第17話「記憶の残滓」
◆◇◆◇◆
涼しい風が吹き始めた鳥居の前で一人夕涼みをしていると、カイルが静かな足取りでやって来た。
沈みゆく夕陽が、黒漆の鳥居を鮮やかな朱色に染め上げている。昼間の厳めしく人を寄せ付けない黒が和らぎ、どこか温かく、郷愁を誘う表情を見せる。私が一日の中で最も気に入っている時間帯だった。
カイルは鳥居の太い柱に背を預け、しばらく黙って茜色の空を見上げていた。
「…ハルさん」
「はい」
「この結界の中にいると、本当に体が楽だ。たった三日滞在しただけで、ここ数年で骨の髄まで溜まりきっていた疲れのようなものが、嘘みたいに抜けていく感覚がある。セラもヨルンも、全く同じことを言っている」
「冒険者の方は、日常的に死線と穢れに晒される機会が多いですからね。ここにいるだけで、自然と浄化されて抜けていきますよ」
「…これは、冒険者にとって途方もない価値がある。あんた、本当に分かってるか」
「大げさですよ」
「大げさじゃない」
カイルの横顔が、夕陽を受けて険しく引き締まった。
「街の神殿の浄化施設を使えば、金貨が何枚も飛ぶ。それでもここまでの効果は絶対に出ない。もしこの場所の存在がギルドや権力者に知れ渡ったら…」
カイルが重々しく言葉を切った。その先は言われなくても分かる。
無数の冒険者が癒しを求めて押し寄せる。強欲な商人が利権を目当てに目を光らせる。そして何より、異端を許さない教会が、黙って見過ごすはずがない。
「…だから、街では絶対に言わないでほしいんですけどね」
「言わないと約束した。俺の仲間も絶対に口を割らない。だがな、ハルさん。俺たちが黙っていても、いずれ必ず広まる。この村の周辺だけ魔物の活動が少ないという事実は、遅かれ早かれギルドの記録に残る。ギルドの調査隊が来る可能性だってある。ギルドの調査隊が入れば、原因を辿って確実にここに行き着く」
「…でしょうね」
「その時のために、味方は一人でも多い方がいい。俺にできることがあれば、何でも言ってくれ」
私は、赤く染まった鳥居の柱にそっと掌を触れた。
黒漆の表面が夕陽の残光を吸い込んで、微かな熱を持っている。
「カイルさん」
「ああ」
「ありがとうございます。…でも、私がやることは変わりません。毎朝ここを掃除して、神様にお祈りして、この場所を守る。ただそれだけです。これから先、何が来ても」
何が来ても。
その言葉を口にした瞬間。
私の胸の奥底で、厳重に封じ込めていた古い記憶の蓋が、カッと音を立てて開いた。
視界の夕陽の赤が、業火の炎にすり替わる。
夜空を舐め尽くすように燃え盛る火の柱。轟音と共に崩れ落ちる社の豪奢な社殿。
空気を焦がす熱。血の生臭い匂い。矢を射尽くし、弦の切れた弓を投げ捨て、太刀の刃がこぼれるまで平氏の武者を斬り伏せ、それでも——鳥居の前に立ち塞がり続けた、あの絶望の夜。
…何が来ても。二度と、焼かせはしない。
呼吸が、止まった。
心臓が早鐘を打ち、無意識のうちに鳥居の柱を掴む指先に、木がメキリと軋むほどの力がこもる。
ほんの一瞬の記憶の奔流。しかし、歴戦の冒険者であるカイルが、私の背中から立ち上ったその剥き出しの殺気の混じった空白を見逃すはずがなかった。
カイルは黙って空を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、完全に夕陽が山の端に落ち、鳥居を染めていた赤が静かに消え失せる。黒漆が、再び深く静謐な闇の底へと溶けていった。
私の呼吸も、ゆっくりと平温に戻る。
「…ハルさん。聞いていいか」
「どうぞ」
「あんた、前にも…守れなかったことがあるのか。自分の一番大切な場所を」
図星だった。
「…昔の話ですよ」
「そうか」
カイルはそれ以上、何も聞いてこなかった。
ただ、完全に陽が落ちた後も、赤く染まった空の幻影だけが、私の網膜の奥でいつまでも焦げたように燻り続けていた。
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