第八十七話 命令に背いても、君と出撃を待つ
第八十七話 命令に背いても、君と出撃を待つ
船内には、出撃準備を急がせる上官の声が響いていた。
兵士たちは慌ただしく行き交い、それぞれに与えられた任務を果たしている。誰もが、これから訪れる出撃の時を意識していた。
けれど、さとるの心は、もう自分の持ち場にはなかった。
目の前に浮かぶのは、薫の顔だった。
やっと会えた。
ずっと会いたかった。
それなのに、また離れて、命令に従い、二度と戻れないかもしれない出撃へ向かう。
そんな未来を、受け入れられなかった。
「……俺は、行かない」
さとるは、小さくつぶやいた。
自分でも、その言葉に驚いていた。
命令に従わなければならないことは分かっている。命令違反がどれほど重大なことなのかも、分かっていた。
それでも、もう薫を置いていきたくなかった。
彼女と生きたい。
彼女と一緒に、未来を探したい。
その思いだけは、どうしても捨てられなかった。
さとるは、顔を上げた。
訓練魚雷が保管されている場所。
薫が待っている場所。
自分が向かおうとしている先は、もう決まっていた。
*
薫は、訓練魚雷の保管区画に近い場所で、剛とともに待っていた。
剛は何度も周囲の様子を確かめていたが、さとるが来るという確かな知らせは、まだ届いていなかった。
「……剛」
薫が不安そうに呼びかけた。
「さとるは、まだ来ないの?」
「まだだ。出撃準備が続いているからな」
剛はそう答えたものの、表情は晴れなかった。
さとるが命令された持ち場に戻っているのなら、こちらへ来るのは難しい。
けれど、もし命令を無視して動けば、今度はさとる自身が危険にさらされる。
剛には、そのどちらも簡単には受け入れられなかった。
「薫。もう一度言っておく。訓練魚雷については、まだ正式な許可が出ていない。二人で乗ることが安全だと確認されたわけでもないんだ」
薫は、静かにうなずいた。
「分かっている」
「それでも、さとると行きたいのか?」
薫は、しばらく黙っていた。
そして、真っすぐに剛を見つめた。
「私は、さとると生きたい。だから、何も考えずに乗りたいわけじゃない。でも、さとるを一人で行かせたくないの」
剛は、返す言葉を見つけられなかった。
薫の願いは、ただ死を共にすることではない。
二人で生きる可能性を、最後まで諦めたくないのだ。
「……さとるが来たら、二人でちゃんと話すんだぞ」
「うん。約束する」
薫は、通路の先へ目を向けた。
そのときだった。
遠くから、足音が聞こえてきた。
薫は、はっと顔を上げた。
剛も振り返った。
そして、通路の向こうから、さとるが姿を現した。
*
「……さとる!」
薫は思わず立ち上がった。
さとるは、まっすぐに彼女を見つめていた。
その顔には疲れが浮かんでいた。緊張しているのか、唇も固く結ばれている。
それでも、目だけははっきりと薫を捉えていた。
「薫……」
さとるは彼女の前まで来ると、しばらく言葉を失った。
会いたかった。
ずっと、この瞬間を待っていた。
さとるは、震える手で薫の手を取った。
「……もう、君を置いていけない」
薫の目に、涙が浮かんだ。
「さとる……」
「俺は、君と生きたい。命令に従って出撃したら、もう二度と会えないかもしれない。君と話すことも、君の手を握ることも、何もできなくなるかもしれない」
さとるは、言葉を詰まらせた。
「そんなのは嫌だ。俺は、まだ死にたくない。君と一緒に生きたいんだ」
薫は、強く彼の手を握り返した。
「私も……私も、さとると生きたい」
二人は、互いの目を見つめた。
もう、離れたくなかった。
けれど、二人のすぐそばには、訓練魚雷があった。
それは、二人が生きる道になるのか。
それとも、別の危険へ向かうことになるのか。
まだ、誰にも分からなかった。
剛が、二人のそばで口を開いた。
「さとる。お前、本当に持ち場へ戻らないつもりなのか」
さとるは、剛を見た。
「……ああ」
その返事には、迷いが残っていた。
けれど、決意もあった。
「命令違反になることは分かっている。上官に見つかれば、どうなるかも分からない。それでも、俺は薫と一緒にいたい」
剛は、苦しそうに目を閉じた。
「お前たちの気持ちは分かる。だが、訓練魚雷は出撃用として認められたものじゃない。二人で乗ったからといって、必ず生きて帰れるわけじゃないんだ」
「分かっている」
さとるは答えた。
「何も分からないまま、危険がないと思っているわけじゃない。怖いんだ。俺だって、薫を危険にさらしたくない」
彼は、薫の方を向いた。
「だからこそ、本当はどうすればいいのか、ずっと悩んでいた。でも、君と離れたまま、何もできずに終わるのは嫌なんだ」
薫は、涙をぬぐった。
「私も怖いよ。でも、さとる。私たち、二人で決めようって約束したよね」
「ああ」
「だから、あなた一人で全部背負わないで。私の気持ちも聞いてほしい」
さとるは、深くうなずいた。
「……分かった」
薫は、彼の手を握ったまま、訓練魚雷を見つめた。
「私たちは、これに乗って出撃を待つつもりなんだね」
さとるは、静かに答えた。
「……ああ。俺は、もう持ち場へは戻らない」
その言葉を聞いた剛は、二人を交互に見つめた。
止めたい気持ちはあった。
けれど、二人の思いがどれほど強いのかも、痛いほど分かっていた。
「……俺は、この行動を安全だとは言えない。命令違反を勧めることもできない」
剛は、真剣な表情で告げた。
