第16話「神主のお願い」
◆◇◆◇◆
昼前。ブルーノが鳥居の補修のために、仕込んでおいた漆の入った桶を持ってやって来た。昨日塗った箇所の硬化具合を指の腹で確かめ、追加の一層を慎重に重ねていく作業だ。
ブルーノが熟練(?)の滑らかさで刷毛を動かし、私がその横で漆の乗り具合を真剣な目で確認する。
カイルが、その無言の共同作業を少し離れた場所からじっと観察していた。
「…あの『漆』ってのは一体何なんだ。ただの木に塗るだけで、あんな底知れない光沢が出るものなのか」
私の代わりに、ブルーノが手を止めずに答えた。
「漆の木の樹液だ。この辺りに生えている。ハルさんが、傷のつけ方と樹液の掻き方を教えてくれた」
「掻き方?」
私が補足する。
「木の幹に刃物で細い筋をつけて、じわじわと滲み出てくる樹液を一滴ずつ集めるんです。木を殺さないように、必要な分だけ少しずつ。自然の恵みは、感謝していただくのが基本ですから」
カイルが、塗り終えられた鳥居の柱にそっと手を触れた。
滑らかで、冷たく、そして周囲の光を全て吸い込むような深い黒。
「…街の王室御用達の工房でも、これほどの仕上げができる職人はいないぞ」
「ブルーノさんの腕がいいんですよ」
「素材がいいだけだ」
私とブルーノが全く同じタイミングでそう返すと、カイルは「お前ら…」と呆れたように天を仰いだ。
作業を木陰で座って見ていたピートが、苦笑しながら口を挟んできた。背中の打撲の痛みが引かないらしく、姿勢を変えるたびに小さく顔をしかめている。
「ハルさん、例の符でこの背中の痛み、もう少し何とかなりませんか」
「昨日の朝に貼った符の余韻がまだ効いているはずですが…かなり痛みますか?」
「じっと座ってる分にはいいんですが、立ち上がる時にどうしてもズキッと背骨に響いて…」
「分かりました。じゃあ、もう一枚だけ。ただし、今日はこれで最後ですよ。神様への同じお願いを短時間に連続で繰り返すと、効きが悪くなりますから」
私は懐から筆入れを取り出し、小さな和紙に祝詞を書き連ねた。
ピートの背中の服をめくり、患部に直接符を貼り付ける。淡い翠色の光がふわりと灯り、肌に吸い込まれるように消えた。直後、ピートが「おおっ」と驚きの声を上げる。
「…嘘だろ。急に熱くなって、痛みがスッと引いた。これ、本当にすごいな。街の神殿の治癒師に高い金払って診てもらうのとは、治り方の感覚が全然違う」
「教会の治癒術は、魔力で肉体の細胞を強制的に修復する仕組みでしょう? 私のは、患部に溜まった痛みの穢れの祓いを神様にお願いして、体本来の回復力を引き出しているだけです。根本的な原理が違うんですよ」
そこへ、ヨルンが杖を突きながらのしかかるように近づいてきた。
昨日の戦闘で彼自身も全身を打撲しているはずだが、痛みよりも魔術師としての狂熱的な好奇心が完全に勝っている顔だ。
「ハルさん、いくつか質問していいか」
「どうぞ」
「あの符は、紙以外の何に書いても機能するのか? 例えば木や石に直接書き込んでも」
「…基本的には、霊力を留めやすい紙が一番安定します。木や石にも書けますが、定着が悪くすぐに効果が散ってしまう。布は墨の繊維が滲んで文字が崩れるので論外です。…あ、人の肌に直接書くこともできますが、あまりやりたくはないですね。術の反動や穢れが直接体に入りやすくなるので」
「なるほど…。では、書く内容によって効果が明確に変わるのだな。風の符には風の、治癒の符には治癒の言葉を当てはめるのか」
「ええ。祝詞の一節を書きます。どの神様に、何をお願いするかを、正確な『言葉』で伝えるんです。風の符は『天雲吹放 科戸風』。ピートさんの傷を塞いだ符は『布留部由良由良止 玉鎮』。昨日の雷は『建御雷 神鳴降閃』で、炎は『布都御魂 断火焼穢』。それぞれ、お願いする神様と内容が違います」
「…あのオーガとの乱戦の最中、四種類の全く異なる祈りを、瞬時に書き分けたというのか。あの速度で」
「筆を走らせるのが速いだけですよ。内容は全部、体に染み込んで頭に入っていますから」
ヨルンが信じられないものを見るように目を細めた。
「『天雲吹放 科戸風』…それは我々で言うところの『詠唱』に相当するのか?」
「…まあ、魔術の詠唱と言えば詠唱ですかね。ただ、決定的に違うのは、私が自身の魔力で現象を生み出しているわけではないということです。私はただ、神様に『こういうことをしてください』と手紙を書いてお願いしているだけ。だから、神様が『今は駄目だ』とお断りになれば、術は一切発発しません」
「神が、術者の意図を断ることがあるというのか!?」
「ええ。例えば、同じお願いを短い間に何度も図々しく繰り返したりすれば、礼を欠いていると判断されて効きが悪くなります。あくまで決定権は神様にあるんです」
ヨルンが黙り込み、ひどく汚れた眼鏡を布で拭き始めた。
彼の中で、私の符術を自身の論理的な魔術体系の枠組みに何とか当てはめようとして、激しく不具合を起こしているのだろう。「魔力や術式の計算」で世界を解き明かそうとする学者肌の彼にとって、「神様にお願いして、許可が出たら魔法が起きる」という説明は、最も受け入れがたい理屈に違いない。
「…ハルさん。私は、あなたの術の理屈を全く理解できていない。だが、現実に圧倒的な力として機能していることだけは認める」
「それでいいんじゃないでしょうか。私自身、この感覚を完全に理解してもらおうとは思っていませんし」
ヨルンはそれ以上何も言わず、ただひたすらに、曇ったままの眼鏡を布で擦り続けていた。
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