第八十九話 命令を越えて、君と海へ
第八十九話 命令を越えて、君と海へ
ドンッ――!
艦の奥から、また重い衝撃音が響いた。
ガガガガガッ――。
金属が震える音が、壁を伝って訓練魚雷の内部まで届いてくる。
そして、低い轟音が続いた。
ゴォォォォ――ッ。
音は少しずつ遠ざかり、やがて海の静けさの中へ消えていった。
さとるは、薫の手を握ったまま、じっと耳を澄ませていた。
またひとり、出撃した。
その事実が、音の消えたあとも胸の中に残っていた。
「三番、出撃!」
外から号令が響く。
さとるの身体が、ぴくりと反応した。
まただ。
また、誰かが海へ向かう。
訓練魚雷の狭い内部で、薫は唇を結んでいた。彼女もまた、発射のたびに肩を震わせていた。
「さとる……」
「うん」
「みんな、行ってしまうんだね」
さとるは、すぐには答えられなかった。
外で名前を呼ばれ、命令に従い、海へ送り出されていく若者たち。
彼らも、ここに残っていたかったのではないだろうか。
誰かに会いたかったのではないだろうか。
明日を迎えたかったのではないだろうか。
さとるには、そう思えてならなかった。
「……ああ」
ようやく、それだけを答えた。
「次は、俺の番だ」
薫の指に力がこもった。
さとるは、彼女の顔を見た。
「怖いよ。でも、君を置いていきたくない」
「私も、あなたと離れたくない」
ふたりは、手を握り合った。
この場所に正式な出撃許可があるわけではない。
乗り込んでいるのは、訓練用の魚雷だ。実際の出撃に使えるという保証もない。
それでも、さとるはここを離れなかった。
薫と一緒にいる。
それだけが、今の彼にできる選択だった。
*
その頃、少し離れた指揮所では、剛が上官の前に立っていた。
外からは、出撃準備の号令と、兵士たちの慌ただしい足音が絶え間なく聞こえていた。
剛の額には汗が浮かんでいた。
さとるが本来乗るはずだった魚雷には、問題が生じていた。
出撃の順番は、もうすぐそこまで迫っている。
このままでは、さとるは出撃できない。
しかし、さとるがどこにいるのか、剛は知っていた。
訓練用魚雷の中だ。
そして、その中には薫もいる。
剛は一度、唇を引き結んだ。
隠し通すことはできない。
このまま何も伝えなければ、さとるが乗っている訓練魚雷まで、上官の目が届かない可能性もある。だが、見つかれば、ふたりは重大な命令違反を問われることになる。
剛は、上官の前で敬礼した。
「申し上げます!」
「何だ!」
「さとるが乗る予定の魚雷が、動かない状態です!」
上官の眉が鋭く動いた。
「何だと?」
「出撃に必要な状態ではありません。さとるは現在、訓練用魚雷に乗って出撃準備をしています!」
一瞬、上官の顔から表情が消えた。
次の瞬間、怒声が響いた。
「訓練用だと!?」
「はい!」
「何を考えている! 訓練用魚雷で出撃など認められるわけがない!」
剛は、拳を握りしめた。
わかっていた。
上官が認めるはずのないことは、最初からわかっていた。
訓練用魚雷は、正式な出撃に使用する許可を得ていない。実際の任務に耐えられるかどうかも確認されていない。何が起きるかわからない以上、上官の判断には理由があった。
それでも、さとるは乗り込んでしまった。
薫とともに。
「さとるは、どこにいる!」
「訓練用魚雷のところです!」
「すぐに降ろせ!」
「……はい!」
剛は返事をした。
しかし、胸の奥は苦しかった。
さとるを止めなければならない。
だが、あいつが何を考え、何を守ろうとしているのか、剛には痛いほどわかっていた。
上官は、さらに命令を下した。
「訓練用は絶対に使わせるな! さとるには、別の魚雷に乗るよう伝えろ! 出撃の順番を変える余裕はない。使える魚雷に乗り、命令どおり出撃させろ!」
「承知しました!」
剛は敬礼し、指揮所を飛び出した。
走りながら、何度も考えた。
どうすれば、さとるを止められる。
どうすれば、薫を巻き込まずに済む。
どうすれば、あいつらを生きて帰らせられる。
だが、答えは見つからなかった。
*
「四番、発射!」
ドンッ――!
また、衝撃音が響いた。
ガガガガガッ――!
ゴォォォォ――ッ!
