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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第八十八話 轟音――海へ消える命

第八十八話 轟音――海へ消える命


 ――ゴォォォォ……。


 艦の奥から、低い音が響いていた。


 さとるは、訓練魚雷の狭い内部で息を潜めていた。


 すぐ隣には薫がいる。


 暗がりの中で、彼女の手だけが、確かな温もりを伝えていた。


 外の様子は見えない。


 けれど、音だけは聞こえてくる。


 走り回る兵士たちの足音。


 金属のぶつかり合う音。


 短く鋭い号令。


 そして、張り詰めた空気を切り裂く声。


「一番、発射準備!」


 さとるの肩が強張った。


 薫の指が、彼の手に食い込むほど強く握られる。


 ふたりとも、声を出さなかった。


 外では、ひとりの若者が海へ送り出されようとしている。


 その青年がどんな顔をしているのか、さとるにはわからない。


 恐怖に震えているのか。


 最後まで平静を装っているのか。


 家族や故郷を思い浮かべているのか。


 それとも、まだ生きたいと願っているのか。


 ただ、さとるにはひとつだけわかった。


 その青年も、自分と同じ人間なのだ。


 二十歳前後の、まだ未来を持っていたはずの若者なのだ。


「最終確認!」


「よし!」


 ガンッ!


 硬い金属音が響いた。


 続いて、何かが動く重い音。


 ガガガガガッ……。


 振動が艦の奥から伝わってくる。


 さとるは無意識に歯を食いしばった。


 薫も、息を止めている。


 そして――。


「一番、発射!」


 ドンッ――!!


 腹の底を突き上げるような衝撃音が響いた。


 ガガガガガガッ!!


 金属が激しく震え、低い轟音が重なった。


 ゴォォォォォ――ッ!!


 音は一気に膨らみ、艦の内部を満たした。


 さとるの胸に、重い振動が押し寄せる。


 耳の奥がじんと痺れた。


 薫が小さく身をすくめる。


 さとるは、彼女の手を握りしめた。


 やがて、轟音は遠ざかっていった。


 ゴォォォ……。


 ゴォ……。


 そして、消えた。


 静寂。


 ほんの数秒前まで響いていた音がなくなったことで、かえって耳が痛いほどだった。


 さとるは、しばらく動けなかった。


 今の音が、ひとりの若者が海へ出ていった音なのだ。


 たったそれだけのことだった。


 番号が呼ばれ、号令がかかり、轟音が響く。


 それだけで、ひとりの人生が、見えない海の向こうへ送り出されてしまう。


「……行ったの?」


 薫が、かすれた声で尋ねた。


「……ああ」


 さとるは答えた。


 けれど、その声は自分でも驚くほど弱かった。


 行った。


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。


 あの青年は、もうここにはいない。


 もう、仲間の声を聞くことも、食事をすることも、誰かと何気ない話をすることもできないかもしれない。


 海の向こうに、帰ってこられる道が残されているのか。


 それさえ、誰にもわからない。


 さとるは目を伏せた。


 自分も、いつか同じように送り出されるのだろうか。


 そう考えた途端、喉が締めつけられた。


 生きたい。


 心の中で、何度もその言葉を繰り返した。


 死ぬ覚悟を決めたわけではない。


 恐怖を乗り越えたわけでもない。


 ただ、薫と一緒に生きていたい。


 その願いだけは、どうしても捨てられなかった。


     *


 静寂は、長く続かなかった。


「二番、発射準備!」


 鋭い号令が響いた。


 さとるは、はっと顔を上げた。


 まただ。


 また、誰かが海へ出ていく。


 薫の手が震えた。


「さとる……」


「大丈夫。ここにいる」


 そう答えながら、さとる自身も震えていた。


 大丈夫なはずがなかった。


 すぐ外で何が行われているのか、すべてを知っているわけではない。それでも、発射のたびに、若者たちがひとりずつ海へ向かっていることだけはわかった。


 彼らにも、帰りたい場所があったはずだ。


 もう一度会いたい人がいたはずだ。


 いつかかなえたい夢があったはずだ。


 けれど、今、その願いを誰かに伝える時間さえ残されているのかどうか、わからない。


「最終確認!」


 ガンッ!


