第八十六話 訓練魚雷の前で
第八十六話 訓練魚雷の前で
船内には、出撃を前にした慌ただしい音が響いていた。
兵士たちの足音が通路を行き交い、機材を運ぶ音が絶え間なく続いている。上官たちの指示が飛び交い、それぞれの持ち場では、出撃に向けた準備が急ピッチで進められていた。
その喧騒の中を、さとるは歩いていた。
本来なら、すぐに自分の持ち場へ戻り、命令された準備を進めなければならない。
それは分かっていた。
何度も自分に言い聞かせてきた。
兵士である以上、命令に従わなければならない。出撃を命じられた以上、自分に与えられた役目を果たさなければならない。
けれど、今のさとるには、どうしても頭から離れない人がいた。
薫。
自分に会うため、危険を承知でここまで来てくれた人。
長い髪を切り、男の姿に身を変え、声を出せないふりまでして、この船にたどり着いた人。
そこまでして、自分に会いに来てくれた。
その事実を思うたび、さとるの胸は締めつけられた。
自分は、彼女に何をしてやれるのだろう。
このまま命令に従えば、二度と会えなくなるかもしれない。
自分が帰らなければ、薫は一人で生きていかなければならない。
それでも、彼女には生きていてほしかった。
そして、本当は、自分も生きていたかった。
薫と一緒に。
戦争が終わったあとの世界で、二人で暮らしたかった。
「……薫」
さとるは、誰にも聞こえないほど小さな声で、その名を呼んだ。
会いたい。
もう一度、顔を見たい。
手を握りたい。
自分がどれほど怖いのか、どれほど生きたいと思っているのか、正直に伝えたかった。
そして、彼女の気持ちも、もう一度、自分の目で確かめたかった。
さとるは足を止め、周囲を見渡した。
近くを兵士が通り過ぎていく。
誰もが忙しそうに動いていた。
今なら、ほんのわずかな時間だけでも、持ち場へ戻る前に薫のもとへ行けるかもしれない。
そう思ったとき、さとるの胸に、あの高台で見た海の景色がよみがえった。
穏やかな風。
夕日に染まる水面。
隣で笑う薫。
あのとき、自分たちは、こんな未来が待っているとは思っていなかった。
いつか戦争が終わったら、一緒に暮らそう。
そんな約束を、当たり前の未来のように語り合っていた。
その未来を、まだ諦めたくなかった。
さとるは、再び歩き始めた。
薫が待っている場所へ。
*
訓練魚雷の保管区画に近い通路では、薫が剛とともに待っていた。
何度も足音が聞こえるたび、薫は顔を上げていた。
けれど、通り過ぎていくのは見知らぬ兵士ばかりだった。
そのたびに、期待が小さくしぼんでいく。
それでも、薫はここを離れなかった。
「……もう少し、待っていてもいいかな」
薫が尋ねると、剛はうなずいた。
「もちろんだ。ただ、いつまでもここにいられるとは限らない。人の出入りも増えているから、周囲には気をつけてくれ」
薫は、静かにうなずいた。
「分かった」
剛は、彼女の横顔を見つめた。
ここまで来る間、薫がどれほどの覚悟をしてきたのか、剛は知っていた。
さとるに会いたい。
それだけではない。
さとると一緒に生きたい。
彼女の願いは、決して死ぬことだけではなかった。
二人で朝を迎え、食事をし、何でもないことで笑い合う。
そんな普通の暮らしを、もう一度夢見ていた。
剛は、何とかして二人に話す時間を与えてやりたいと思っていた。
だが、現実は厳しかった。
出撃前の船内では、兵士が自由に動ける時間などほとんどない。
訓練魚雷についても、実際の出撃に使う正式な許可は出ていなかった。安全が確認されているわけでもない。
二人がそこに希望を見いだしていることは分かっていたが、剛にも、どうなるのかは分からなかった。
「薫」
剛は静かに呼びかけた。
「さとるが来たら、まずは落ち着いて話せ。焦って、何もかも一度に決めようとするな」
薫は、彼の顔を見た。
「うん。私も、ちゃんと話したい」
「怖いことも、隠すなよ。さとるだけじゃない。お前だって怖いんだろう?」
薫は、少しだけ目を伏せた。
