第九十八話 ふたりの名前を呼ぶ声
第九十八話 ふたりの名前を呼ぶ声
「次――!」
上官の声が響いた。
さとると薫は、訓練用魚雷の中で顔を見合わせた。
ついに、自分たちの番が来たのかもしれない。
外では、兵たちが慌ただしく動いていた。金属がぶつかる音、指示を伝える怒声、海面から吹き上がる風の音。そのすべてが、二人の胸に迫ってくる。
さとるは薫の手を握った。
「薫……」
「うん」
「もし、これから何が起きても、俺は君と出会えたことを後悔しない」
薫は首を横に振った。
「そんな言い方をしないで。まだ何も終わっていないよ」
「ああ……そうだな」
さとるは、かすかに笑おうとした。
「まだ終わっていない。だから、俺は生きたい」
「私も」
薫は彼の手を握り返した。
「あなたと生きたい。どこか遠い町で、誰にも隠れずに一緒に歩きたい。朝になったら、あなたが目を覚ますまで隣にいたい。戦争のことを思い出さなくてもいい日を、二人で迎えたい」
その願いは、あまりにもささやかだった。
けれど、今の二人には、そのささやかな日々が何よりも遠く、何よりも大切に思えた。
「俺も、そうしたい」
さとるは答えた。
「海を見に行こう。軍服じゃなくて、普通の服を着て。誰かの命令じゃなく、自分たちの足で歩いてさ」
「うん」
「それで、帰りに何か食べよう。剛にも会いに行こう。あいつ、きっと俺たちの顔を見たら怒るぞ」
薫は、涙の中で小さく笑った。
「きっとね。『どれだけ心配させたと思っているんだ』って」
「それから、あの料理人にも礼を言わなきゃな」
「うん。みんなに、ありがとうって言いたい」
二人は、まだ見ぬ未来を言葉にした。
それは、命を守る保証にはならない。
けれど、死を覚悟することだけが自分たちのすべてではないと、確かめるための言葉だった。
そのとき、外から足音が近づいてきた。
「さとる!」
剛の声だった。
「剛!」
さとるが返事をすると、すぐに緊迫した声が返ってきた。
「上官が、お前を呼んでいる!」
薫の顔から、笑みが消えた。
さとるは一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。
「何と言っているんだ?」
「お前の出撃順が近い。別の魚雷に乗り換えろという命令は、まだ撤回されていない。それから……訓練用魚雷から出て、上官の前に来いと言っている」
さとるは黙った。
命令は、まだ続いていた。
訓練用魚雷での出撃は認められていない。二人がここにいることも、許されたことではない。
それでも、外へ出て命令に従えば、薫と離れることになる。
「剛……」
「わかっている。お前が何を考えているか、わかっているつもりだ」
剛は、少し声を落とした。
「でも、上官のところへ行けば、まだ話せるかもしれない。今なら、別の魚雷に乗り換えることもできる。お前たちがどうなるか、俺にはわからないんだ。だから、せめて……」
言葉が途切れた。
剛もまた、答えを持っていなかった。
さとるは薫を見た。
彼女は、彼の手を離さなかった。
「さとる」
薫は静かに言った。
「私は、あなたに命令を無視してほしいから、ここに来たんじゃない」
「ああ」
「あなたと一緒にいたかった。あなたが怖いと思っていることも、生きたいと思っていることも、全部知りたかったの」
薫の目から、涙が一筋落ちた。
「だから、あなたがどうするか、私だけのために決めないで。あなた自身がどう生きたいのか、考えて」
さとるは、その言葉を胸に刻むように聞いた。
彼女は、自分のために彼の命を差し出してほしいのではなかった。
二人でいたい。
生きて帰りたい。
その願いをかなえる道を、最後まで探したかったのだ。
「……わかった」
さとるはうなずいた。
「俺は君と生きたい。でも、君を守ると言いながら、君の命まで危険にさらしていいわけじゃない」
「うん」
「だから、俺たちが本当に生きて帰れる道があるのか、最後まで考える」
薫は、彼の手をそっと握った。
「一緒に考えよう」
さとるは、外へ向かって声を張った。
「剛! 上官に伝えてくれ。俺は命令を聞いている。だが、薫をここに残して、一人で別の魚雷へ移ることはできない!」
外から、すぐには返事がなかった。
やがて剛が叫んだ。
「本当に、それでいいんだな!」
さとるは薫を見つめた。
彼女もまた、逃げずに彼を見返していた。
「……ああ!」
その返事には、恐怖も迷いも残っていた。
それでも、さとるは自分の言葉から逃げなかった。
剛の足音が遠ざかっていく。
二人は再び、狭い魚雷の中に取り残された。
外では、出撃が続いていた。
「四番、出撃!」
ドンッ――!!
