第九十九話 上官の前で、ふたりが選んだ道
第九十九話 上官の前で、ふたりが選んだ道
「さとる! 返事をしろ!」
訓練用魚雷の外から、上官の厳しい声が響いた。
さとるは、薫の手を握ったまま、しばらく動けなかった。
目の前には、涙を浮かべながらも、まっすぐ自分を見つめる薫がいる。
外には、二人の選択を認めない上官がいる。
そして、その向こうでは、次々と仲間たちが海へ送り出されていた。
もう時間がない。
そのことだけは、痛いほどわかっていた。
「さとる……」
薫が小さく呼んだ。
「私、あなたと一緒にいたい。でも、あなたが私のために何もかも捨ててしまうのは嫌なの」
「薫……」
「あなたには、あなたの命がある。私にも、私の命がある。二人で生きたいと思うなら、二人とも生きることを諦めないで」
さとるは、彼女の言葉を黙って聞いた。
薫は、ただ自分と一緒に死ぬことを望んでいるのではない。
二人で生きる未来を望んでいる。
だからこそ、ここまで危険を冒して会いに来たのだ。
「……わかった」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
「俺は君と一緒に生きたい。その気持ちは変わらない。でも、君を守ると言いながら、君の命を危険にさらすだけじゃ、本当に君を守ったことにはならないんだな」
薫は涙をぬぐった。
「うん」
「俺たちには、まだわからないことが多すぎる。ここから出撃できる保証もない。訓練用魚雷が、本当に俺たちを海へ運べるのかさえわからない」
さとるは、自分の言葉を確かめるように続けた。
「それでも、君と生きたい。だからこそ、何ができるのか、きちんと確かめたい」
薫は、彼の手を握り直した。
「一緒に確かめよう」
そのとき、外から再び声が飛んできた。
「さとる! これ以上、命令を無視することは許さん!」
上官の声には、怒りが込められていた。
「お前の乗るべき魚雷は別に用意してある! 直ちに訓練用魚雷から出て、指定された機体に乗り換えろ!」
さとるは目を閉じた。
別の魚雷に乗り換えれば、薫と離れることになる。
命令に従えば、軍の規律を守ることはできるかもしれない。
しかし、その魚雷で出撃すれば、自分が生きて帰れる保証などない。
いや、どの道を選んでも、生きて帰れる保証などなかった。
それが、戦争だった。
「……上官!」
さとるは、ついに声を上げた。
「申し上げたいことがあります!」
外が静かになった。
「何だ!」
「私は、薫と一緒に生きて帰りたいと思っています!」
剛が息をのむ気配がした。
上官は、すぐには答えなかった。
さとるは続けた。
「私は死ぬことが怖いです! 出撃の命令を聞くたび、自分が次に呼ばれるのではないかと恐れてきました。仲間が出撃していくたび、もう二度と会えないのではないかと思ってきました!」
声が震えた。
それでも、さとるは言葉を止めなかった。
「私は、立派な兵士のように振る舞ってきました。でも、本当は、帰りたいのです。故郷へ帰りたい。薫と一緒に暮らしたい。戦争が終わったら、普通の生活を送りたいのです!」
「黙れ!」
上官の怒声が飛んだ。
さとるの肩がびくりと揺れた。
それでも、彼は薫の手を離さなかった。
「……申し訳ありません。それでも、これが私の本当の気持ちです」
上官の足音が、訓練用魚雷に近づいた。
「お前は、自分の置かれている立場を理解しているのか。今は戦争中だ。個人の願いを優先できる状況ではない!」
「承知しております!」
「ならば、命令に従え!」
さとるは、すぐには答えられなかった。
命令に従わなければならないことはわかっている。
だが、命令に従うことと、自分の心まで偽ることは、同じではないと思っていた。
そして今、薫が隣にいる。
自分が守りたい人がいる。
