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第八話 究極のビーフシチュー

 第八話 究極のビーフシチュー


「美食侯アドラスだと……」


 レインがその名を聞いた瞬間、周囲の兵士達の空気が目に見えて重くなり、つい先程まで毒竜肉の燻製ステーキを奪い合っていた男達が一様に押し黙ってしまったことから、その人物がただの貴族ではなく、この国の料理界そのものへ大きな影響力を持っている存在なのだと理解した。


「料理人というより支配者だ」


 隊長カインが苦々しく言う。


「王侯貴族への献上料理を独占している」


「腕は?」


 レインが尋ねる。


「本物らしい」


 その返答を聞いてレインは少しだけ嬉しくなった。


 ようやく料理人らしい相手と戦えるからだ。


 三日後。


 帝都。


 巨大な料理競技場。


 そこには数千人の観客が集まっていた。


 中央には白い調理台。


 両脇には巨大な厨房。


 そして正面の特等席には貴族達が並んでいる。


 レインは場違いにも見える冒険者服のまま立っていた。


 対する相手は豪華な金色の料理服を纏った中年男性だった。


 美食侯アドラス。


 料理界の頂点。


 この国最高の料理人と呼ばれている男だった。


「貴様がレインか」


 アドラスは笑った。


「田舎で少し名を上げたそうだな」


「どうも」


「だが料理とは高級食材の芸術だ」


 レインはその言葉を聞いて理解した。


 この男は腕がある。


 だが同時に傲慢だった。


「本日のテーマは牛肉」


 司会者が宣言する。


「制限時間は三時間!」


 歓声が上がる。


 さらに続けた。


「使用できる牛肉は同量!」


 運び込まれる肉。


 両者とも同じ部位。


 肩肉だった。


 比較的安価な部位である。


 アドラスは鼻で笑った。


「なるほど」


 高級食材勝負ではない。


 純粋な料理勝負らしい。


 レインは少しだけ安心する。


 そういう勝負の方が好きだった。


 アドラスは高価な香辛料を並べ始める。


 珍しい酒。


 高級野菜。


 王都でも入手困難な素材ばかり。


 対するレインは少ない。


 牛肉。


 玉ねぎ。


 人参。


 少量の香草。


 そして召喚した材料だけだった。


 観客席がざわつく。


「負けたな」


「材料差がありすぎる」


「終わりだろ」


 だがレインは気にしない。


 彼には分かっていた。


 ビーフシチューとは何かを。


 本当に大切なのは素材ではない。


 時間だ。


 手間だ。


 理解だ。


 それこそが料理だ。


 レインはレシピを書き出した。


 究極のビーフシチュー(6人前)


 牛肩肉 1000g


 玉ねぎ 500g


 人参 300g


 にんにく 20g


 赤ワイン 500ml


 デミグラス風スープ 1000ml


 トマトペースト 50g


 小麦粉 30g


 バター 30g


 塩 12g


 黒胡椒 4g


 香草 10g


 下準備


 牛肩肉を4cm角に切る。


 塩と黒胡椒を振る。


 30分休ませる。


 焼き工程


 強火で全面を焼く。


 表面へ焼き色を付ける。


 旨味と香りを閉じ込める。


 香味野菜


 玉ねぎと人参を細かく刻む。


 にんにくと共にじっくり炒める。


 玉ねぎが濃い飴色になるまで約40分。


 煮込み


 ワインを加える。


 半量になるまで煮詰める。


 肉を戻す。


 スープとトマトペーストを加える。


 弱火で3時間。


 灰汁を除きながら煮込む。


 仕上げ


 塩で味を整える。


 一晩寝かせるのが理想。


 今回は魔法保温鍋で熟成再現。


 レインが玉ねぎを刻み始めた瞬間、観客席は失笑した。


「玉ねぎだ」


「またか」


「田舎者だな」


 だがレインは黙々と炒め続ける。


 まだ炒める。


 さらに炒める。


 さらに。


 さらに。


 玉ねぎは黄金色を通り越し、深い茶色へ変化していく。


 アドラスですら視線を向けた。


「そこまで炒めるのか」


 初めて興味を示した。


 レインは答える。


「甘味は買うものじゃない」


 木べらを動かしながら言う。


「作るものだ」


 観客席が静まり返る。


 料理人達も見入っていた。


 玉ねぎが変化していく様子はまるで魔法だった。


 やがて煮込みが始まる。


 肉。


 野菜。


 ワイン。


 時間。


 全てが一つになる。


 香りが競技場を支配し始めた。


 アドラスの料理も見事だった。


 高級感。


 華やかさ。


 贅沢さ。


 まさに貴族の料理。


 だがレインの料理は違う。


 腹が減る。


 それが全員の感想だった。


 三時間後。


 完成。


 二つのビーフシチューが並ぶ。


 審査員達が食べる。


 まずアドラス。


 歓声。


 絶賛。


 やはり旨い。


 圧倒的だった。


 だが。


 次にレインのシチューを口へ入れた瞬間。


 誰も声を出さなくなった。


 一人の老審査員がスプーンを置く。


 震えていた。


「昔」


 ゆっくりと言う。


「母が作ってくれた味を思い出した」


 静寂。


 レインは何も言わない。


 料理人だから分かる。


 もう勝負はついている。


 旨いだけでは足りない。


 記憶に残る一皿。


 心に届く一皿。


 それが料理の本当の強さだからだ。


 アドラスはビーフシチューを見つめた。


 そして初めて敗北を認めるように笑った。


「なるほど」


 静かな声だった。


「私は料理を作っていた」


 レインを見る。


「お前は人のために作っていたのだな」


 その時だった。


 競技場の天井が突然砕け散る。


 轟音。


 悲鳴。


 空から巨大な黒い竜が降下する。


 今までの毒竜とは比較にならない巨体。


 全長五十メートルを超える。


 観客席が混乱する。


 逃げ惑う人々。


 アドラスの顔から血の気が引く。


 レインだけが空を見上げていた。


 黒竜の額にも同じ紋章が刻まれている。


 誰かが操っている証。


 そして黒竜の背には、一人の男が立っていた。


 銀色の仮面。


 黒い料理服。


 不気味な笑み。


 男はゆっくりと言った。


「久しぶりだな、アドラス」


 アドラスの顔が絶望に染まる。


「まさか……」


 男は笑った。


「兄上」


 帝国最強の料理人と呼ばれたアドラスですら恐れる存在。


 真の黒幕が現れた瞬間だった。

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