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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第九十一話 最後の命令、離さない手

第九十一話 最後の命令、離さない手


 ドンッ――!


 また、艦内に重い衝撃が響いた。


 ガガガガガッ――!


 金属が震える音が続き、低い轟音が艦の奥から遠ざかっていく。


 ゴォォォォォ――ッ。


 やがて、その音も消えた。


 さとるは、薫の手を握ったまま、じっとしていた。


 何度聞いても、発射の音には慣れなかった。


 衝撃が走るたび、身体が強張る。轟音が遠ざかるたび、胸の奥が冷たくなる。


 今、海へ出ていった若者は、もう艦内にはいない。


 その若者にも、名前があった。


 家族がいたかもしれない。


 故郷に帰ったらしたいことが、いくつもあったかもしれない。


 それなのに、ここでは番号が呼ばれ、発射の号令が響き、ひとりずつ海へ送り出されていく。


 さとるは唇を噛んだ。


 次は、自分かもしれない。


 そう思うだけで、息が苦しくなった。


「さとる……」


 薫の声がした。


「大丈夫?」


 さとるは、すぐに答えられなかった。


 大丈夫だと言いたかった。


 薫を安心させたかった。


 けれど、今の自分に、そんな嘘をつくことはできなかった。


「……大丈夫じゃない」


 正直に答えた。


「怖い。次に何が起きるのか、わからない。俺たちがこの先どうなるのかも、わからない」


 薫は、彼の手を握り直した。


「私も怖いよ」


「うん」


「でも、あなたが怖いって言ってくれて、少し安心した」


 さとるは、彼女を見つめた。


「どうして?」


「あなたが、無理に強いふりをしていないから」


 薫は涙をぬぐった。


「私は、あなたに勇敢な人になってほしいんじゃない。生きていてほしいの。怖くてもいいから、生きていてほしい」


 さとるの目に、涙が浮かんだ。


 生きたい。


 何度も心の中で繰り返してきた言葉だった。


 戦争が始まる前なら、当たり前すぎて、口にすることさえなかった願い。


 明日も生きていること。


 好きな人と会えること。


 食事をして、眠って、また朝を迎えること。


 それらが今は、手の届かない夢のように思えた。


「俺は……君と暮らしたい」


 さとるは、薫の手を包み込んだ。


「朝、目を覚ましたら君がいて、くだらない話をして、食事をして。夕方になったら、ふたりで海を見に行く。そんな毎日がほしい」


「うん……」


「戦争なんかじゃなくて、普通の人生を生きたいんだ」


 薫は、涙を流しながら頷いた。


「私も、それがほしい」


 ふたりは、しばらく黙っていた。


 狭い空間の中で、互いの呼吸だけが聞こえていた。


 外では、まだ出撃の準備が続いている。


 ふたりの願いとは関係なく、戦争の時間は進んでいた。


     *


 一方、剛は、指揮所の前で足を止めていた。


 さとるに命令を伝えたあとも、胸の中の不安は消えなかった。


 上官は、訓練用魚雷での出撃を認めていない。


 さとるには、別の魚雷へ乗り換えるよう命じている。


 それでも、さとるは従わなかった。


 薫と一緒に訓練魚雷に乗り込み、その中で出撃を待っている。


 剛は、どうしても納得できなかった。


 さとるの気持ちはわかる。


 薫を置いていきたくないことも、ひとりで海へ向かうことが怖いことも。


 けれど、訓練用魚雷が実際の出撃に使える保証はない。


 許可も下りていない。


 それでも出撃しようとすれば、ふたりの命が危険にさらされる。


「……どうすればいいんだ」


 剛は、低くつぶやいた。


 そのとき、背後から上官の声がした。


「剛!」


 剛は、すぐに振り返って敬礼した。


「はい!」


「さとるはどうした!」


「訓練用魚雷から出てきておりません!」


 上官の顔が険しくなった。


「まだ命令に従わないのか!」


「……はい!」


「もう一度伝えろ! 訓練用は使わせない。別の魚雷に乗り換えろと命令したはずだ!」


「承知しました!」


 剛は答えた。


 だが、上官はその場を離れず、さらに言った。


「出撃の順番が迫っている。これ以上、勝手な行動をさせるわけにはいかん。必ず連れ戻せ!」


「……はい!」


 剛は敬礼を解き、再び走り出した。


 心臓が激しく打っていた。


 今度こそ、さとるを止めなければならない。


 けれど、剛にはわかっていた。


 さとるが薫の手を離すとは思えなかった。


     *


「さとる!」


 訓練魚雷の外から、剛の声が響いた。


 さとるは、薫を見た。


 彼女は黙って頷いた。


 さとるは外へ向かって声を返した。


「剛、聞こえている!」


「上官から、もう一度命令が出た!」


 剛の声は、さっきよりも切迫していた。


「訓練用魚雷から降りろ! 別の魚雷に乗り換えろ! これが最後の命令だ!」


