第九十四話 発射の号令が響く前に
第九十四話 発射の号令が響く前に
ドンッ――!!
また、艦内に重い衝撃が響いた。
続いて、金属が激しく震える音が通路を走り抜けていく。
ガガガガガッ――!
ゴォォォォォ――ッ!
発射された人間魚雷が、海へ向かって遠ざかっていった。
さとるは、訓練魚雷の中で身を固くしていた。
発射音が響くたびに、身体が勝手に反応する。
肩に力が入り、喉が締まり、呼吸が浅くなる。
怖かった。
何度、自分に言い聞かせても、恐怖は消えてくれなかった。
このまま出撃すれば、もう戻れないかもしれない。
海の中で何が起きるのか、自分たちに何ができるのか、何ひとつ確かなことはない。
それでも、外では出撃が続いている。
戦争は、ひとりひとりの気持ちを待ってはくれなかった。
「さとる……」
薫が、そっと呼んだ。
「手、痛くない?」
さとるは、そこで初めて気づいた。
彼は薫の手を、強く握りすぎていた。
「あ……ごめん」
慌てて力を緩める。
薫は首を横に振った。
「いいの。私も、あなたの手を離したくないから」
ふたりは、もう一度手を握り直した。
「薫」
「うん」
「俺、さっきからずっと考えていたんだ」
「何を?」
「もし、戦争がなかったら……俺たちは今ごろ、何をしていたんだろうって」
薫は、少し考えた。
「そうだなあ……」
彼女は、涙をぬぐいながら、小さく笑った。
「あなたは、朝寝坊していたんじゃない?」
「えっ?」
「だって、訓練のない日くらい、ゆっくり眠りたいって言っていたでしょう?」
さとるは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、かすかに笑った。
「……言ったな、そんなこと」
「私は、朝ご飯を作って待っているの」
「君が?」
「何よ。その顔」
「いや……君が料理しているところ、あまり想像できなくて」
「ひどい!」
薫は、少しだけ頬を膨らませた。
ふたりは、ほんのわずかに笑った。
その笑い声は、すぐに消えてしまった。
けれど、さとるの胸には、温かなものが残った。
こんな話がしたかった。
戦争のことでも、命令のことでも、出撃のことでもない。
明日の朝、何を食べるか。
どんな家に住むか。
休みの日に、どこへ出かけるか。
そんな、何でもない話を、いつまでもしていたかった。
「……薫」
「うん?」
「俺、本当に君と暮らしたい」
さとるは、彼女の目を見た。
「いつか、海の見えるところに小さな家を建てよう。大きくなくていい。ふたりで暮らせる家があればいい」
薫の目が潤んだ。
「窓から海が見えるの?」
「ああ。朝になったら、窓を開けるんだ。潮の匂いがして、風が入ってきて……君が、まだ眠そうな顔で起きてくる」
「それで、あなたは朝寝坊しているのね」
「……それは、もう許してくれ」
薫は笑った。
涙が頬を伝っていたけれど、それでも笑っていた。
「いいよ。何度でも起こしてあげる」
さとるは、目を閉じた。
その未来を、頭の中で思い描いた。
小さな家。
海の見える窓。
朝の光。
隣にいる薫。
それは、どんな勲章よりも、どんな名誉よりも、さとるが欲しかったものだった。
*
その頃、剛は、指揮所へ向かう通路を急いでいた。
先ほど上官から受けた命令が、頭から離れなかった。
さとるを訓練魚雷から降ろすこと。
別の魚雷に乗り換えさせること。
そして、勝手な出撃をさせないこと。
どれも当然の命令だった。
訓練用魚雷での実戦出撃は認められていない。
動作や安全が保証されているわけでもない。
剛にも、それはわかっていた。
それでも、さとるの気持ちを思うと、胸が痛んだ。
薫と再会したさとるは、以前とは違っていた。
死ぬことを当然のように受け入れようとしていた男が、生きたいと言うようになった。
帰りたい場所があると、はっきり口にするようになった。
それは、剛にとって嬉しい変化だった。
だからこそ、失いたくなかった。
さとるにも、薫にも、生きていてほしかった。
剛は、通路の角で足を止めた。
目の前を、兵士が慌ただしく走り抜けていく。
誰もが、自分の役目を果たそうとしていた。
その中で、剛だけが、どうすれば親友を救えるのか、答えを見つけられずにいた。
「……くそっ」
思わず、声が漏れた。
自分にできることは、もう残っていないのだろうか。
そう思ったとき、剛の頭に、さとるの言葉がよみがえった。
――俺は、薫と一緒に生きたいんだ。
剛は、唇を噛んだ。
「……せめて、生きようとしてくれ」
それは、命令ではなかった。
親友への願いだった。
*
「次、準備!」
外から、号令が響いた。
さとるは、はっと顔を上げた。
薫も、彼の手を握りしめた。
ふたりの時間は、少しずつ削られていた。
さとるは、息を吸い込んだ。
「薫」
「うん」
「これから何が起きても、君に伝えておきたいことがある」
薫は、黙って彼を見つめた。
「君がここまで来てくれたこと、俺は忘れない。怖かったはずなのに、危険だったはずなのに、それでも俺を探しに来てくれた」
「……さとる」
「君に会えたから、俺は生きたいと思えたんだ」
さとるの声が震えた。
