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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第九十五話 「出撃!」ふたりを呼ぶ最後の号令

第九十五話 「出撃!」ふたりを呼ぶ最後の号令


 ドンッ――!!


 艦内に、またひとつ激しい衝撃が走った。


 ガガガガガッ――!!


 金属が震え、重い振動が通路の奥まで伝わってくる。


 ゴォォォォォ――ッ!!


 発射された人間魚雷が、海へ向かって遠ざかっていった。


 さとるは、訓練魚雷の中で目を閉じていた。


 またひとり、出撃していった。


 あの音の向こうにいる仲間は、今、どんな気持ちで海を進んでいるのだろう。


 恐怖を押し殺しているのだろうか。


 それとも、故郷の家族や、帰る場所を思い浮かべているのだろうか。


 さとるには、わからなかった。


 ただ、発射の音が響くたび、自分の番が近づいていることだけは、嫌というほどわかった。


「……薫」


 さとるは、隣にいる彼女を呼んだ。


「なに?」


「俺たち、本当にここまで来たんだな」


 薫は、静かに頷いた。


「うん」


「山口にいた頃は、こんなことになるなんて思っていなかった」


 さとるの脳裏に、故郷の海が浮かんだ。


 訓練を終えたあと、仲間たちと眺めた夕焼け。


 潮の匂いを感じながら、いつか戦争が終わる日を夢見た夜。


 そして、薫と初めて言葉を交わした高台。


 あの日、彼女は海を見つめていた。


 風に髪を揺らしながら、穏やかな表情で笑っていた。


 さとるは、あの笑顔を、今でもはっきりと覚えている。


「君と初めて会った日、俺はこんなふうに君の手を握る日が来るなんて、想像もしなかった」


「私もだよ」


 薫は、さとるの手を握り返した。


「あなたが、こんなに大切な人になるなんて思わなかった」


「……うん」


「もっと、いろんな話をしたかったな」


 さとるは、彼女の顔を見た。


「これからも、話せばいい」


 自分でも驚くほど、強い声が出た。


「まだ、終わったわけじゃない。俺たちは、まだ生きている」


 薫の目に、涙が浮かんだ。


「そうだね」


「俺は、まだ君と話したいことがたくさんある」


「私も」


「だから……」


 さとるは、言葉を切った。


 その先を口にするのが、怖かった。


 生きて帰ろう。


 そう言いたかった。


 けれど、訓練魚雷での出撃は認められていない。


 安全に動く保証もない。


 ふたりの選択が、どんな結果につながるのかもわからなかった。


 それでも、願わずにはいられなかった。


「……一緒に帰ろう」


 薫は、涙をぬぐい、何度も頷いた。


「うん。一緒に帰ろう」


 その約束は、未来を保証するものではなかった。


 それでも、ふたりが生きたいと願う気持ちを、確かにつないでいた。


     *


 その頃、剛は指揮所の近くで、次々と伝えられる報告を聞いていた。


 出撃は続いている。


 発射のたびに、艦内が揺れる。


 さとるの順番も、刻一刻と近づいていた。


 剛は、訓練魚雷の方角を見つめた。


 さとるは、まだ中にいる。


 薫と一緒に、出撃を待っている。


 上官からは、何度も命令が出されていた。


 訓練用魚雷は使わせない。


 別の魚雷へ乗り換えさせる。


 しかし、さとるは従わなかった。


 剛には、もう一度説得する言葉が見つからなかった。


 さとるの決意は、十分すぎるほど伝わっていた。


 それでも、危険がなくなったわけではない。


 剛は、拳を握った。


「……頼むから、無事でいてくれ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 上官に聞かれれば、命令に従わせろと言われるだろう。


