第九十話 迫る順番、ふたりの決意
第九十話 迫る順番、ふたりの決意
ドンッ――!
また、艦の奥から重い衝撃音が響いた。
ガガガガガッ――。
金属が震え、低い轟音が艦内を伝わってくる。
ゴォォォォォ――ッ。
音は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
またひとり、出撃した。
さとるは、訓練魚雷の狭い内部で、薫の手を握りしめていた。
外から聞こえる発射音は、もう何度目だろう。
一番、二番、三番。
番号が呼ばれるたび、若者たちが海へ送り出されていく。
そのたびに、さとるの胸は締めつけられた。
自分の順番が近づいている。
それは、もう疑いようのない現実だった。
「……さとる」
薫が小さく呼んだ。
「うん」
「さっき、剛さんが言っていたこと……」
さとるは、彼女の顔を見た。
「別の魚雷に乗り換えろっていう命令のこと?」
薫は頷いた。
「私たち、このままでいいのかな」
その問いには、迷いと恐怖が混じっていた。
さとるはすぐに答えられなかった。
上官の命令は、訓練用魚雷での出撃を認めないというものだった。さとるには、別の魚雷に乗り換え、命令どおりに出撃するよう求められている。
それが軍の決定だった。
しかし、さとるが別の魚雷に乗れば、薫はここに残される。
そして、自分は再び、ひとりで死と向き合うことになる。
さとるは薫の手を握り直した。
「……正しいことをしているのか、俺にもわからない」
薫は、黙って彼の言葉を聞いていた。
「命令に背いていることもわかっている。訓練用の魚雷が、実際の出撃に使える保証がないこともわかっている。俺たちがここにいることが、どれだけ危険なのかも……」
さとるは、一度言葉を切った。
「それでも、君を置いていくことができないんだ」
薫の目に涙が浮かんだ。
「私も、あなたと離れたくない」
「薫……」
「でも、あなたに生きてほしいの。私と一緒にいることだけが大切なんじゃない。あなたが生きて、明日を迎えてくれることが大切なの」
その言葉に、さとるは胸を突かれた。
薫は、ただ一緒に死ぬことを望んでいるわけではなかった。
彼女が求めているのは、さとると生きる未来だった。
朝、目を覚ましたときに、隣に彼がいること。
食事をしながら、今日あったことを話すこと。
海辺を歩き、夕日を眺め、夜になったら同じ家へ帰ること。
そんな何でもない日々を、彼女は望んでいた。
さとるも同じだった。
だからこそ、死を覚悟したふりをすることはできなかった。
「俺だって、生きたい」
さとるは、薫の目を見て言った。
「君と一緒に、生きたいんだ」
薫は涙を流しながら頷いた。
「うん……」
ふたりは、互いの手を握り続けた。
外では、次の出撃に向けた準備が続いていた。
*
一方、剛は指揮所の近くで、次々と出撃していく人間魚雷を見送っていた。
上官には、すでにすべてを報告していた。
さとるが乗るはずだった魚雷は動かない状態であること。
さとるが訓練用魚雷に乗り込んでいること。
そして、薫もその中にいること。
上官は訓練用魚雷での出撃を認めず、さとるに別の魚雷へ乗り換えるよう命令した。
その命令を、剛はさとるに伝えた。
しかし、さとるは従わなかった。
剛には、その気持ちがわからないわけではなかった。
さとるは、ずっと恐れていた。
出撃命令が下ることを。
帰れないかもしれない海へ向かうことを。
薫を残していくことを。
その恐怖を抱えたまま、訓練を続けてきたのだ。
そして今、ようやく再会できた薫と離れることを拒んでいる。
だが、剛は知っていた。
訓練用魚雷での出撃は、認められていない。
実際に使用できるかも、保証されていない。
さとると薫の選択が、ふたりを危険にさらす可能性は十分にあった。
「……さとる」
剛は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
止めるべきなのか。
それとも、もう一度だけ、さとるの本当の気持ちを聞くべきなのか。
剛は拳を握りしめた。
自分にできることは、もうほとんど残されていないように思えた。
それでも、友人を見捨てることだけはできなかった。
*
「十番、出撃準備!」
艦内に号令が響いた。
さとるは、顔を上げた。
十番。
またひとつ、順番が進んだ。
発射準備に向かう足音が聞こえる。
金属の扉が開く音。
兵士たちの短い返事。
そして、静かに張り詰めていく空気。
さとるは、薫の手を握ったまま、耳を澄ませていた。
「発射!」
ドンッ――!
重い衝撃が響いた。
ガガガガガッ――!
