後日談・第一話 港町の魚つみれ潮汁
後日談・第一話 港町の魚つみれ潮汁
世界を救った後もレインは結局何も変わらなかった。
王都最大の人気店となった『フライパン亭』は今日も開店前から行列ができており、冒険者も貴族も王族ですら予約を取るため何ヶ月も待つような店になっていたのだが、当の本人は朝の仕込みを弟子達へ任せると店の裏口からふらりと出ていき、昼にはもう王都の城壁すら見えないほど遠くまで歩いていた。
料理人にとって本当に大切なのは評判ではない。
知らない食材。
知らない土地。
知らない料理。
それらと出会う瞬間だった。
春の終わり。
レインが辿り着いたのは港町アズールだった。
潮風が吹く。
遠くで海鳥が鳴いている。
船が何十隻も停泊している。
一見すると豊かな町だった。
だが。
市場へ足を踏み入れた瞬間、異変に気付いた。
活気が無い。
魚は大量に並んでいる。
それも新鮮だ。
目は澄んでいる。
エラも綺麗な紅色。
だが誰も買わない。
値札を見る。
安い。
異常なほど安い。
「おかしいな」
レインは一軒の魚屋へ近付いた。
店番をしている老人が顔を上げる。
「買うのかい」
「まずは話を聞きたい」
老人は苦笑した。
「珍しい客だな」
レインは山積みになっている魚を手に取る。
銀色の身体。
長い魚体。
脂も悪くない。
だが身を開いてみると理由が分かった。
小骨だった。
無数の小骨。
まるで網のように張り巡らされている。
「なるほど」
老人が頷く。
「旨いんだ」
「でも売れない」
「そうだ」
老人は魚へ視線を落とした。
「子供が嫌がる」
「料理人も面倒がる」
「宿屋も仕入れない」
結果として市場へ溢れる。
漁師は安く売るしかない。
安いから誰も大事に扱わない。
さらに価値が落ちる。
悪循環だった。
レインは魚を見つめる。
前世の記憶が蘇る。
三ツ星レストラン時代。
安い魚を高級料理へ変える仕事は何度もやった。
だから分かる。
この魚は不味いのではない。
扱い方を知られていないだけだ。
「面白い」
レインは笑った。
老人が怪訝な顔になる。
「何がだ」
「宝の山だよ」
翌日。
広場に大きな鍋が設置された。
市場の全員が集まっている。
漁師。
魚屋。
宿屋の主人。
主婦。
子供達。
さらには商人までやって来ていた。
王都の有名料理人が魚を変えるらしい。
そんな噂が広まっていたのである。
レインは何も言わず魚を十匹並べた。
包丁を抜く。
その瞬間だった。
空気が変わる。
職人特有の空気だった。
普段はのんびりしている男が、料理になるとまるで別人になる。
魚を捌く。
速い。
正確。
一切の無駄がない。
骨を避ける。
身だけを取り出す。
周囲から感嘆の声が漏れる。
「すげぇ……」
若い漁師が息を呑む。
レインは手を止めない。
身を叩く。
さらに叩く。
包丁を二本使う。
リズム良く。
トントントントントン。
魚の繊維が潰れ。
粘りが出てくる。
子供達が不思議そうに質問する。
「何してるの?」
「魚を変身させてる」
レインが笑う。
子供達も笑った。
そしてレインは塩を加えた。
「料理は魔法じゃない」
突然そんな話を始める。
「旨くなるには理由がある」
住民達が耳を傾ける。
「魚の身は塩を入れて練ると粘りが出る」
実際には魚肉タンパク質の性質が関係している。
だが。
細かい理屈より結果の方が伝わる。
レインは魚のすり身を持ち上げる。
しっかりまとまっていた。
次に食材召喚を発動する。
白い光。
その中から現れるのは生姜と長ねぎだった。
「香味野菜?」
宿屋の主人が驚く。
レインは頷く。
「魚の臭いを消す」
みじん切り。
投入。
さらに混ぜる。
香りが立つ。
この時点で魚独特の生臭さはかなり薄れていた。
次に鍋。
海藻で出汁を取る。
老人達が驚く。
「海藻なんて食えねぇだろ」
「だから出汁を取るんだ」
レインは笑った。
「旨味だけもらう」
異世界ではまだ出汁文化が弱い。
だからこそ衝撃だった。
やがて鍋から豊かな香りが漂い始める。
そこへすり身を落とす。
スプーン二本で丸く整える。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
鍋に落ちる。
魚団子が踊る。
子供達から歓声が上がる。
まるで料理教室だった。
やがて完成する。
魚つみれ潮汁(8人前)
白身魚 1200g
塩 18g
生姜 30g
長ねぎ 150g
卵白 2個分
水 2500ml
海藻 30g
酒 100ml
薄口醤油 20ml
魚を叩いてすり身にする。
塩を加えて粘りが出るまで練る。
生姜と長ねぎを混ぜる。
卵白を加える。
海藻で出汁を取る。
酒を加える。
団子状にして投入。
弱火で8分加熱。
最後に醤油で香りを整える。
最初に食べたのは市場の魚屋だった。
震える手で椀を持つ。
一口。
吸う。
噛む。
そして。
涙が溢れた。
「旨い」
誰も喋らない。
魚屋はさらに食べる。
また食べる。
「これが本当にあの魚か」
漁師達も食べる。
宿屋の主人も。
商人も。
子供達も。
一人の少年が叫んだ。
「おかわり!」
市場中が笑いに包まれる。
その瞬間。
レインは確信した。
この町は大丈夫だ。
魚は何も変わっていない。
変わったのは料理だけ。
だが料理一つで町は変わる。
だから料理人は面白い。
夕陽に染まる市場を眺めながら、レインは次の旅先のことを考えていた。
まだ見ぬ食材が。
まだ知らない問題がきっとどこかで待っているのだから。




