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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第九十二話 最後の発射音、ふたりを乗せた海へ

第九十二話 最後の発射音、ふたりを乗せた海へ


 ドンッ――!


 艦内に、またひとつ大きな衝撃が響いた。


 続いて、金属が激しく震える音がした。


 ガガガガガッ――!


 艦の奥から響く振動が、床を伝って足元まで届く。


 ゴォォォォォ――ッ!


 人間魚雷が発射され、海へ向かっていく音だった。


 さとるは、訓練魚雷の中で目を閉じた。


 またひとり、出撃していった。


 次は誰なのだろう。


 山口で一緒に訓練を受けた仲間たちの顔が、次々と頭に浮かんだ。


 笑い合った日。


 厳しい訓練で倒れそうになった日。


 夜、誰にも聞かれないように、故郷の話をした日。


 みんな、同じように二十歳前後の若者だった。


 帰ったら、やりたいことがあったはずだ。


 もう一度、母親の作った飯を食べたい者もいた。


 父親と一緒に畑仕事をしたい者もいた。


 好きな人に会いたい者もいた。


 それなのに、彼らは今、ひとりずつ海へ送り出されている。


 さとるは、自分の手が震えていることに気づいた。


 止めようとしても止まらない。


 拳を握っても、指先の震えは消えなかった。


「さとる……」


 隣にいる薫が、小さく呼んだ。


「手、冷たくなってるよ」


「……そうか」


 さとるは、笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「ごめんな。君まで、こんな場所に連れてきてしまった」