「それまでは、命令が出たら従うしかないと思っていた。自分がどうしたいかなんて、考えても仕方がないと思っていた」
彼は、薫の手を見つめた。
「でも、君と会って、初めて自分の人生を考えた。これから先、何をしたいのか。誰と生きたいのか。どこへ帰りたいのか」
薫は、涙をこぼしながら頷いた。
「私も、あなたと会えて、自分の気持ちを大切にしたいと思った」
「……うん」
「誰かに決められた未来じゃなくて、自分たちで選ぶ未来を生きたい」
さとるは、彼女を抱きしめた。
その腕は、震えていた。
薫も、震えていた。
ふたりとも、恐怖を感じていた。
未来が欲しいと願いながら、その未来が本当に訪れるのか、わからなかった。
それでも、互いの温もりを確かめるように、抱きしめ合った。
*
突然、外が騒がしくなった。
複数の足音が近づいてくる。
「こちらだ!」
「確認しろ!」
さとるは、薫をかばうように身体を寄せた。
ふたりが訓練魚雷に乗り込んでいることは、すでに上官に知られている。
許可は下りていない。
別の魚雷へ乗り換えろという命令にも、さとるは従っていない。
兵士たちが何をしに来たのか、わからなかった。
やがて、外から声が響いた。
「さとる! 中にいるのか!」
剛の声だった。
「剛!」
「聞こえるか!」
「ああ!」
剛は、息を整えながら叫んだ。
「出撃の順番が迫っている! 上官は、まだお前が命令に従うことを求めている!」
さとるは、薫を見つめた。
薫は、何も言わずに頷いた。
さとるは外へ向かって答えた。
「……俺は、ここにいる」
短い沈黙があった。
「さとる……」
剛の声には、悲しみがにじんでいた。
「お前、本当にそれでいいのか」
さとるは、すぐには答えなかった。
自分の選択が正しいと、言い切ることはできなかった。
訓練魚雷が安全に使える保証はない。
ふたりが生きて帰れる保証もない。
それでも、さとるは自分の気持ちを偽りたくなかった。
「……わからない」
正直に答えた。
「これが正しいのかどうか、俺にもわからない。怖いし、後悔するかもしれない」
さとるは、薫の手を握った。
「でも、薫を置いていくことはできない。俺は、君と生きたいんだ」
外で、剛が深く息を吐いた。
「……そうか」
しばらくして、剛は静かに言った。
「だったら、せめて最後まで、生きることを諦めるな」
さとるは、目を閉じた。
「……ああ」
剛の足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
*
艦内に、再び発射音が響いた。
ドンッ――!!
ガガガガガッ――!!
ゴォォォォォ――ッ!!
さとるは、目を閉じたまま、その音を聞いていた。
発射音が消えていく。
またひとり、海へ向かっていった。
そして、次の出撃が近づいてくる。
薫は、さとるの肩にそっと寄り添った。
「さとる……」
「うん」
「あなたと過ごした時間、短かったね」
さとるの胸が痛んだ。
「……ああ」
「もっと、一緒にいたかった」
「俺もだよ」
彼は、薫の手を握りしめた。
「もっと話したかった。もっと笑いたかった。君の知らないところも、たくさん知りたかった」
「うん……」
「一緒に年を取りたかった」
その言葉を口にした瞬間、さとるの目から涙がこぼれた。
二十歳。
これから、いくらでも未来を選べるはずの年齢だった。
それなのに、ふたりの未来には、出撃の号令が迫っている。
薫は、さとるの涙を指先でぬぐった。
「……私も、あなたと年を取りたかった」
さとるは、彼女を抱きしめた。
声を上げて泣きたかった。
怖いと叫びたかった。
生きたいと、誰かに助けを求めたかった。
けれど、今、腕の中にいる薫の前で、さとるはただ、彼女を強く抱きしめることしかできなかった。
「薫……」
「うん」
「俺は、まだ生きたい」
「うん」
「君と一緒に、生きたいんだ」
「私も……」
薫は、彼の胸に顔を埋めた。
「私も、あなたと生きたい」
その願いは、何度繰り返しても変わらなかった。
ふたりが望んでいるものは、ただ生きることだった。
けれど、外では戦争が、ふたりの順番を待っていた。
やがて、通路の向こうから、新たな号令が聞こえてきた。
さとるは、ゆっくりと顔を上げた。
薫も、彼を見つめた。
次の出撃が終われば、ふたりの番が来るかもしれない。
訓練魚雷での出撃は、認められていない。
安全も、成功も、何ひとつ約束されていない。
それでも、ふたりは手を握り合っていた。
さとるは、薫の額にそっと自分の額を寄せた。
「……一緒にいよう」
「うん」
「最後まで、君の手を離さない」
薫は、涙を浮かべながら頷いた。
「私も、離さない」
外で、またひとつ発射の準備が進んでいた。
ふたりは、その音を聞きながら、互いの温もりを確かめていた。
発射の号令が響く前に。
まだ、ふたりの時間が残されているうちに。
さとるは、薫の手を握りしめた。
そして、心の中で、何度も願った。
どうか、明日を。
どうか、もう一度、あの海を。
どうか、薫と一緒に帰れる未来を。
その願いを知る者は、誰もいなかった。
ただ、ふたりを包む狭い空間の中で、ふたつの鼓動だけが、確かに生きていた。




