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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第九十三話 ふたりの出撃、海へ向かう決意

第九十三話 ふたりの出撃、海へ向かう決意


 ドンッ――!!


 艦内を揺るがす衝撃が響いた。


 ガガガガガッ――!


 金属が激しく震え、重い振動が床から伝わってくる。


 ゴォォォォォ――ッ!


 発射された人間魚雷が、海へ向かって遠ざかっていった。


 その音が消えると、艦内には一瞬、奇妙な静けさが広がった。


 だが、それはほんのわずかな時間だった。


「次、準備!」


 すぐに怒号が飛び、兵士たちが慌ただしく動き始める。


 出撃は続いていた。


 さとるは、訓練魚雷の中で薫の手を握っていた。


 何度も聞いた発射音なのに、聞くたびに胸が締めつけられる。


 あの音の向こうには、海がある。


 そして、出撃していった仲間たちがいる。


 戻ってくる保証はない。


 そのことを、さとるは誰よりもよくわかっていた。


「……薫」


「なに?」


「もうすぐ、俺たちの順番が来る」


 薫は、静かに頷いた。


「うん」


「怖くないか、なんて聞かないよ。怖いに決まっているから」


 薫は、彼の手を握り返した。


「さとるも怖い?」


「怖い」


 今度は、迷わず答えた。


「今すぐここから出て、君と一緒に逃げたいと思うくらい怖い」


 薫の目に涙が浮かんだ。


「私も、あなたと逃げたい」


「……ああ」


「誰もいないところへ行って、ふたりで暮らしたい。戦争のことを考えなくていい場所で、朝になったら一緒に起きて、ご飯を食べて、夜になったら眠るの」


「うん」


「そんな普通の毎日がほしい」


 さとるは、目を伏せた。


 それは、何も特別な願いではなかった。


 大きな家も、豊かな暮らしもいらない。


 ただ、生きていたい。


 好きな人と、明日を迎えたい。


 けれど、今のふたりには、その当たり前の未来さえ、遠いものになっていた。


「薫……俺は、君と出会う前、明日のことなんて深く考えていなかった」


 さとるは、ゆっくりと言葉を続けた。


「訓練があって、命令があって、やらなきゃいけないことがあって。それをこなすだけで、一日が終わっていた」


 彼は、薫の顔を見つめた。


「でも、君と出会ってから、明日がほしくなった」


「さとる……」


「明日も君に会いたい。明後日も、その次の日も。いつか戦争が終わったら、君と一緒に暮らしたい」


 さとるの声が震えた。


「俺は、まだ二十歳なんだ。まだ、何もできていない。君と過ごした時間だって、ほんのわずかしかない」


 薫は涙をこぼしながら頷いた。


「私も、まだ二十歳だよ」


「……うん」


「まだ、あなたとしたいことがたくさんある」


 薫は、少しだけ笑った。


「一緒に町を歩きたい。おいしいものを食べたい。あなたがどんな家に住みたいのかも聞きたい。年を取ったら、どんな顔になるのかも見てみたい」


 さとるは、涙をこらえられなかった。


「……俺も、全部したい」


「うん」


「全部、君としたいんだ」


 ふたりは、手を握ったまま、しばらく顔を見合わせていた。


 外では、また発射の準備が進められている。


 時間は、待ってくれなかった。


     *


 その頃、剛は、指揮所から訓練魚雷の保管場所へ続く通路に立っていた。


 遠くから、兵士たちの声が聞こえる。


 次の出撃が近い。


 上官は、さとるに別の魚雷へ乗り換えるよう命じている。


 訓練用魚雷での出撃は認められていない。


 それでも、さとるは命令に従わず、薫とともに中に残っていた。


 剛は、何度も足を止めては、また歩き出した。


 どうすればいい。


 もう一度説得するべきか。


 それとも、ふたりの決意を受け止めるべきなのか。


 どちらを選んでも、結果を変えられる保証はなかった。


 剛は、壁に手をついた。


「……さとる」


 声にならないほど小さく、親友の名を呼んだ。


 山口で一緒に訓練を受けていた頃、さとるは決して弱音を見せない男ではなかった。


 怖いときは、怖いと言った。


 苦しいときは、黙って歯を食いしばった。


 それでも翌朝になると、また訓練場に立っていた。


 剛は、そんなさとるを知っていた。


 だからこそ、今の決意もわかる気がした。


 さとるは、死にたいのではない。


 薫と生きたいのだ。