低い轟音が続き、やがて遠ざかっていく。
さとるは、目を閉じた。
またひとり、海へ向かった。
発射の音が消えるたび、自分の番が近づいてくる。
もう、いつまでもここに隠れていることはできないかもしれない。
上官が再びやって来る可能性もある。
訓練魚雷の存在が知られた以上、ふたりがこのまま出撃を待ち続けられる保証はなかった。
「さとる……」
薫が、そっと彼の肩に触れた。
「もし、誰かが来たら……」
「うん」
「私のことは気にしないで。あなたは、生きることを考えて」
さとるは、すぐに首を横に振った。
「それはできない」
「でも……」
「薫。俺は君を守れるなんて、簡単には言えない。これから何が起きるか、俺にもわからないんだ」
彼は、彼女の手を両手で包んだ。
「だけど、君の気持ちを無視して、俺だけが決めることはしたくない」
薫は、涙をぬぐった。
「私も、あなたの気持ちを無視したくない」
「だから、ふたりで決めよう」
「……うん」
それは、未来を保証する約束ではなかった。
ふたりが助かる方法を見つけたわけでもなかった。
ただ、どんなに恐ろしくても、互いの気持ちから目をそらさないという約束だった。
さとるは、薫の額に自分の額をそっと寄せた。
「俺は、まだ君と暮らしたい」
「私も」
「戦争が終わったら、海の見える場所で暮らそう」
「うん」
「朝になったら、一緒に起きて、ご飯を食べて……」
「あなたが料理をしてくれるの?」
薫が、涙の中で少しだけ笑った。
さとるも、かすかに笑った。
「そうだな。最初は失敗するかもしれないけど」
「焦がさないでね」
「ああ。頑張るよ」
ほんのわずかな時間、ふたりの間に、いつもの会話が戻ってきた。
戦争も、出撃命令も、発射音もない。
ただ、恋人同士が未来の暮らしを話している。
それだけのことが、どれほど大切なのか。
さとるは、今になって痛いほど感じていた。
*
そのとき、外から、急いだ足音が近づいてきた。
ダッ、ダッ、ダッ――。
さとるは、薫を見た。
薫も、息を止めている。
足音は、訓練魚雷のそばで止まった。
「さとる!」
剛の声だった。
「聞こえるか!」
さとるは、身体を起こした。
「剛?」
「もう時間がない!」
剛の声には、焦りがにじんでいた。
「出撃の順番が進んでいる。上官は、お前を別の魚雷に乗せるよう命令している。訓練用での出撃は認めないと言っているんだ!」
さとるは、薫の手を握りしめた。
「……わかっている」
「わかっているなら、出てこい! これ以上、命令に背いたらどうなるかわからないぞ!」
剛は、必死に訴えていた。
「俺は、お前に死んでほしくないんだ!」
その言葉に、さとるの胸が痛んだ。
剛は、本気で心配してくれている。
さとるを助けたいと思っている。
それでも、さとるは決めていた。
「剛……ありがとう」
「礼なんかいらない! 早く出てこい!」
「でも、俺は行く」
「さとる!」
「薫と一緒に行く。俺は、ひとりで出撃することはできない」
しばらく、返事はなかった。
外では、兵士たちが走り回っている。
次の出撃に向けて、時間が進んでいる。
剛は、何かを言おうとして、言葉を失った。
やがて、低い声で尋ねた。
「……本当に、それでいいんだな」
さとるは、目を閉じた。
「怖いよ。今だって、逃げ出したいくらい怖い」
そして、薫の手を握り直した。
「だけど、俺はこの先の人生を、まだ諦めたくない。薫と生きる未来を、諦めたくないんだ」
剛は、長い沈黙のあと、かすかに息を吐いた。
「……わかった」
その声は、苦しそうだった。
「ただし、俺はお前たちが安全だなんて言えない。訓練用魚雷での出撃が認められていないことも、危険があることも、変わらないからな」
「わかっている」
「……頼むから、生きていてくれ」
さとるは、目を閉じた。
「剛。お前もな」
剛の足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
さとるは、薫を見つめた。
もう、迷っている時間はなかった。
*
外では、次の号令が響いた。
さとるの順番は、確実に近づいている。
別の魚雷へ乗り換えろという命令。
訓練用魚雷では出撃させないという上官の判断。
それらをすべて知ったうえで、さとるは持ち場へ戻らなかった。
薫とともに、訓練魚雷の中にとどまっていた。
「薫」
「うん」
「俺たちが選んだ道が、正しいかどうかはわからない」
薫は、彼の目を見つめた。
「うん」
「だけど、俺は君と一緒に生きたい」
「私も、あなたと生きたい」
ふたりは、手を握り合った。
外から、また発射の轟音が響いた。
ドンッ――!
ガガガガガッ――!
ゴォォォォォ――ッ!
音が遠ざかり、消えていく。
その音の向こうで、またひとりの若者が海へ向かっていった。
さとるは、目を閉じた。
次に聞こえる号令が、自分の運命を決めるのかもしれない。
それでも、彼は薫の手を離さなかった。
ふたりの未来は、まだ見えない。
助かる保証もない。
この訓練魚雷が出撃できる保証もない。
それでも、ふたりは、互いの存在を確かめながら、その瞬間を待っていた。
外では、出撃の順番が進んでいく。
そして、さとるの番も、すぐそこまで迫っていた。




