分が授けた人間が、こんな使われ方をするとは、想定していなかったのではなかろうか。
「ハルさん先生、竹切りもすっごく上手なんだね!」
リーナが目を輝かせて走ってくる。
「先生じゃないです。そして褒められるようなことでもないです。私はただの…」
「ただの神主でしょ。知ってる知ってる」
先回りされた。完全に定着してしまっている。
広場の隅に山と積まれた、見事な青竹の束。これだけの量を小狐丸一本で切り倒したのに、私の手にはマメ一つできていない。
ただの神主、と言い張るには、私の日常は少しずつ、だが確実に奇妙な方向へと転がり始めていた。
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