第九十七話 ふたりを呼ぶ号令、海へ向かう決断
第九十七話 ふたりを呼ぶ号令、海へ向かう決断
「次――!」
甲板に、上官の声が響いた。
さとるは、訓練用魚雷の狭い内部で息を止めた。
隣にいる薫の手を握る。汗ばんだ手のひらは、震えていた。自分の手が震えているのか、薫の手が震えているのか、もうわからなかった。
外では、次の出撃を告げる声が飛び交っている。
「準備よし!」
「発進位置、確認!」
金属がぶつかる音。走り回る兵たちの足音。海面を叩く波の音。
そして――。
「三番、出撃!」
ドンッ――!!
腹の底を突き上げるような衝撃が伝わった。
ガガガガガッ――。
魚雷が発射される音が、船体を震わせる。続いて、海へ飛び出した機体が水を切る轟音が響いた。
ゴォォォォォ――ッ。
音は次第に遠ざかり、やがて波の音の中へ消えていった。
さとるは目を閉じた。
また一人、海へ向かった。
あの魚雷に乗った者も、出撃の直前まで恐れていたのだろうか。家族の顔を思い浮かべただろうか。帰ったら伝えようと思っていた言葉が、胸の中に残っていたのだろうか。
自分には、薫がいる。
すぐ隣にいる。
けれど、隣にいるからといって、二人の未来が約束されたわけではなかった。
「さとる……」
薫が小さく呼んだ。
「うん」
「今の音を聞いたら、急に怖くなった」
薫は、さとるの手を握り直した。
「ここまで来るまでは、あなたに会いたい、それだけだったの。でも、こうして本当に出撃が続いていくのを聞いていたら……私たちが向かおうとしている場所が、どんなところなのか、わかってきた気がする」
さとるは答えられなかった。
薫の言葉は、自分が心の奥に押し込めていた恐怖そのものだった。
「私、死ぬのが怖い」
薫は目を伏せた。
「あなたと一緒にいたい。でも、本当は、あなたと死にたいんじゃない。あなたと生きていたいの」
その言葉に、さとるの胸が強く締めつけられた。
「……俺もだ」
彼は、薫の手を両手で包んだ。
「俺だって死にたくない。君と一緒に海を見たい。戦争が終わったら、何でもない朝を迎えて、君と飯を食べて、くだらないことで笑って……そんな生活がしたい」
声がかすれた。
「本当は、ここに来る前からずっと、それを考えていたんだ」
「うん……」
「君に会えたら、怖くなくなると思っていた。でも、違った。君に会えたからこそ、死にたくないって気持ちが、前より強くなった」
薫の目から涙がこぼれた。
「それでいいよ、さとる。怖くていいんだよ」
彼女は涙を拭わずに続けた。
「生きたいって思うことは、恥ずかしいことじゃないもの」
さとるは、何度も小さくうなずいた。
外から、また声が響いた。
「次の機体、準備!」
二人の時間を、戦争が少しずつ削り取っていく。
そのときだった。
訓練用魚雷の外側で、慌ただしい足音が止まった。
「さとる! 薫!」
剛の声だった。
さとるは身を起こした。
「剛か!」
「聞こえるか! まだ中にいるな!」
「ああ!」
「上官から、もう一度命令が出た!」
剛の声には焦りがにじんでいた。
「訓練用魚雷での出撃は認められない! さとる、お前は別の魚雷に乗り換えろ、とのことだ!」
薫の指が、さとるの手を強く握った。
さとるは目を閉じた。
わかっていた。
このまま命令に従わなければ、軍の規律に背くことになる。剛にも、ここまで助けてくれた人たちにも、さらなる危険が及ぶかもしれない。
それでも、薫を置いて別の魚雷に乗り換えることはできなかった。
「剛!」
さとるは外へ向かって声を張った。
「俺は、ここを出ない!」
「さとる……!」
「命令に従わなければならないことは、わかっている! でも、俺は薫と一緒にここにいると決めたんだ!」