「……怖いよ」
その声は、小さく震えていた。
「本当は、ずっと怖い。でも、さとると会えないまま別れるなんて、もっと嫌なの」
剛は、何も言わずにうなずいた。
そのときだった。
通路の向こうから、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
薫は、はっと顔を上げた。
剛も、音のする方へ目を向ける。
足音は、少しずつ近づいてきた。
そして、通路の曲がり角から、一人の兵士が姿を現した。
さとるだった。
*
「……さとる!」
薫は、思わず立ち上がった。
声を出した瞬間、涙がこみ上げてきた。
会いたかった。
何度も、何度も、会いたいと思った。
同じ船の中にいると分かっていても、会える保証はなかった。
ほんの少し歩けば届くはずの距離なのに、命令と戦争が、その距離を果てしなく遠くしていた。
それでも、さとるは来てくれた。
さとるも、薫の姿を見た途端、足を止めた。
短く切られた髪。
見慣れない服装。
けれど、その顔は間違いなく薫だった。
自分を見つめる瞳も、涙をこらえる表情も、何一つ変わっていなかった。
「……薫」
さとるの声が、かすれた。
薫は一歩、彼に近づいた。
さとるも、ゆっくりと歩み寄る。
二人の間にあった距離が、少しずつ縮まっていく。
そして、ようやく手が届くところまで来たとき、さとるは震える手を伸ばした。
薫も、その手を取った。
指が触れた瞬間、二人は互いの手を強く握りしめた。
言いたいことは、たくさんあった。
どうしてここまで来たのか。
どれほど会いたかったのか。
どれほど怖かったのか。
そして、これからどうしたいのか。
けれど、いざ目の前にすると、言葉が出てこなかった。
ただ、手を離したくなかった。
さとるは、薫の手を両手で包み込んだ。
「……生きていてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、薫の目から涙がこぼれた。
薫は声を出さず、何度もうなずいた。
人目がある。
今までのように、自由に話すことはできない。
けれど、二人の手は、互いの気持ちを伝えていた。
薫は、さとるの手を握り返した。
――会いたかった。
――ずっと、あなたに会いたかった。
その思いを込めて、彼の顔を見つめた。
さとるも、まっすぐに薫を見つめ返した。
「……来てくれたんだな」
薫はうなずいた。
「……うん」
その小さな返事に、さとるは一瞬、驚いたような顔をした。
船内では、薫は声を出せないふりをしている。
だからこそ、二人きりでない今、彼女が声を出したことには気をつけなければならなかった。
薫もすぐに口を閉じ、周囲を確かめた。
幸い、近くを通る兵士たちは、それぞれの作業に追われていて、二人の会話には気づいていないようだった。
剛が、二人のそばで小さく咳払いをした。
「長くは話せない。周りを見ながらにしよう」
さとるは、はっとしてうなずいた。
「……ああ」
それでも、薫の手を離すことはできなかった。
*
「……どうして、ここまで来たんだ」
さとるは、周囲に聞こえないほどの声で尋ねた。
薫は、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに涙で崩れそうになった。
「あなたに、会いたかったから」
それだけだった。
長い説明も、言い訳もなかった。
さとるに会いたい。
その思いが、薫をここまで連れてきた。
さとるは、苦しそうに目を閉じた。
「……危険だっただろう」
薫はうなずいた。
「うん」
「怖くなかったのか」
薫は、少し考えてから、正直に答えた。
「怖かったよ。今だって、怖い」
さとるは、彼女の手を握る力を少し緩めた。
薫は、その手を離さなかった。
「でも、あなたに会えないまま帰ることのほうが、私にはつらかったの」
その言葉に、さとるは何も返せなかった。
薫は、ただ彼に会うために来たのではない。
もう一度、二人の未来について話すために来たのだ。