 薫は首を横に振った。


「謝らないで」


「でも……」


「私は、自分でここに来たの。あなたに会いたくて、自分の足でここまで来たんだよ」


 薫は、さとるの震える手を両手で包んだ。


「だから、私がここにいることを、あなたのせいにしないで」


 さとるは、彼女を見つめた。


 薫の顔にも恐怖があった。


 涙で濡れた目。


 固く結ばれた唇。


 震える指先。


 彼女だって、怖くないはずがなかった。


 それでも、薫はさとるの手を離さなかった。


「……怖いか?」


 さとるが尋ねた。


「怖いよ」


 薫は、迷わず答えた。


「すごく怖い。これから何が起きるのかもわからないし、ここから出られるのかもわからない」


「うん……」


「本当は、こんなところじゃなくて、あの高台にいたかった」


 その言葉に、さとるの胸が締めつけられた。


 ふたりで海を眺めた高台。


 風に吹かれながら、いつか一緒に暮らそうと話した場所。


 あの場所では、海は美しかった。


 どこまでも広く、どこまでも青く、ふたりの未来まで続いているように見えた。


 今、その同じ海へ向かって、若者たちが命を懸けて出撃している。


「俺も……戻りたい」


 さとるは、声を絞り出した。


「あの高台に戻って、君と海を見たい。今度は出撃のことなんか考えずに、ただ海がきれいだなって、それだけを思っていたい」


「うん……」


「君と一緒に帰りたいんだ」


 薫の目から、涙がこぼれた。


「私も、帰りたい」


 ふたりは、額をそっと寄せた。


 その瞬間だけは、艦内の轟音も、上官の命令も、戦争のことも、遠くへ消えていくようだった。


 けれど、現実はふたりを待ってはくれなかった。


     *


 一方、艦内の別の場所では、剛が指揮所の前に立っていた。


 出撃の順番は、確実に進んでいた。


 発射のたびに、艦内に衝撃が走る。


 その音を聞くたび、剛は訓練魚雷の中にいるさとるのことを考えずにはいられなかった。


 さとるの乗る予定だった魚雷は動かない。


 そのため、上官は別の魚雷に乗り換えるよう命じた。


 しかし、さとるは命令に従わず、薫とともに訓練魚雷の中にいる。


 訓練用のものを実際の出撃に使用する許可は、まだ下りていない。


 安全に動く保証もない。


 剛は、その事実を何度も考え直した。


 ふたりを止めるべきなのか。


 それとも、ふたりの選んだ道を受け入れるしかないのか。


 どちらを選んでも、胸が痛んだ。


「剛!」


 上官の声が飛んできた。


 剛は、すぐに背筋を伸ばした。


「はい!」


「さとるは、まだ訓練魚雷にいるのか!」


「……はい!」


「命令に従わせろと言ったはずだ!」


「申し訳ありません!」


 上官は厳しい表情で剛を見た。


「訓練用は実戦用ではない。許可も出ていない。勝手に出撃させるわけにはいかん!」


「承知しております!」


「ならば、なぜまだそこにいる!」


 剛は、答えられなかった。


 さとるを説得した。


 何度も命令を伝えた。


 それでも、さとるは動かなかった。


 薫を置いていかない。


 その決意だけは、どんな言葉を使っても変わらなかった。


「……もう一度、行ってまいります」


 剛は敬礼した。


 上官は短く頷いた。


「急げ。出撃の順番が迫っている」


「はい!」


 剛は走り出した。


 だが、心の中では、別の願いが膨らんでいた。


 頼む。


 せめて、ふたりが生きて帰れる道があってくれ。


 それだけだった。


     *


「さとる!」


 訓練魚雷の外から、剛の声が聞こえた。


 さとるは、薫を見つめた。


 薫は静かに頷いた。


 さとるは、外へ向かって答えた。


「剛、ここにいる!」


「もう一度言うぞ! 上官は、別の魚雷に乗り換えろと命令している!」


「……わかっている」


「訓練用での出撃は認められていない! 動作も安全も保証されていないんだ!」


 さとるは、唇を噛んだ。


 剛の言っていることは、正しかった。


 訓練用魚雷で本当に出撃できるのか。


 発進できたとして、その先はどうなるのか。


 ふたりが生きて戻れるのか。


 何ひとつ、確かなことはなかった。


 それでも、さとるは薫の手を離せなかった。


「剛……俺は、君の言葉を忘れない」


「だったら、出てこい!」


「でも、俺は薫と一緒にいると決めたんだ」


 外が静かになった。


 剛は、すぐには返事をしなかった。


 やがて、押し殺した声が響いた。


「……お前は、本当に頑固だな」


 さとるは、ほんの少しだけ笑った。


「昔からだろ」


「こんなときまで、変わらないのかよ……」


 剛の声が震えた。


「俺は、お前を失いたくないんだぞ」


 その言葉に、さとるの目が熱くなった。


「俺だって、君と別れたくない」


「だったら……!」


「でも、俺には薫がいる。薫と一緒に生きたいんだ」


 さとるは、言葉を選びながら続けた。


「俺は、死ぬために生まれてきたんじゃない。誰かを殺すためだけに生きてきたんでもない。君も、薫も、みんなそうだろう?」


 剛は黙っていた。


「本当は、みんなで帰りたいんだ。戦争が終わったら、また会って、くだらない話をして、笑いたい」


 さとるの声が、少しずつかすれていく。


「俺は、その未来を諦めたくない」


 長い沈黙のあと、剛が言った。


「……わかった」


 それは、許可ではなかった。


 訓練魚雷での出撃を認めたわけでも、命令違反を許したわけでもなかった。


 ただ、これ以上、さとるの気持ちを否定できなかったのだ。


「でも、忘れるな。俺は最後まで、お前たちに生きていてほしいと思っている」


 さとるは、深く息を吸った。


「ありがとう、剛」


 剛の足音が、少しずつ遠ざかっていった。


     *


 その後も、出撃の号令は続いた。


「次、出撃準備!」


 艦内を走る兵士たちの足音。


 指揮所から響く命令。


 金属がぶつかる音。


 そして、海へ向かう人間魚雷の発射音。


 ドンッ――!


 ガガガガガッ――!


 ゴォォォォォ――ッ!


 音が遠ざかるたび、さとるは自分の番が近づいていることを感じた。


 薫は、彼の肩にそっと頭を寄せた。


「さとる」


「うん」


「もし、私たちがこの先、離れ離れになったとしても……あなたに出会ったことを、私は忘れない」


 さとるは、すぐに彼女の顔を見た。


「そんなこと、言うなよ」


「ごめんね。でも、言っておきたかったの」


「俺たちは、まだ一緒にいる」


「うん」


「まだ、何も終わっていない」


 さとるは、薫の手を両手で包んだ。


「俺は、君と生きたい。最後まで、その気持ちは変わらない」


 薫は、涙をぬぐって微笑んだ。


「私も」


 ふたりは、互いの顔を見つめた。


 これが最後の会話になるかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎるたび、さとるは必死に打ち消した。


 まだだ。


 まだ、終わりだと決まったわけじゃない。


 訓練魚雷での出撃は認められていない。


 安全が確かめられたわけでもない。


 それでも、ふたりはここにいる。


 そして、ふたりの順番が近づいていた。


 さとるは、薫の手を握りしめた。


「……行こう、薫」


「うん」


 外から、慌ただしい声が響いた。


 次の出撃を告げる声だった。


 ふたりは、顔を見合わせた。


 怖かった。


 それでも、互いの手を離さなかった。


 艦内に、再び低い振動が広がった。


 ふたりを乗せた訓練魚雷は、まだ発射されていない。


 許可もない。


 確かな見通しもない。


 けれど、さとると薫は、もう引き返さないと決めていた。


 外では、戦争がふたりを急かしていた。


 内側では、ふたりが互いの温もりを確かめていた。


 そして、海は何も語らず、ただ静かに、ふたりを待っていた。


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