 それでも、訓練用魚雷で出撃することが危険である事実は変わらない。


 剛は目を閉じた。


「……生きて帰ってこいよ」


 その言葉を、今度ははっきりと口にした。


     *


「さとる!」


 外から、再び剛の声が響いた。


 さとるは顔を上げた。


「剛か!」


「ああ!」


 剛は、訓練魚雷のそばまで来ていた。


「出撃の順番が近づいている!」


 さとるは、薫の手を握り直した。


「わかった!」


「最後にもう一度だけ聞く。命令に従って、別の魚雷に乗り換える気はないのか!」


 さとるは、しばらく黙っていた。


 薫が、隣で息を呑む。


 外へ出れば、命令に従う道が残されている。


 しかし、その道を選べば、薫とは離れることになる。


 さとるは、彼女の顔を見た。


 薫も、まっすぐに彼を見つめていた。


「……ない」


 さとるは答えた。


「俺は、薫と一緒にいる」


 外で、剛が息を吐く音がした。


「……そうか」


「剛。何度も来てくれて、ありがとう」


「礼なんか言うな」


 剛の声は、苦しそうだった。


「俺は、お前を説得できなかった。それだけだ」


「違うよ」


 さとるは、すぐに言った。


「君は、俺たちを助けようとしてくれた。山口にいた頃から、ずっとそうだった」


「……」


「君がいてくれたから、薫に会えた。だから、俺は君に感謝している」


 剛は、返事をしなかった。


 しばらくして、低い声が聞こえた。


「さとる。ひとつだけ、約束しろ」


「何だ?」


「生きたいという気持ちを、最後まで捨てるな」


 さとるは、息を止めた。


「……ああ」


「薫もだ」


 薫は、外へ向かって小さく頷いた。


 声を出すことはできなかった。


 それでも、その仕草で気持ちは伝わった。


 剛は、それ以上何も言わず、静かにその場を離れた。


     *


 しばらくして、艦内に新たな号令が響いた。


「次、出撃準備!」


 さとるの胸が大きく跳ねた。


 いよいよ、自分たちの順番が近い。


 薫は、彼の手を強く握った。


「さとる」


「うん」


「もし、何が起きても……あなたに会えてよかった」


 さとるは、すぐに首を横に振った。


「それは、これからも何度だって言ってくれ」


 薫は、驚いたように彼を見た。


「……え?」


「今だけじゃない。これから先も、ずっと聞きたい」


 さとるは、涙を浮かべながら笑った。


「だから、これで最後みたいな言い方をするなよ」


 薫の頬を、涙が伝った。


「……うん。わかった」


「俺たちは、まだ生きている」


 さとるは、彼女の手を自分の胸に当てた。


「ほら。心臓が動いているだろう」


 薫は、彼の胸に手を置いたまま、何度も頷いた。


「うん……」


「君の心臓も動いている。俺たちは、まだここにいるんだ」


「うん」


「だから、俺は生きることを諦めない」


 薫は、彼の胸に顔を寄せた。


「私も、諦めない」


 ふたりは、互いを抱きしめた。


 外では、兵士たちが走っている。


 命令が飛び交い、出撃の準備が進んでいる。


 その中で、ふたりだけの時間が、ほんのわずかに流れていた。


 やがて、外から足音が近づいてきた。


 剛の声ではない。


 複数の兵士が、何かを確認しながら近づいてくる気配だった。


 さとるは、薫をかばうように身体を寄せた。


 まだ、訓練魚雷での出撃は認められていない。


 ふたりが乗り込んでいることを、上官が再び知れば、何らかの命令が下されるだろう。


 それでも、ふたりはそこにいた。


 互いの手を握り、迫りくる時間を待っていた。


 さとるは、薫の耳元で小さく囁いた。


「……離さないから」


 薫は、彼の手を握り返した。


「私も、離さない」


 そのとき、艦内に再び発射音が響いた。


 ドンッ――!!


 ガガガガガッ――!!


 ゴォォォォォ――ッ!!


 またひとり、海へ向かっていった。


 さとるは、目を閉じた。


 次の号令が、いつ響くのか。


 それは、まだわからない。


 けれど、ふたりの出撃の順番は、確実に近づいていた。


 二十歳の恋。


 その恋が願ったのは、名誉でも、勲章でもなかった。


 ただ、好きな人と生きること。


 同じ朝を迎え、同じ海を見て、同じ家へ帰ること。


 そんな、当たり前の未来だった。


 その未来を奪おうとする戦争のただ中で、さとると薫は、互いの手を離さずにいた。


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