「だが、お前たちが本当に何を望んでいるのか、その気持ちだけは分かっている」
さとるは、剛を見つめた。
「ありがとう」
「礼を言うのは、まだ早い。これから何が起こるか、誰にも分からないんだからな」
剛は、二人の手を見た。
「それでも、二人で決めたことなら、互いの気持ちを忘れるな。怖いことも、迷っていることも、隠さずに話せ」
薫は、うなずいた。
「うん」
さとるも、強くうなずいた。
「ああ」
*
さとると薫は、訓練魚雷の前に立った。
さとるは、その機体を見つめながら、胸の奥に湧き上がる恐怖を感じていた。
これに乗ることが、本当に正しいのか。
二人で進むことが、本当に生きる道につながるのか。
答えは、出ていなかった。
訓練魚雷は、二人の願いをかなえてくれるものではない。
それは、あくまでも訓練用の機体だった。
実際の出撃に使えるという正式な許可もない。
二人が乗ったからといって、危険が消えるわけでもない。
そのことを、さとるは理解していた。
それでも、彼は薫を見つめた。
「……本当に、いいのか?」
薫は、すぐには答えなかった。
彼女も、怖かった。
これから何が起こるのか分からない。
二人で乗ることが、どんな結果につながるのかも分からない。
それでも、薫はさとるの手を握った。
「怖いよ。でも、あなたと一緒に生きたい。その気持ちは、変わらない」
さとるは、目を閉じた。
その言葉を聞いても、恐怖が消えたわけではなかった。
けれど、自分だけで決めているのではない。
薫もまた、自分の気持ちを考え、ここにいる。
そのことを、さとるは確かめたかった。
「……分かった」
彼は、ゆっくりとうなずいた。
「でも、何が起きても、俺は君に嘘をつかない。怖いときは怖いと言う。迷ったら、君に相談する」
薫は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「私も、そうする」
二人は、もう一度、互いの手を握りしめた。
そして、命令違反になることを承知のうえで、訓練魚雷に乗り込む決意を固めた。
*
二人が乗り込んだあと、周囲の音は、少し遠くなったように感じられた。
船内では、依然として出撃準備が進んでいる。
上官の声も、兵士たちの足音も、途切れることなく聞こえていた。
さとるは、薫の顔を見つめた。
「……薫」
「なあに?」
薫は、いつものように声を出して返事をした。
二人きりになった今、彼女は声を隠す必要がなかった。
さとるは、その声を聞いただけで、胸がいっぱいになった。
「君の声を、もう一度聞けてよかった」
薫は、涙をぬぐった。
「私も。ずっと、あなたに話したかった」
「もっと、いろんなことを話したいな」
「うん。戦争が終わったら、たくさん話そう」
その言葉に、さとるは、わずかに笑った。
戦争が終わったら。
以前は、当たり前のように口にできた言葉だった。
今は、その未来が本当に訪れるのかさえ分からない。
それでも、二人はその言葉を捨てなかった。
「一緒に暮らそう」
さとるが言った。
「朝起きたら、君がいて。仕事から帰ったら、君が待っていてくれる。そんな毎日を送りたい」
薫は、何度もうなずいた。
「私も。特別なことなんていらない。あなたと一緒にご飯を食べて、くだらないことで笑って、夜になったら今日あったことを話したい」
「……ああ」
さとるは、薫の手を握った。
「俺は、それが一番欲しい」
薫は、彼の肩にそっと寄りかかった。
二人の間には、まだ恐怖があった。
出撃の命令がいつ下るのか。
この先、何が起こるのか。
そして、二人が望む未来を、本当に手にできるのか。
何一つ、確かなことはなかった。
それでも、今だけは、互いの存在を確かめることができた。
さとるは、薫の手を握りしめたまま、静かに目を閉じた。
「……生きたい」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
自分自身に、そして薫に伝えるための言葉だった。
「俺は、君と生きたいんだ」
薫は、彼の手を握り返した。
「私も。二人で生きたい」
*
外から、慌ただしい声が聞こえた。
出撃に向けた準備が、さらに進んでいるようだった。
さとるは、顔を上げた。
薫も、緊張した表情で彼を見つめた。
二人は、命令違反を承知で訓練魚雷に乗り込んだ。
けれど、正式な出撃命令が出たわけではない。
訓練魚雷を出撃に使用する許可も、二人が安全に乗れるという保証もなかった。
これから何が起こるのか。
誰が二人を見つけるのか。
上官が、この行動を知ったとき、どんな判断を下すのか。
何も分からなかった。
さとるは、薫の手を離さずにいた。
「……ここで、待とう」
薫は、彼の顔を見つめた。
「出撃の命令が下るのを?」
「ああ」
さとるは、静かにうなずいた。
「俺たちがどうなるのか、まだ分からない。でも、今は君と一緒にいたい」
薫は、目を閉じた。
怖かった。
けれど、さとるの手の温もりが、確かにそこにあった。
「……うん。一緒に待とう」
二人は、手を握り合ったまま、次の命令を待ち始めた。
外では、戦争が二人の時間を奪おうとしていた。
けれど、二人はまだ、未来を諦めてはいなかった。
一緒に生きたい。
もう一度、海を見たい。
そして、いつか戦争のない世界で、普通の毎日を送りたい。
その願いを胸に抱きながら、さとると薫は、出撃の命令が下るのを待っていた。