さとるは、彼女の顔を見つめた。
「……俺も、会いたかった」
ようやく口にできた言葉だった。
「ずっと、君に会いたかった。君の顔を見て、声を聞いて……もう一度、君と話したかった」
薫の目に、再び涙が浮かんだ。
さとるは、唇をかみしめた。
「本当は、こんなところじゃなくて、あの高台で会いたかった。戦争のことなんか忘れて、海を見ながら、これからのことを話したかった」
薫は、何度もうなずいた。
「私も……」
言葉が続かなくなり、薫は唇を結んだ。
本当なら、二人にはもっと時間があったはずだった。
二十歳という年齢は、本来なら未来を考えるための時間だった。
どんな仕事をするのか。
どこに住むのか。
どんな家で暮らすのか。
いつか家族を持つのか。
そんなことを、ゆっくり話し合ってもよかったはずだった。
けれど、二人の前には、出撃という現実が迫っていた。
さとるは、薫の目を見つめた。
「……俺は、まだ生きたい」
薫の表情が変わった。
「君と生きたいんだ。戦争が終わったら、一緒に暮らしたい。朝になったら君に会って、夜になったら今日あったことを話して……そんな毎日を送りたい」
さとるの声は震えていた。
「俺は、立派なことを言える人間じゃない。怖いものは怖いし、死にたくない。君を残していきたくないんだ」
薫は、強くうなずいた。
その瞳から、涙が頬を伝っていった。
「……私も、同じだよ」
薫は、周囲を気にしながら、できるだけ小さな声で答えた。
「あなたと生きたい。あなたのいない未来じゃなくて、あなたと一緒につくる未来が欲しい」
さとるは、息をのみ込んだ。
それは、ずっと聞きたかった言葉だった。
けれど、聞けたからといって、現実が変わるわけではなかった。
出撃命令は、取り消されていない。
訓練魚雷を使う許可も、出ていない。
そして、二人がどんな選択をしても、その先に何が待っているのか、誰にも分からなかった。
*
「……さとる」
薫は、彼の手を握ったまま、訓練魚雷のほうへ視線を向けた。
「私たち、これからどうしたらいいのかな」
さとるも、訓練魚雷を見つめた。
そこには、二人が最後の可能性として考えてきたものがあった。
しかし、それは希望だけでできているわけではなかった。
訓練用の機体であり、実際の出撃に使う正式な許可はない。
二人で乗ることが安全だと確認されているわけでもない。
使えるのかどうかさえ、確かなことは分からなかった。
「……分からない」
さとるは、正直に答えた。
「俺だって、何が正しいのか分からないんだ」
薫は、彼を見つめた。
「うん」
「君を連れていけば、君まで危険にさらすことになる。だから、本当は、こんなことを考えるべきじゃないのかもしれない」
さとるは、苦しそうに顔を伏せた。
「でも、君を残して出撃することも、どうしても受け入れられない」
薫は、彼の手を両手で包んだ。
「さとる。私も、何が正しいのか分からないよ」
彼女の声は、震えていた。
「でも、あなたの気持ちだけで決めてほしくない。私の気持ちだけで決めるのも違うと思う。だから、二人でちゃんと話したいの」
さとるは、ゆっくりと顔を上げた。
薫は、涙をぬぐいながら続けた。
「私は、あなたと死ぬために来たんじゃない。あなたと生きたいから来たの。そのことだけは、分かっていてほしい」
さとるは、強くうなずいた。
「……分かっている」
「怖いことも、ちゃんと話そう。無理に強がらなくていいから」
「……ああ」
「私も怖い。だけど、あなたの気持ちを知らないまま、何も決めたくない」
さとるは、薫の手を見つめた。
小さな手だった。
これまで何度も握った手。
高台で初めて触れたとき、胸が高鳴ったことを覚えている。
あのときは、手を握るだけで幸せだった。
また会えることを疑わなかった。
明日も、その先も、二人で過ごせると信じていた。
それなのに今は、次に手を握れる保証さえない。
さとるは、薫の手をそっと握り直した。
「……ありがとう。来てくれて、本当にありがとう」