 さとるに聞かれれば、心配するなと笑われるかもしれない。


 けれど、剛は笑えなかった。


 親友が、今にも自分の手の届かない場所へ行ってしまう。


 その現実が、胸に重くのしかかっていた。


     *


 やがて、艦内の空気が変わった。


 慌ただしく動いていた兵士たちが、次の命令を待つように顔を上げる。


 遠くから、指揮所の声が響いた。


「次、出撃準備!」


 さとるの身体が強張った。


 薫も、彼の手を握りしめた。


「……さとる」


「うん」


「もうすぐなの?」


 さとるは、息を吸い込んだ。


「……そうかもしれない」


 薫の指先が震えていた。


 さとるも、同じだった。


 恐怖を消すことはできない。


 覚悟を決めたからといって、死が怖くなくなるわけではない。


 ふたりとも、まだ二十歳だった。


 もっと生きたかった。


 もっと笑いたかった。


 もっと一緒にいたかった。


 それなのに、今は、次の号令を待つことしかできなかった。


「薫」


「なに?」


「俺の顔を見て」


 薫は、ゆっくりと顔を上げた。


 さとるは、涙を浮かべながら微笑んだ。


「君に会えて、よかった」


 薫の目から、涙がこぼれた。


「……私も」


「本当に、よかった」


「うん……」


「だから、君は自分を責めないでくれ。君がここに来たことも、俺と一緒にいることも、俺は後悔していない」


 薫は首を横に振った。


「私だって、後悔していないよ」


 彼女は、さとるの頬にそっと触れた。


「でも、もっと一緒に生きたかった」


 さとるは、目を閉じた。


「……俺もだ」


 ふたりは、額を寄せた。


 言葉にできない思いが、胸の中にあふれていた。


 好きだという気持ち。


 離れたくないという願い。


 生きて帰りたいという、切実な思い。


 どれも、戦争がなければ、当たり前に抱いていられたはずのものだった。


     *


 突然、訓練魚雷の外で足音が止まった。


「さとる!」


 剛の声だった。


「剛!」


「聞こえるか!」


「ああ!」


 剛は、息を切らしながら叫んだ。


「出撃の順番が近い! 上官から、もう一度命令が出ている!」


 さとるは、薫の手を握った。


「……何と言っている?」


「今すぐ訓練魚雷から出ろ! 別の魚雷に乗り換えろ! 勝手な出撃は認めない、とのことだ!」


 さとるは、目を閉じた。


 何度も聞いた命令だった。


 従えば、薫と離れる。


 従わなければ、命令違反になる。


 しかも、乗り込んでいる訓練魚雷が安全に出撃できる保証はない。


 どちらを選んでも、恐怖は消えなかった。


「……剛」


「何だ!」


「俺は、ここにいる」


 外が静まり返った。


「さとる……!」


「俺は、薫と一緒に行く」


 剛は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、苦しそうな声が返ってきた。


「……わかった。だが、これだけは忘れるな」


「何だ?」


「お前たちは、死ぬためだけに生まれてきたんじゃない」


 さとるは、息を呑んだ。


「……ああ」


「生きたいんだろう?」


「……生きたい」


 さとるは、はっきりと答えた。


「薫と、生きたいんだ」


 剛の声が震えた。


「だったら、その気持ちを最後まで捨てるな」


 足音が遠ざかっていく。


 さとるは、しばらく目を閉じたまま、剛の言葉を胸に刻んでいた。


 命令に背いている。


 危険な選択をしている。


 その事実は、変わらない。


 けれど、自分が何を望んでいるのかだけは、もうわかっていた。


 生きたい。


 薫と一緒に、生きたい。


     *


 外から、再び発射音が響いた。


 ドンッ――!!


 ガガガガガッ――!!


 ゴォォォォォ――ッ!!


 艦内が揺れ、音が遠ざかっていく。


 さとるは、薫を抱きしめた。


「……もうすぐだ」


「うん」


「怖いよ」


 さとるは、彼女の肩に顔を寄せた。


「今でも、逃げたいと思っている」


 薫は、彼の背中に腕を回した。


「私も怖い」


「……うん」


「でも、あなたが怖いって言ってくれるから、私も怖いって言える」


 さとるは、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。


「無理に強くならなくていいんだな」


「うん。強いふりなんかしなくていい」


 薫は、涙を流しながら続けた。


「私たちは、ただの人間だもの。怖いし、悲しいし、好きな人と一緒にいたい。それだけなんだよ」


 さとるは、ゆっくりと頷いた。


「……そうだな」


 その言葉は、さとるの胸に深く染み込んだ。


 国のため。


 任務のため。


 命令のため。


 これまで、何度もそう言い聞かせてきた。


 けれど、その言葉の陰で、ひとりの若者としての自分の気持ちを押し込めてきたのではないか。


 怖い。


 帰りたい。


 愛する人と暮らしたい。


 それは、恥ずかしいことではなかった。


 人間として、ごく当たり前の願いだった。


 さとるは、薫の手を握り直した。


「薫。俺は、君と生きたい」


「うん」


「最後まで、そう願い続ける」


「私も」


 ふたりは、互いの手を強く握った。


     *


 そして、ついに、そのときが近づいてきた。


 艦内に、緊張した声が響いた。


「次の出撃、準備!」


 さとるは、顔を上げた。


 薫も、彼を見つめた。


 もう、時間はほとんど残されていないのかもしれない。


 さとるは、彼女の頬にそっと触れた。


「……行こう、薫」


「うん」


 ふたりは、最後にもう一度、互いの顔を見つめた。


 そこには、恐怖もあった。


 涙もあった。


 それでも、互いを思う気持ちだけは、揺らいでいなかった。


 外では、発射準備が続いている。


 しかし、訓練魚雷での出撃は認められていない。


 さとると薫が、次の号令にどう応えるのか。


 誰もが、それを知っているわけではなかった。


 さとるは、薫の手を握りしめた。


「離さない」


 薫も、彼の手を握り返した。


「私も」


 そのとき、指揮所から、張り詰めた声が響いた。


「次――!」


 さとるは、息を止めた。


 薫の手を、もう一度、強く握った。


 ふたりの未来を決めるかもしれない号令が、今まさに、艦内へ響こうとしていた。


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