第101話「魔眼と静寂」
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残り六百。
ここからが、我々にとって本当の地獄だった。
小型のゴブリンやダイアウルフの群れはほぼ掃討し尽くされたが、残っているのは中型以上の純粋な暴力の塊のような魔物ばかりだ。オークの精鋭部隊、トロルのそびえ立つような巨体、リザードマンの硬質な鱗の壁。
そして、戦場の奥底から、紫黒色の瘴気をうねらせながら『それ』が前線に姿を現した。
バジリスクだ。
大蛇と蜥蜴を掛け合わせたような五メートルを超える巨体が二体、鎌首をもたげ、舌をチロチロと出しながら滑るように迫ってくる。
後方の高台から、ジャコモの悲鳴のような警告が戦場に響き渡った。
「バジリスクの視線を受けるな! 黄金の目と視線を合わせた者は、一瞬で石化するぞ!」
「石化!? 本当にそんなおとぎ話みたいなことが…」
「本当です! 左翼の従士ディノがやられました!」
カイルの疑問を、ファルコの切羽詰まった声が遮った。
左翼寄りで槍を構えていた従士の一人が、バジリスクの放つ黄金色の眼光と不意に目が合ってしまったのだ。彼の膝から下の防具と肉体が、完全に色を失い、灰色の石の彫像のように変質して地面に縫い付けられている。視線を咄嗟に逸らしたおかげで全身の石化は免れたが、完全に戦闘不能だ。
「ヨルン殿! 石化の解呪はできるか!」
「部分石化なら、なんとか! 少し時間をください!」
ヨルンが蒼白な顔で杖を構え、震える手で複雑な術式を空中に描き始める。カイルとセラが即座にその左右に立ち、大剣と双剣を構えて防衛の壁を作った。
バジリスク二体。
相手の動きを見極めなければ死ぬ戦場において、「相手の目を見てはならない」という制約は、手足を縛られているに等しい。厄介極まりない相手だ。
右翼から、グラキウスが猛然と駆けた。
背後の六枚の光の刃を先行させ、鎌首をもたげるバジリスクの顔面めがけて一斉に殺到させる。バジリスクが鬱陶しそうに頭を振り、光の刃を避けようとした瞬間、グラキウスが、自らの両目を硬く閉じたまま、完璧な足捌きで懐へと踏み込んだ。
目を見ずとも気配と風切り音だけで敵の急所を捉える、神業のような白翼の剣の横薙ぎ。
硬質な刃が、バジリスクの分厚い首の鱗に食い込む鈍い音が響いた。
だが、切断には至らない。鱗が異常なまでに硬く、グラキウスの筋力をもってしても刃が半ばで止まっている。
「ハル殿! 目を!」
グラキウスの叫びが届いた瞬間、私はすでに梓弓を引き絞っていた。
グラキウスの剣がバジリスクの動きを完全に縫い止め、注意を引きつけている今なら、横合いから射線が通る。
狙うのは、鱗のない唯一の急所、目だ。
だが、バジリスクの目を見てはいけない。
目を見ずに、目を射抜く。論理が破綻した矛盾。
だが、肉の目で見なくても、気配の『流れ』は読める。
私はゆっくりと瞼を閉じた。暗闇の中で、全神経を研ぎ澄ます。バジリスクを構成する濃密な穢れの塊の中で、呪いの力が最も凝縮された極端に濃い二つの点。それが石化の魔眼だ。
肉眼ではなく、感覚の目だけでその一点を捉え、静かに弦を放つ。
空気を裂く鋭い風切り音。
次の瞬間、バジリスクの鼓膜を破るような絶叫が戦場に轟いた。
放たれた矢が、バジリスクの右目を寸分の狂いもなく深々と貫いていた。黄金色の瞳がガラスのように砕け散り、周囲に立ち込めていた石化の魔力が一瞬にして霧散する。
グラキウスの六枚の刃が、弱った首の傷口に一斉に食らいついた。
巨大な蛇の首が、ドス黒い血を噴き上げながら地面に転がり落ちた。
