第九十六話 「出撃!」ふたりを乗せた魚雷
第九十六話 「出撃!」ふたりを乗せた魚雷
「次――出撃準備!」
張り詰めた号令が、艦内に響き渡った。
さとるは、薫の手を握りしめた。
指先が冷たかった。
自分の手なのか、薫の手なのか、それさえわからなくなるほど、ふたりの手は強く結ばれていた。
外では、兵士たちが走り回っていた。
次の出撃に向けて、慌ただしく準備が進んでいる。
ひとり、またひとりと、若者たちが海へ向かっていく。
発射されるたび、艦内に衝撃が走った。
ドンッ――!!
ガガガガガッ――!!
ゴォォォォォ――ッ!!
音が遠ざかる。
そのたびに、さとるの胸は締めつけられた。
次は自分かもしれない。
もう、逃げられないのかもしれない。
そう考えると、呼吸がうまくできなくなった。
「さとる……」
薫が、そっと呼んだ。
「……ああ」
「私を見て」
さとるは、ゆっくりと顔を上げた。
薫の目にも、恐怖があった。
涙が浮かび、唇が震えている。
それでも、彼女はさとるを見つめていた。
「大丈夫だよ、なんて言わないから」
薫は、小さく息を吸った。
「私も怖い。今すぐ、ここから出て、あなたと一緒に逃げたい」
「……俺もだ」
「でも、ひとつだけ、はっきりしていることがあるの」
「何?」
「私は、あなたと出会えてよかった」
さとるの目に、涙が浮かんだ。
「薫……」
「あなたと高台で海を見たことも、一緒に話したことも、あなたが私のことを大切にしてくれたことも、全部、忘れたくない」
薫の声は震えていた。
「だから、お願い。自分の気持ちまで、嘘にしないで」
さとるは、彼女の手を握り直した。
「……俺は、生きたい」
「うん」
「君と一緒に帰りたい」
「私も」
「まだ、君としたいことがたくさんある」
薫は涙をぬぐった。
「だったら、その願いを捨てないで」
さとるは、深く頷いた。
生きたい。
その思いだけは、最後まで失いたくなかった。
*
一方、艦内の通路では、剛が指揮所へ向かっていた。
彼の顔には、疲労と緊張が浮かんでいた。
さとるが訓練魚雷に乗り込んでいることは、すでに上官に知られている。
上官は、訓練用魚雷での出撃を認めていない。
さとるには、別の魚雷に乗り換えるよう命令していた。
それでも、さとるは命令に従わなかった。
剛は、何度も説得した。
危険であることも伝えた。
許可がないことも伝えた。
それでも、さとるは薫と一緒にいることを選んだ。
剛は、足を止めた。
遠くから、また発射音が聞こえた。
ドンッ――!!
その音を聞きながら、剛は目を閉じた。
さとると一緒に訓練を受けていた日々が、頭に浮かんだ。
苦しい訓練のあと、ふたりで水を飲んだこと。
眠れない夜に、故郷の話をしたこと。
出撃する仲間の名前が呼ばれるたび、何も言えずに顔を見合わせたこと。
さとるは、死ぬことを恐れていた。
けれど、誰かの前で、その恐怖を簡単に口にできるわけではなかった。
それでも、今は違う。
薫と出会ったことで、さとるは生きたいと口にするようになった。
帰りたい場所があると、言えるようになった。
剛は、唇を噛んだ。
「……さとる。お前は、やっと生きたいと言えたんだな」
その言葉は、誰にも届かなかった。
剛は再び歩き出した。
せめて、ふたりが自分たちの命を軽んじることだけはないように。
それだけを願いながら。
*
訓練魚雷の外で、複数の足音が止まった。
「さとる!」
剛の声だった。
「剛!」
「聞こえるか!」
「ああ!」
剛は、息を切らしながら声を張り上げた。
「出撃の順番が迫っている! 上官は、まだ別の魚雷に乗り換えるよう命じている!」
さとるは、薫を見つめた。
彼女は、黙って頷いた。
さとるは外へ向かって答えた。
「俺は、ここにいる!」
「……本当に、それでいいんだな!」
剛の声が響いた。
「訓練用で出撃できる保証はない! 許可も出ていないんだぞ!」
さとるは、目を閉じた。
その事実を、忘れたことはなかった。
訓練用魚雷が、実際の出撃に耐えられるのか。
海へ出たあと、どうなるのか。