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか!」
「わかっている!」
さとるは、震える声で叫んだ。
「怖いんだ! 死ぬのも怖いし、君と離れるのも怖い! 何もかも怖い! それでも、俺はもう、怖くないふりをして生きたくないんだ!」
外が、一瞬静かになった。
さとるは息を整えた。
「俺は、国のために死ぬことだけを考えていたんじゃない。生きて帰りたいと思っていた。薫と一緒に生きたいと思っていた。その気持ちまで、なかったことにはできない」
剛は、すぐには返事をしなかった。
やがて、押し殺した声が聞こえた。
「……お前らしいよ」
「剛……」
「だけどな、俺はお前たちを安全だなんて言えない。訓練用の魚雷で、本当に出撃できるのかもわからない。何が起きるかもわからないんだ」
「わかっている」
「わかっていても、止めたいんだよ。お前に死んでほしくないからだ!」
剛の声が震えた。
「薫にも、生きて帰ってほしい。二人とも、こんなところで終わってほしくないんだ!」
さとるは唇をかみしめた。
剛の言葉が、胸に突き刺さった。
自分たちの決断が、剛を苦しめている。
それがわかっていても、今さら何も感じないふりはできなかった。
「……ありがとう、剛」
さとるは静かに言った。
「お前が止めてくれたこと、忘れない」
「礼なんか言うなよ……」
「それでも、ありがとう」
しばらく、外から声は聞こえなかった。
やがて剛は、苦しそうに息を吐いた。
「上官は、お前の順番が近いと言っている。もう時間がない。俺はもう一度だけ、命令に従うよう伝える」
「ああ」
「それでも、お前が動かないなら……俺には、もうお前を無理やり引きずり出すことはできない」
その言葉の奥にある剛の苦しみを、さとるは感じ取った。
剛は二人を助けたい。
だが、二人の選択をすべて背負うこともできない。
「剛。お前は、お前自身の命を大切にしてくれ」
「馬鹿野郎。お前がそんなことを言うな」
剛は、かすかに笑ったようだった。
「帰ってこいよ、さとる。薫を連れて……帰ってこい」
さとるは返事をしようとした。
けれど、「必ず帰る」とは言えなかった。
その約束が、どれほど重いものなのか知っていたからだ。
「……帰りたい」
彼は、正直に答えた。
「俺は、帰りたいんだ」
外で、剛が息をのむ気配がした。
「だから、最後まで生きることを諦めたくない」
さとるは、薫の顔を見た。
薫は泣きながら、まっすぐに彼を見つめていた。
「私も……帰りたい」
彼女は言った。
「さとると一緒に、ここではない場所へ帰りたい」
その言葉を、剛も聞いていた。
けれど、二人の願いをかなえる方法を、誰も知らなかった。
訓練用魚雷が安全に出撃できるという保証はない。正式な許可もない。命令に従って別の魚雷へ移る道も、まだ残されている。
それでも二人は、互いの手を離さなかった。
外では、次の発射準備が進んでいた。
「次の機体、位置につけ!」
足音が走り、金属音が重なる。
さとるは薫の額に、自分の額をそっと寄せた。
「薫」
「うん」
「俺たちは、まだ生きている」
「うん……」
「だから、最後の瞬間まで、生きたいって思っていよう」
薫は、涙をぬぐいながらうなずいた。
「一緒にね」
二人は、手を握り合った。
その手は震えていた。
恐怖が消えたわけではない。
未来が見えたわけでもない。
ただ、二人とも自分の本当の気持ちを、もう隠さなかった。
そして外から、出撃を告げる声が近づいてきた。
「次――!」
さとるは薫の手を、もう一度だけ強く握った。
今度こそ、自分たちの番なのかもしれない。
二人は息を止め、次に響く言葉を待った。
まだ海は、何も答えてくれなかった。