 再び、金属音が響く。


 さとるは思わず目を閉じた。


 その直後――。


「二番、発射!」


 ドンッ――!!


 また、重い衝撃が走った。


 ガガガガガッ!!


 艦の奥が唸り、床を伝う振動が身体に響く。


 ゴォォォォォ――ッ!!


 低く、長い音が、さとるの胸の奥まで入り込んでくる。


 薫が、さとるの腕をつかんだ。


 さとるは彼女を抱き寄せた。


 ふたりの身体が、発射の轟音に合わせるように強張った。


 音が続く。


 長く、重く、逃げ場のない音。


 やがて、それも少しずつ遠ざかっていく。


 ゴォォ……。


 ゴ……。


 消えた。


 また、静寂が訪れた。


 さとるは、ゆっくりと息を吐いた。


 その息が、自分のものではないように感じられた。


 またひとり、海へ出ていった。


 またひとり、戻れないかもしれない場所へ送り出された。


 さとるは薫の髪に頬を寄せた。


「……俺たちは、どうなるんだろう」


 思わず、口からこぼれた言葉だった。


 薫はすぐには答えなかった。


 やがて、彼の胸元で、小さく首を横に振った。


「わからない……」


 その声には、恐怖がにじんでいた。


「私にも、わからない。でも……」


 薫は、彼の手を握り直した。


「あなたと生きたい。その気持ちだけは、変わらない」


 さとるは、目を閉じた。


「俺もだよ」


 たったそれだけの言葉を交わすことが、今は何よりも大切だった。


     *


 外では、出撃の準備が続いていた。


 足音が走る。


 号令が飛ぶ。


 金属が鳴る。


 そして、発射のたびに、重い衝撃と轟音が艦内に響く。


 さとるは、その音を聞くたびに、身体を強張らせた。


 次は何番なのか。


 次に海へ向かうのは、誰なのか。


 その順番の先に、自分たちがいるのだろうか。


 訓練魚雷に正式な出撃許可が下りたわけではない。


 この魚雷が実際の出撃に使えるという保証もない。


 それでも、さとると薫はここにいた。


 さとるは、持ち場へ戻らなかった。


 薫を置いて、ひとりで命令に従う道を選ばなかった。


 ふたりでこの狭い場所にとどまり、外で繰り返される発射の音を聞いていた。


 さとるは、薫の手を握りしめた。


「薫……生きて帰ろう」


「うん」


「戦争が終わったら、あの高台へ行こう。ふたりで海を見よう」


「うん……」


「今度は、出撃のためじゃない。誰かに命令されたからでもない。俺たちが行きたいと思ったから、海を見に行くんだ」


 薫の頬を、涙が伝った。


「約束だよ」


「ああ。約束だ」


 そのとき、外から、また新しい号令が聞こえた。


 ふたりは同時に顔を上げた。


 次の発射が近づいている。


 さとるは、薫の手を離さなかった。


 ドンッ――という衝撃が、いつまた響くのか。


 その音が、誰かの命を海へ送り出すことになるのか。


 ふたりには、まだわからない。


 ただ、さとるの耳には、先ほどの轟音が残っていた。


 消えたはずなのに、消えない音。


 海へ向かう若者たちの命を、無言のまま告げる音。


 そして、その音を聞きながら、さとると薫は、まだ失われていない未来を胸に抱いていた。


 外では、戦争が若者たちを海へ送り出していく。


 狭い訓練魚雷の中では、ふたりが互いの手を握りしめている。


 次の号令を待ちながら。


 次の轟音を恐れながら。


 それでも、まだ生きることを諦めずに。


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