その事実が、さとるの心を大きく揺さぶっていた。
「……上官」
やがて、さとるは静かに口を開いた。
「訓練用魚雷での出撃が認められていないことは、理解しています。安全が確認されていないことも承知しています」
「ならば、出てこい!」
「ですが、薫を置いていくことはできません」
「さとる!」
剛の声が悲痛に響いた。
さとるは、目を伏せた。
「剛……すまない」
「謝るな! 俺は、お前に生きて帰ってほしいんだ!」
「わかっている」
「だったら、頼むから……!」
剛の声が途切れた。
さとるにも、剛の気持ちはわかっていた。
剛は二人を責めたいのではない。
二人を失いたくないのだ。
ここまで助けてくれた剛に、これ以上苦しい思いをさせたくはなかった。
けれど、自分の決断を剛に押しつけることもできなかった。
「剛。お前が俺たちを心配してくれていることは、わかっている。本当に、ありがとう」
「そんなことを聞きたいんじゃない!」
「……ああ」
さとるは、唇をかみしめた。
「それでも、俺は薫と一緒にいたい」
薫は、彼の隣で静かに口を開いた。
「上官様」
その声は小さかった。
けれど、さとるにも、外にいる者たちにも、確かに聞こえた。
薫は、これまでのように言葉を使わずに意思を伝えるのではなく、ここでは自分の気持ちを言葉にした。
「私は、さとるに会いたくて、ここまで来ました。何度も怖くなりました。途中で帰ろうと思ったこともあります。それでも、会いたかったのです」
さとるは、驚いたように薫を見つめた。
彼女は、震える声で続けた。
「私は、さとると一緒に死にたいのではありません。さとると一緒に生きたいのです」
狭い魚雷の中で、その言葉が静かに響いた。
「戦争が終わったら、二人で暮らしたい。朝起きて、一緒にご飯を食べて、海を見に行きたい。そんな普通の生活を送りたいのです」
薫は、涙を流しながらも顔を上げた。
「どうか、私たちが生きたいと願っていることまで、間違いだと言わないでください」
外は、しばらく静まり返っていた。
遠くでは、発射準備の号令が聞こえていた。
二人の願いが届いたのかどうかは、わからない。
やがて、上官の低い声が響いた。
「……お前たちの気持ちは聞いた」
さとると薫は顔を見合わせた。
「だが、訓練用魚雷での出撃を許可したわけではない。機体の安全も確認されていない。お前たちの願いだけで、出撃を認めることはできん」
その言葉は、二人にとって厳しい現実だった。
上官が、二人の気持ちを理解したとしても、状況が変わるわけではない。
「さとる。最後にもう一度命令する。訓練用魚雷から出て、指定された魚雷へ乗り換えろ」
さとるは、薫の手を握った。
彼女もまた、彼を見つめていた。
二人の間に、言葉は必要なかった。
それでも、さとるはすぐには答えを出せなかった。
生きたい。
薫と生きたい。
その願いをかなえるために、今、何を選べばいいのか。
その答えは、まだ見つからなかった。
外で、剛が静かに言った。
「さとる……薫……。まだ、間に合うかもしれない。二人とも、どうか生きることを諦めないでくれ」
その言葉に、さとるは目を閉じた。
薫の手の温もりが、確かにそこにあった。
戦争が、二人から未来を奪おうとしている。
それでも、二人は未来を望んでいた。
その願いが、どんな結末につながるのか。
まだ誰にもわからなかった。
遠くで、また一つ発射音が響いた。
ドンッ――!!
船体が震え、音が海の向こうへ遠ざかっていく。
さとるは薫を見つめた。
「薫。俺たちは……どうすればいいんだろうな」
薫は涙をぬぐい、静かに答えた。
「一緒に考えよう。最後まで、生きる道を探そう」
二人は手を握り合った。
外では、次の出撃を告げる準備が進んでいた。
そして、二人の前には、まだ選ばなければならない道が残されていた。