ガガガガガッ――!
ゴォォォォォ――ッ!
発射の衝撃が船体を揺らした。
薫は思わず肩を震わせた。さとるも歯を食いしばった。
自分たちの番が近づいている。
そう思うたび、胸の奥で恐怖が大きくなった。
「さとる……」
「うん」
「私、あなたに言っていないことがあるの」
「何?」
薫は、彼の手を握ったまま、ゆっくりと言った。
「ここまで来る途中、何度も帰ろうと思った。あなたに会えないかもしれない。見つかったら、どうなるかわからない。怖くて、足が動かなくなったこともあった」
さとるは黙って聞いていた。
「それでも、あなたに会いたかった。あなたがどんな顔をしていても、どんなに怖がっていても、ちゃんと会って、あなたの本当の気持ちを聞きたかった」
「……薫」
「でも、会えた今、わかったの。あなたも私と同じように怖かったんだね」
さとるは、うなずいた。
「怖かった。ずっと怖かったよ」
初めて会ったころには、決して口にできなかった言葉だった。
「出撃の命令が出るたび、自分の名前が呼ばれるんじゃないかと思った。仲間の名前が呼ばれるたび、次は自分かもしれないと思った。君に会いたいのに、会えたら会えたで、君を残して死ぬことが怖くなった」
さとるの声が震えた。
「俺は、立派な兵士なんかじゃない。ただ、君と生きていたい二十歳の男なんだ」
薫は、涙をこらえようとしなかった。
「私も、ただの二十歳の女の子だよ。あなたと一緒にいたい。それだけなの」
二人は、額を寄せた。
外では、また誰かの出撃を告げる声が響いた。
そのたびに、遠ざかっていく音があった。
そのたびに、帰らないかもしれない命があった。
二人は、その現実から目をそらさなかった。
しばらくして、足音が戻ってきた。
今度は、剛だけではなかった。
硬い靴音が、訓練用魚雷のすぐそばで止まった。
「さとる!」
剛の声がした。
「上官がお見えになった!」
薫の手に力がこもった。
さとるは彼女の手を握り、ゆっくりと顔を上げた。
外から、低く厳しい声が響いた。
「さとる。そこにいるのはわかっている。今すぐ出てこい」
二人は顔を見合わせた。
命令に従えば、何かが変わるかもしれない。
従わなければ、さらに厳しい処分を受けるかもしれない。
そして、二人が乗っている訓練用魚雷で本当に出撃できるのか、その答えさえ出ていなかった。
さとるは薫の手を離さず、声を絞り出した。
「……薫。俺たちの未来を、誰かに決められたまま終わらせたくない」
「うん」
「でも、君を死なせたくもない」
薫は涙をぬぐい、まっすぐに答えた。
「だったら、最後まで生きる道を探そう。二人で」
外の上官は、もう一度呼びかけた。
「さとる! 返事をしろ!」
狭い魚雷の中で、二人は手を握り合った。
次に口を開けば、何かが決定的に変わるかもしれない。
それでも、さとるは沈黙の中で、薫とともに答えを探していた。
海は、すぐそこにあった。
だが二人の未来は、まだ決まっていなかった。




