↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
97/100

第九十七話 ふたりを呼ぶ号令、海へ向かう決断

第九十七話 ふたりを呼ぶ号令、海へ向かう決断


「次――!」


甲板に、上官の声が響いた。


さとるは、訓練用魚雷の狭い内部で息を止めた。


隣にいる薫の手を握る。汗ばんだ手のひらは、震えていた。自分の手が震えているのか、薫の手が震えているのか、もうわからなかった。


外では、次の出撃を告げる声が飛び交っている。


「準備よし!」


「発進位置、確認!」


金属がぶつかる音。走り回る兵たちの足音。海面を叩く波の音。


そして――。


「三番、出撃!」


ドンッ――!!


腹の底を突き上げるような衝撃が伝わった。


ガガガガガッ――。


魚雷が発射される音が、船体を震わせる。続いて、海へ飛び出した機体が水を切る轟音が響いた。


ゴォォォォォ――ッ。


音は次第に遠ざかり、やがて波の音の中へ消えていった。


さとるは目を閉じた。


また一人、海へ向かった。


あの魚雷に乗った者も、出撃の直前まで恐れていたのだろうか。家族の顔を思い浮かべただろうか。帰ったら伝えようと思っていた言葉が、胸の中に残っていたのだろうか。


自分には、薫がいる。


すぐ隣にいる。


けれど、隣にいるからといって、二人の未来が約束されたわけではなかった。


「さとる……」


薫が小さく呼んだ。


「うん」


「今の音を聞いたら、急に怖くなった」


薫は、さとるの手を握り直した。


「ここまで来るまでは、あなたに会いたい、それだけだったの。でも、こうして本当に出撃が続いていくのを聞いていたら……私たちが向かおうとしている場所が、どんなところなのか、わかってきた気がする」