発射された魚雷の音が遠ざかっていく。
さとるは、薫を抱き寄せた。
その音が消えるたび、出撃の順番が近づいていることを感じた。
五番。
六番。
外で次々と号令が響く。
それぞれの番号の向こうに、ひとりの若者がいる。
さとるは、自分の順番が来ることを知っていた。
そのとき、訓練魚雷の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「さとる!」
剛の声だった。
さとるは、はっと顔を上げた。
「剛か?」
「そうだ! いるんだろう、さとる!」
薫が、さとるの腕をつかんだ。
ふたりは、息を潜めた。
「さとる、聞いてくれ! 上官に知られた!」
その言葉に、さとるの顔が強張った。
「お前が訓練用魚雷に乗っていることを話した。お前が乗る予定だった魚雷が動かないことも、全部だ!」
さとるは目を閉じた。
ついに、知られてしまった。
「上官は、訓練用での出撃を認めないと言っている! 別の魚雷に乗り換えろとの命令だ!」
剛の声は、切羽詰まっていた。
「さとる、聞こえているか! 返事をしてくれ!」
さとるは、薫を見つめた。
薫もまた、彼を見つめていた。
ふたりの間に、言葉はいらなかった。
ここで降りれば、さとるは別の魚雷に乗ることになる。
薫は、この場所に残される。
そして、さとるはひとりで海へ向かう。
それが命令だった。
それが、軍人として求められている行動だった。
けれど、さとるはもう決めていた。
「剛!」
さとるは、外に向かって声を張った。
「俺は、ここを出ない!」
「何を言っているんだ! 上官の命令だぞ!」
「わかっている!」
「なら、すぐに降りろ! 訓練用魚雷は使えないんだ!」
「それでも、俺は薫と一緒に行く!」
外が、一瞬静かになった。
剛は言葉を失った。
「……さとる」
「剛。お前には迷惑をかけた。本当にすまない」
「謝っている場合か!」
剛の声が震えた。
「俺は、お前に生きていてほしいんだ! 薫にも生きていてほしい! こんなことをして、ふたりともどうなるかわからないんだぞ!」
「わかっている」
「わかっていない! 訓練用なんだぞ! 実際に出撃できる保証なんかないんだ!」
「それでも……」
さとるは、薫の手を握った。
「俺は、ひとりで行きたくない。薫を置いていきたくないんだ」
剛は、すぐには答えなかった。
外では、また号令が響いた。
「七番、出撃準備!」
時間がない。
剛は、それを誰よりもわかっていた。
「……上官の命令を伝えたからな」
ようやく、剛が言った。
「別の魚雷に乗り換えろ。訓練用では出撃させない。それが命令だ」
「わかった」
「わかったなら、出てこい!」
「……それはできない」
剛は、悔しそうに息を吐いた。
「さとる……!」
「剛。俺は、薫と一緒に生きたいんだ」
その言葉に、剛は何も返せなかった。
生きたい。
さとるがずっと胸の中に抱えてきた願い。
剛自身も、同じ願いを持っていた。
だからこそ、止めたかった。
無謀な選択で命を失ってほしくなかった。
けれど、さとるは決めていた。
剛は、しばらくその場に立ち尽くしたあと、低い声で言った。
「……もう一度だけ言う。命令に従え」
さとるは目を閉じた。
「すまない、剛」
*
「八番、発射!」
ドンッ――!!
轟音が響いた。
ガガガガガッ――!
ゴォォォォォ――ッ!
発射の衝撃とともに、艦の奥が震えた。
剛は、その音に顔を上げた。
出撃は止まらない。
ひとり、またひとりと、若者たちが海へ送り出されていく。
さとるの順番も、もう遠くなかった。
剛は訓練魚雷のそばで、拳を握りしめた。
「頼むから……」
声にならない声が、喉からこぼれた。
「生きて帰ってこいよ、さとる……」
返事はなかった。
剛は、その場を離れるしかなかった。
上官の命令を無視したさとると薫を、このまま見過ごすことはできない。だが、今の剛には、ふたりを引きずり出す力も、出撃を止める権限もなかった。
ただ、祈るしかなかった。
*
訓練魚雷の中で、さとるは薫の顔を見つめていた。
「聞こえたね」
薫が言った。
「ああ」
「別の魚雷に乗れって……」
「そうだ」
「それでも、行くの?」
さとるは、しばらく黙っていた。
自分が何を選ぼうとしているのか、わかっている。
訓練用魚雷での出撃は認められていない。
実際の出撃に使えるかどうかも、保証されていない。
上官の命令を無視すれば、軍規に背くことになる。
何が起きるのか、誰にもわからない。
それでも、さとるは薫の手を離さなかった。
「行く」
その声には、恐怖があった。
だが、迷いはなかった。
「君と一緒に行く」
薫の目に、涙が浮かんだ。
「……私も、行く」
「怖いか?」
「怖いよ」
薫は正直に答えた。
「あなたと一緒でも、怖い。何が起きるかわからないから。でも、私はここにいる。あなたと一緒にいるって決めたから」
さとるは、彼女を抱きしめた。
「ごめん。こんなことに巻き込んで」
「謝らないで」
薫は、彼の胸に顔を寄せた。
「私が選んだの。あなたと一緒にいることを」
さとるは目を閉じた。
ふたりの未来がどうなるのか、まだわからない。
海の向こうに、生きて帰る道があるのかもわからない。
それでも、ふたりは命令に背いて、訓練魚雷の中にとどまっていた。
外から、また号令が響いた。
「九番、出撃準備!」
さとるは顔を上げた。
次々と出撃していく若者たち。
残された時間は、確実に少なくなっていた。
さとるは薫の手を握り、静かに言った。
「もう、離れない」
「うん」
「何があっても、一緒にいる」
「うん……」
ふたりは、互いの額をそっと寄せた。
外では、戦争が命令を繰り返している。
出撃しろ。
持ち場につけ。
命令に従え。
その声に逆らうことが、どれほど危険なことなのか、ふたりは知っていた。
それでも、さとるは決めた。
薫を置いて、ひとりで出撃する道を選ばない。
訓練魚雷が実際に出撃できる保証がなくても、上官が認めなくても、ここを離れない。
その決断が、ふたりを救うのか。
それとも、取り返しのつかない運命へ導くのか。
まだ、誰にもわからなかった。
艦の外では、次の出撃を告げる声が近づいていた。
そして、さとるの順番も、すぐそこまで迫っていた。