二体目のバジリスクが、仲間の死を察知して慌てて後退しようと巨体をうねらせた。
だが、その退路にはすでにオルランドが回り込んでいた。逃げ道を断たれたバジリスクが怒り狂って突進する。それをヴァレリオの大盾が岩山のように受け止め、動きが止まった一瞬の隙を突き、アレッシオの長槍が口腔の内側、鱗のない柔らかい粘膜を脳天まで貫通した。
三人の熟練の連携により、二体目もあっけなく泥の中に沈んだ。
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空の太陽が、西の山並みに触れようとしていた。
「残り、概算で…百以下」
ファルコの声に、開戦以来初めて、微かな安堵の震えが混ざっていた。
千二百から始まった終わりの見えない掃討戦が、ようやく終結の兆しを見せている。
しかし、全員が、すでに限界を超えて疲弊していた。
グラキウスの古ぼけた外套は魔物の返り血で赤黒く染まり、無尽蔵に思えた六枚の浮遊する刃の輝きも、明滅するように鈍くなっている。
私の白衣も紫袴も泥と血にまみれ、背中の矢筒に残っている矢は、わずか六本。弓を引く左腕が鉛のように重い。体内に魔物の穢れが蓄積し、筆を走らせる符術の精度も明確に落ち始めているのを感じる。
カイルたち四人も、立っているのが不思議なほどの状態だった。
カイルの大剣を握る手は小刻みに痙攣し、セラの片腕は力なくダラリと下がっている。ピートの矢筒はとうの昔に空になり、戦場に落ちていたオークの粗悪な矢を拾って無理やり射続けていた。ヨルンだけが後方で意地で魔力を温存していたが、その顔色は死人のように蒼白い。
重装の騎士たちも満身創痍だ。ヴァレリオの誇る巨大な盾には無数の爪痕と牙の跡が深く刻み込まれ、アレッシオの槍の穂先は折れ欠けている。十二名の従士のうち、すでに三名が重傷を負って戦線を離脱し、後方で治療を受けていた。
だが、あと少しだ。目の前に残る魔物を掃討すれば、この地獄は終わる。
最後のオークの小集団を、騎士たちの槍の壁とカイルの大剣の残撃で押し潰し、逃げ遅れたトロルの巨体をグラキウスの光の刃が的確に切り刻んで仕留めた。
戦場から、動く魔物の姿が完全に消え去った。
「…終わった、のか?」
カイルが、刃こぼれした大剣を杖の代わりに地面に突き立て、肩で激しく喘ぎながら呟いた。
ファルコが、鷹の目を限界まで見開き、血の海と化した戦場を隅々まで見渡した。
「生存している敵性個体は…確認できません。全域、掃討完了です」
大地を揺るがすような歓声が上がった。
血まみれの従士たちが拳を天に突き上げ、アレッシオが「よくやったお前ら!」と嗄れた声を張り上げる。ヴァレリオが変形した大盾を地面に放り出し、ドスンという地響きと共にその場に大の字に寝転がって深い息を吐いた。ピートがへたり込み、涙ぐみながら夕暮れの空を仰いだ。
「勝った…勝ちましたよね、カイルさん!」
「ああ。勝った。全員、生きてる」
私も、梓弓を地面に下ろし、長く重い息を吐き出した。
全身の関節が軋むように痛み、穢れの蓄積による頭痛が脈打っている。帰ったら、冷たい井戸水で長い長い禊をしなければならない。だが、生きている。全員が、この絶望的な数を前にして生き残ったのだ。
右翼で、グラキウスが白翼の剣を鞘に収めかけていた。六枚の光の刃が、静かにその輝きを消し、本来の剣の刀身の中へと還ろうとしている。
鞘に手をかけたグラキウスの動きが、不自然にピタリと止まった。
「…待て」
広場の歓声を一瞬で凍りつかせるような、絶対零度の声だった。