さとるは答えられなかった。


薫の言葉は、自分が心の奥に押し込めていた恐怖そのものだった。


「私、死ぬのが怖い」


薫は目を伏せた。


「あなたと一緒にいたい。でも、本当は、あなたと死にたいんじゃない。あなたと生きていたいの」


その言葉に、さとるの胸が強く締めつけられた。


「……俺もだ」


彼は、薫の手を両手で包んだ。


「俺だって死にたくない。君と一緒に海を見たい。戦争が終わったら、何でもない朝を迎えて、君と飯を食べて、くだらないことで笑って……そんな生活がしたい」


声がかすれた。


「本当は、ここに来る前からずっと、それを考えていたんだ」


「うん……」


「君に会えたら、怖くなくなると思っていた。でも、違った。君に会えたからこそ、死にたくないって気持ちが、前より強くなった」


薫の目から涙がこぼれた。


「それでいいよ、さとる。怖くていいんだよ」


彼女は涙を拭わずに続けた。


「生きたいって思うことは、恥ずかしいことじゃないもの」


さとるは、何度も小さくうなずいた。


外から、また声が響いた。


「次の機体、準備!」


二人の時間を、戦争が少しずつ削り取っていく。


そのときだった。


訓練用魚雷の外側で、慌ただしい足音が止まった。


「さとる! 薫!」


剛の声だった。


さとるは身を起こした。


「剛か!」


「聞こえるか! まだ中にいるな!」


「ああ!」


「上官から、もう一度命令が出た!」


剛の声には焦りがにじんでいた。


「訓練用魚雷での出撃は認められない! さとる、お前は別の魚雷に乗り換えろ、とのことだ!」


薫の指が、さとるの手を強く握った。


さとるは目を閉じた。


わかっていた。


このまま命令に従わなければ、軍の規律に背くことになる。剛にも、ここまで助けてくれた人たちにも、さらなる危険が及ぶかもしれない。


それでも、薫を置いて別の魚雷に乗り換えることはできなかった。


「剛!」


さとるは外へ向かって声を張った。


「俺は、ここを出ない!」


「さとる……!」


「命令に従わなければならないことは、わかっている! でも、俺は薫と一緒にここにいると決めたんだ!」


「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか!」


「わかっている!」


さとるは、震える声で叫んだ。


「怖いんだ! 死ぬのも怖いし、君と離れるのも怖い! 何もかも怖い! それでも、俺はもう、怖くないふりをして生きたくないんだ!」


外が、一瞬静かになった。


さとるは息を整えた。


「俺は、国のために死ぬことだけを考えていたんじゃない。生きて帰りたいと思っていた。薫と一緒に生きたいと思っていた。その気持ちまで、なかったことにはできない」


剛は、すぐには返事をしなかった。


やがて、押し殺した声が聞こえた。


「……お前らしいよ」


「剛……」


「だけどな、俺はお前たちを安全だなんて言えない。訓練用の魚雷で、本当に出撃できるのかもわからない。何が起きるかもわからないんだ」


「わかっている」


「わかっていても、止めたいんだよ。お前に死んでほしくないからだ!」


剛の声が震えた。


「薫にも、生きて帰ってほしい。二人とも、こんなところで終わってほしくないんだ!」


さとるは唇をかみしめた。


剛の言葉が、胸に突き刺さった。


自分たちの決断が、剛を苦しめている。


それがわかっていても、今さら何も感じないふりはできなかった。


「……ありがとう、剛」


さとるは静かに言った。


「お前が止めてくれたこと、忘れない」


「礼なんか言うなよ……」


「それでも、ありがとう」


しばらく、外から声は聞こえなかった。


やがて剛は、苦しそうに息を吐いた。


「上官は、お前の順番が近いと言っている。もう時間がない。俺はもう一度だけ、命令に従うよう伝える」


「ああ」


「それでも、お前が動かないなら……俺には、もうお前を無理やり引きずり出すことはできない」


その言葉の奥にある剛の苦しみを、さとるは感じ取った。


剛は二人を助けたい。


だが、二人の選択をすべて背負うこともできない。


「剛。お前は、お前自身の命を大切にしてくれ」


「馬鹿野郎。お前がそんなことを言うな」


剛は、かすかに笑ったようだった。


「帰ってこいよ、さとる。薫を連れて……帰ってこい」


さとるは返事をしようとした。


けれど、「必ず帰る」とは言えなかった。


その約束が、どれほど重いものなのか知っていたからだ。


「……帰りたい」


彼は、正直に答えた。


「俺は、帰りたいんだ」


外で、剛が息をのむ気配がした。


「だから、最後まで生きることを諦めたくない」


さとるは、薫の顔を見た。


薫は泣きながら、まっすぐに彼を見つめていた。


「私も……帰りたい」


彼女は言った。


「さとると一緒に、ここではない場所へ帰りたい」


その言葉を、剛も聞いていた。


けれど、二人の願いをかなえる方法を、誰も知らなかった。


訓練用魚雷が安全に出撃できるという保証はない。正式な許可もない。命令に従って別の魚雷へ移る道も、まだ残されている。


それでも二人は、互いの手を離さなかった。


外では、次の発射準備が進んでいた。


「次の機体、位置につけ!」


足音が走り、金属音が重なる。


さとるは薫の額に、自分の額をそっと寄せた。


「薫」


「うん」


「俺たちは、まだ生きている」


「うん……」


「だから、最後の瞬間まで、生きたいって思っていよう」


薫は、涙をぬぐいながらうなずいた。


「一緒にね」


二人は、手を握り合った。


その手は震えていた。


恐怖が消えたわけではない。


未来が見えたわけでもない。


ただ、二人とも自分の本当の気持ちを、もう隠さなかった。


そして外から、出撃を告げる声が近づいてきた。


「次――!」


さとるは薫の手を、もう一度だけ強く握った。


今度こそ、自分たちの番なのかもしれない。


二人は息を止め、次に響く言葉を待った。


まだ海は、何も答えてくれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。