ふたりが生きて戻れるのか。
何ひとつ、確かなことはない。
「……わかっている!」
さとるは答えた。
「それでも、俺は薫と一緒にいたい!」
剛は、しばらく黙っていた。
やがて、苦しそうな声が返ってきた。
「……お前、本当に変わらないな」
さとるは、かすかに笑った。
「そうかもしれない」
「昔から、自分で決めたことは曲げない」
「……悪いな」
「謝るなよ」
剛の声が、少し震えた。
「ただ、ひとつだけ覚えておけ」
「何だ?」
「お前たちが生きたいと思っていることを、俺は否定しない」
さとるは、息を呑んだ。
「剛……」
「でも、俺はお前たちに死んでほしくない。それだけは、絶対に忘れるな」
さとるの目から、涙がこぼれた。
「……ありがとう」
外で、剛が深く息を吐く音がした。
それから、足音がゆっくりと遠ざかっていった。
*
しばらくして、艦内に緊張が走った。
指揮所から、短い命令が響く。
兵士たちが動き、次の発射に向けた準備が始まった。
さとるは、薫を見た。
「……来るかもしれない」
「うん」
「俺たちの番が」
薫は、彼の手を握った。
「わかってる」
「怖いか?」
「怖いよ」
薫は、正直に答えた。
「あなたと一緒にいたい。でも、本当は、こんな場所には来たくなかった」
さとるは、彼女を見つめた。
「……そうだよな」
「海が好きだったの。あなたと一緒に眺める海が、大好きだった」
薫の声が、少しずつ震え始めた。
「なのに、今は海が怖い。あの海の向こうに、何があるのか考えるだけで、胸が苦しくなる」
さとるは、彼女の手を包み込んだ。
「俺もだ」
「……うん」
「でも、俺は君と見た海を忘れたくない」
さとるは、静かに続けた。
「戦争の海じゃなくて、君と一緒に見た海を覚えていたい」
薫は、涙を流しながら頷いた。
「私も……」
「高台から見た海。風が吹いて、君の髪が揺れていたこと。君が笑ったこと」
さとるは、ひとつずつ思い出すように言った。
「俺は、あの日から、君と生きる未来を考えるようになった」
薫は、彼の胸にそっと手を置いた。
「私も、あの日から、あなたにまた会いたいと思っていた」
ふたりは、互いを見つめた。
そこには、恐怖だけではなく、確かな愛情があった。
どれほど短い時間だったとしても、ふたりは本当に愛し合っていた。
そして、その愛は、戦争が命じることとは違う未来を求めていた。
*
突然、艦内に大きな声が響いた。
「次、発射準備!」
さとるの身体が強張った。
薫も、息を呑んだ。
ふたりは、もう一度手を握り合った。
発射音が響く。
ドンッ――!!
ガガガガガッ――!!
ゴォォォォォ――ッ!!
またひとり、海へ向かっていった。
さとるは、唇を噛みしめた。
自分たちの順番が、すぐそこまで迫っている。
けれど、ふたりを乗せた訓練魚雷は、まだ発射されていなかった。
正式な許可はない。
出撃できる保証もない。
それでも、ふたりは乗り込んだままだった。
さとるは、薫の顔を見つめた。
「薫」
「うん」
「最後まで、俺と一緒にいてくれるか」
薫は、涙をぬぐい、しっかりと頷いた。
「もちろん」
「何が起きても?」
「うん。でも、私は、ただ一緒に死にたいわけじゃない」
さとるは、彼女の言葉に目を見開いた。
「私は、あなたと生きたい。あなたと帰りたい。だから、最後まで、生きることを諦めないで」
さとるは、強く頷いた。
「……ああ。俺も、そうする」
ふたりは、互いの手を握りしめた。
死ぬための覚悟ではなく、生きるための願いを胸に。
外では、また次の出撃準備が進んでいた。
やがて、指揮所から、緊張した声が響いた。
「次――!」
さとるは、薫の手を握り直した。
その声の続きが、自分たちに向けられるのか。
まだ、わからない。
けれど、ふたりは目をそらさなかった。
暗い訓練魚雷の中で、互いの温もりを確かめながら、次の号令を待っていた。
二十歳の恋が願った未来は、まだ消えていなかった。
たとえ、その未来へ続く道が見えなくなっていても。
ふたりは、最後まで生きることを願い続けていた。