 さとるは、目を閉じた。


 最後の命令。


 その言葉が、重く胸に落ちた。


 ここで降りれば、別の魚雷に乗ることになる。


 薫と離れ、ひとりで出撃する。


 それが軍の命令だった。


 さとるは、自分が軍人であることを忘れていたわけではない。


 訓練を受け、命令に従い、出撃のために準備を重ねてきた。


 しかし、薫と再会してから、心の中で何かが変わってしまった。


 自分にも、帰りたい場所がある。


 待っていてくれる人がいる。


 戦争が終わったら、一緒に生きたい人がいる。


 それを思い出してしまった。


 そして、一度思い出した願いを、もうなかったことにはできなかった。


「……剛」


 さとるは、ゆっくりと口を開いた。


「俺は、命令に背いている。それはわかっている」


「だったら、出てこい!」


「でも、薫を置いていくことはできない」


「さとる……!」


「俺だって、死にたいわけじゃない。死ぬ覚悟ができたわけでもない。怖いんだ。今だって、身体が震えている」


 さとるは、薫の手を握りしめた。


「それでも、俺は生きたい。薫と生きたいんだ」


 剛は、しばらく黙っていた。


 やがて、苦しそうな声が返ってきた。


「……お前が何を考えているのか、俺にはわかる」


「剛……」


「でも、頼む。無茶だけはするな。訓練用で出撃できる保証はないんだ。俺は、お前たちを失いたくない」


 さとるは、目を閉じた。


「ありがとう」


 その一言しか、言えなかった。


     *


 外から、また号令が響いた。


「次、出撃準備!」


 さとるは、はっと顔を上げた。


 出撃は止まらない。


 ひとり、またひとりと、若者たちが海へ向かっていく。


 自分の順番も、近づいている。


 薫が、さとるの顔を見つめた。


「どうするの?」


 さとるは、深く息を吸った。


「……ここにいる」


「本当に?」


「ああ」


 彼は、彼女の目を見て答えた。


「俺は、君と一緒に行くと決めた」


 薫は、涙をぬぐった。


「私も、あなたと一緒に行く」


 ふたりは、互いの手を握り合った。


 そのとき、外で慌ただしい足音が近づいてきた。


「さとる!」


 剛だった。


「時間がない! もうすぐ、お前の出撃の順番だ!」


 さとるは、返事をしなかった。


 剛の声が、さらに強くなる。


「上官の命令に従え! 訓練用は使えないんだ!」


「……わかっている」


「わかっているなら、出てこい!」


 さとるは、薫を見つめた。


 彼女は、彼の手を握り返した。


 ふたりとも、怖かった。


 何が起きるかわからない。


 この先、助かる保証もない。


 訓練用魚雷が、実際の出撃に使える保証もない。


 それでも、さとるは決めていた。


「剛……すまない」


 それだけを言った。


 外で、剛が息を呑む気配がした。


「さとる……!」


 その声には、怒りよりも悲しみがあった。


 さとるは目を閉じた。


 剛には、何度も助けてもらった。


 山口にいた頃から、恐怖を抱える自分を支えてくれた。


 そして、薫をここまで連れてきてくれた。


 その剛に、また迷惑をかけている。


 それでも、今だけは、自分の選択を曲げることができなかった。


     *


 しばらくして、外の足音が遠ざかった。


 さとるは、薫の手を握ったまま、静かに息を吐いた。


「……行こう」


 薫は、彼を見つめた。


「出撃するの?」


「ああ」


 さとるは答えた。


 上官の許可はない。


 訓練用魚雷での出撃は認められていない。


 別の魚雷へ乗り換えろという命令にも、従っていない。


 それでも、ふたりはここにいる。


 さとるは、薫とともに、訓練魚雷で出撃することを選んだ。


 それがどれほど危険な選択なのか、わからないはずはなかった。


 それでも、ふたりは互いの手を離さなかった。


「薫」


「うん」


「何があっても、君と出会えたことを後悔しない」


 薫の目から、涙がこぼれた。


「私も。あなたと出会えてよかった」


 さとるは、彼女を抱きしめた。


 ほんの短い時間だった。


 外では、次の出撃を告げる声が響いている。


 ふたりの時間は、もう残り少ないのかもしれない。


 それでも、さとるは薫の温もりを確かめた。


 まだ生きている。


 薫も、ここにいる。


 それだけが、今のふたりにとって確かなことだった。


 外から、また轟音が響いた。


 ドンッ――!


 ガガガガガッ――!


 ゴォォォォォ――ッ!


 誰かが、また海へ出ていった。


 さとるは、薫の手を握った。


 次は、自分たちかもしれない。


 そう思いながら、ふたりは暗い内部で、静かにその瞬間を待っていた。


 命令に背いてでも、互いの手を離さないと決めたふたり。


 その決意の先に何が待っているのか。


 まだ、誰にもわからなかった。


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