第20話「無邪気な祈り」
◆◇◆◇◆
三日後の夕方。
私が裏手の小川に水を汲みに行き、手桶を下げて戻ってきた時だった。
リーナが一人で、鳥居の前に立っていた。手には、瑞々しい榊の小枝が握られている。朝方、私が神事のために小狐丸で落とした枝の余りだろう。
リーナは枝を両手で胸の前にしっかりと握り、ぎゅっと目を閉じて、何かを熱心に呟いていた。
私は足を止めた。声をかけるのをやめ、少し離れた木陰から静かに見守る。
リーナの桜色の唇が動いている。祝詞ではない。何を言っているのか聞き取れないが、おそらく彼女なりの純粋な「お祈り」なのだろう。
私の毎朝の作法を見様見真似で覚え、手を合わせるのではなく、榊の枝を振るという「神事」の形式を選んだらしい。
リーナの持つ枝が、不器用に、ゆっくりと空中で振られた。
何も起きない。当然だ。
この世界の人間に、この世界には存在しない八百万の神気を扱う素養など、あるはずがない…はずだった。
振られた榊の枝の先端が、淡く光ったのだ。
ほんの一瞬。夏の夜の蛍の光よりもかすかな、吐息のような翠色のゆらめき。目を凝らしていなければ、光の加減で見逃すほどの微小な現象。
私の呼吸が完全に止まった。
リーナ本人は目を閉じているため、光ったことに気づいていない。彼女はそのまま、もう一度枝を振った。
今度は、光らなかった。
「だめだー。やっぱりハルさんみたいには何も起きないや」
リーナがパチリと目を開けて、枝を下ろした。くるりと振り返り、立ち尽くす私を見つけて太陽のように笑った。
「あ、ハルさん。お帰り。私、ハルさんの真似してみたんだけど、全然風とか起きなかった」
「…そうですか」
「もっといっぱい練習したら、ハルさんみたいにできるようになるかな?」
「どうでしょうかね…」
平静を装って微笑んだつもりだが、声が少し上擦っていたかもしれない。
リーナは私の動揺に気づかなかったようで、「まあいいや。おなか減った。ハルさんも早くご飯食べよ!」と手を振って、ゴルドの家の方へと走っていった。
一人残された私は、手桶を置き、社殿の方を振り返った。
御札の前に立ち、五柱の御名を穴があくほど見つめる。
今の光は、私の見間違いだろうか?
いや、気のせいではない。私の目は穢れも清浄も正確に見分ける。あの光は、間違いなく『神気』だった。微弱な、芽吹いたばかりの…しかし、確実にこの世界に根を下ろそうとしている神気。
この世界の人間に、神気を扱う素養が…ある?
もしそうだとしたら。
もし、リーナのような存在が、この世界に他にもいるとしたら。
…考えすぎだ。まだ一瞬光っただけだ。何かの偶然か、あの榊の枝に私の残滓が残っていただけかもしれない。リーナが特別に神の波長と合いやすい特異体質という可能性もある。結論を急ぐ必要はどこにもない。
だが、私の胸の奥で、何かが確かに熱く揺れていた。
『可能性』
前世では考えもしなかった、圧倒的な広がりを持った可能性が、この異世界には眠っているのかもしれない。
…だめだ、まず、掃除だ。掃除して、頭を冷やそう。
◆◇◆◇◆
翌日。
古い交易路の方角から、車輪が轍を軋ませる重い音がゆっくりと近づいてきた。
広場で網の手入れをしていたゴルドが耳を澄ませ、「ペドロだな」と呟いた。
辰砂の買い付けに来る旅商人。年に二度か三度、この辺境の村を訪れる数少ない外部の人間だ。マルタが「ちょうどいいところに来たね」とニヤリと笑い、竹細工の籠を三つほど抱えて広場に躍り出てきた。
荷馬車が村の広場に入ってくる。御者台に座っているのは、四十がらみの痩せた男だ。日に焼けた顔に、商人らしい抜け目のない、ソロバンを弾くような目をしている。
「よう、ゴルドの爺さん。元気そうだな」
「まあな。ペドロ、今回も辰砂か」
「そのつもりで来たんだが…」
ペドロが荷馬車を止め、御者台から飛び降りながら周囲をぐるりと見回した。その眉が、訝しげにぴくりと動く。
「ゴルドの爺さん、あの奥の『黒い門』は何だ。半年前の春に来た時には、絶対にあんなものはなかったぞ」
「ああ。あれはハルさんの鳥居だよ」
「トリイ? …で、その後ろの鬱蒼とした竹林。あの辺りも、こんな不気味な林はなかったはずだが」
「ハルさんがこの村に来てから、いろいろと変わったんだ。気にするな」
ペドロの目が、狩人のように鋭く細められた。
商人の直感というやつだろう。目に見える『変化』は商機であり、同時に致命的なリスクでもある。この男にとって、見慣れない風景は全て「金になるか、損になるか」の天秤で評価されるのだ。
マルタが、ペドロの鼻先に無造作に竹籠を突き出した。
「ペドロ、辰砂の取引の前に、こいつを見てみな」
ペドロがいぶかしげに竹籠を手に取った。
持ち上げ、裏返し、網目を凝視し、指の関節で弾いて音を聞き、内側の漆塗りを親指の爪で強く引っ掻いてみる。
数秒後、商人の顔つきが劇的に変わった。
「…信じられないくらい軽い。なのに、この剛性はなんだ。それに、この内側の艶のある塗りは何だ。漆か? 完璧な防水処理になっているな」
「ハルさんとブルーノが作ったんだよ。こっちの水筒もある。蓋の噛み合わせの精度が、街のどの工房の職人よりも良いと思うね」
マルタが、自慢げに漆塗りの竹水筒も渡した。ペドロが蓋を開け閉めし、逆さにして強く振り、水が一滴も漏れないことを確かめている。
「これは…極上品だ。いくつ作れる?」
「材料なら、あの竹林に嫌というほどある」
マルタが顎で竹林をしゃくった。ペドロの目が竹林に向かい、その異常な密度と、一晩で数メートル伸びるという規格外の成長速度の片鱗を見て取ったようだった。
「…こいつは、街で確実に売れるぞ。旅商人はもちろん、錬金術師や薬師も、軽くて防水で壊れにくい荷物入れにいつも苦労してるんだ。しかもこの仕上げの美しさ、貴族の目にも留まるかもしれない。高値がつくぞ」
「だろう? で、辰砂の代金とは別に、こっちの新しい取引もしないかい」
マルタとペドロの、火花散るような商談が始まった。
私は社殿の方に引っ込んで静かに掃き掃除をしていたのだが、リーナがちょくちょく走ってきて実況中継をしてくれる。
「ハルさん! ペドロさんがすっごい顔して汗かいてるよ! マルタおばあちゃんと値段でめっちゃ揉めてる!」
「揉めてますか…」
「マルタおばあちゃんの方が全然強い! ペドロさん、今にも泣きそう!」
商談は、マルタの圧倒的勝利で幕を閉じたらしい。
辰砂の買い付けに加えて、試しに竹籠五つと水筒三つを、ペドロが当初想定していた何倍もの高値で買い取ることになったようだ。
村に転がり込む、かつてない莫大な利益。
喜びに沸くマルタたちを余所に、ペドロが一人、値踏みするような商人の目で漆黒の鳥居を見上げながら、真っ直ぐに私の方へ歩み寄ってきた。
8月末までは毎日11:00に更新します✨
ブックマークや評価での応援をいただけますと、毎日の執筆の何よりの励みになります!
『転生神主の日常』を、どうぞよろしくお願いいたします!