薫は、小さくうなずいた。
二人はしばらく、言葉を交わさずに見つめ合っていた。
言葉にできない思いが、互いの目に浮かんでいた。
*
そのとき、通路の向こうから上官の声が響いた。
「準備はどうなっている! 持ち場を離れるな!」
さとるの肩が、びくりと震えた。
剛も、すぐに周囲へ目を向けた。
出撃準備は、さらに慌ただしさを増していた。
このままここにいれば、さとるが持ち場を離れていることに気づかれるかもしれない。
「さとる」
剛が、低い声で呼んだ。
「時間がない」
さとるは、うなずいた。
分かっていた。
今、この場所で、二人の未来をすべて決めることはできない。
それでも、ここで再び薫から離れたら、もう会えないかもしれない。
その恐怖が、さとるの心を揺さぶっていた。
薫も、彼の迷いに気づいていた。
彼女は、さとるの手を握りながら、静かに伝えた。
「……私は、ここにいるよ」
さとるは、彼女を見つめた。
「薫……」
「もう、何も言わずにいなくならないで。どうするのか、二人で話そうって約束したでしょう?」
さとるは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「……ああ。約束する」
その返事を聞いて、薫はようやく少しだけ笑った。
さとるも、かすかに笑みを浮かべた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その笑顔は、二人がまだ未来を諦めていないことを示していた。
剛は、二人の様子を見守りながら、周囲の音に耳を澄ませた。
今すぐ、すべてが解決するわけではない。
上官の許可が出たわけでもない。
訓練魚雷の安全が確かめられたわけでもない。
それでも、さとると薫は、ようやく互いの気持ちを確かめることができた。
剛は、静かに言った。
「……二人とも、ここで焦って決めるな。これからどうするにしても、危険があることは忘れるなよ」
「分かっている」
さとるは答えた。
薫も、うなずいた。
「ああ」
剛は、さとるの顔を見た。
「それと、お前はまだ持ち場に戻っていない。ここにいることが知られれば、厳しく問いただされるかもしれない」
さとるは、視線を落とした。
「……分かっている」
「それでも、戻らないつもりなのか」
さとるは、すぐには答えなかった。
薫の手を握る自分の指に、力がこもった。
怖い。
命令に背くことも、その結果も怖かった。
薫を危険にさらすことも怖かった。
何より、二人で生きたいという願いが、もう二度とかなわないことが怖かった。
さとるは、薫を見つめた。
薫も、まっすぐに彼を見ていた。
彼女の瞳にも、恐怖があった。
けれど、その奥には、まだ消えていない願いがあった。
一緒に生きたい。
その願いを、二人で考えたい。
さとるは、深く息を吸った。
「……俺は、まだ決めきれていない。でも、薫と話さずに、何もかも終わらせたくない」
剛は、静かにうなずいた。
「それでいい。まずは、二人で話せ」
*
やがて、剛は通路の様子を確かめるため、少し離れた場所へ移動した。
「俺は周囲を見てくる。長くは離れないから、ここで待っていてくれ」
さとるは、うなずいた。
薫も、静かに頭を下げた。
剛が離れると、二人の周りには、わずかな静けさが生まれた。
もちろん、船内の音が消えたわけではない。
足音も、上官の声も、機材を運ぶ音も続いている。
けれど、さとると薫にとっては、ようやく互いの顔を見つめられる時間だった。
さとるは、薫の手を握ったまま、そっと尋ねた。
「……もう一度、聞いてもいいか」
薫は首をかしげた。
「何を?」
「君が、本当に望んでいること」
薫は、彼の目を見つめた。
そして、今度は迷わずに答えた。
「あなたと生きたい。戦争が終わったあとも、ずっと一緒にいたい」
さとるの目が、わずかに潤んだ。
薫は続けた。
「あなたのいない未来を受け入れたくない。でも、あなたが死ぬことを望んでいるわけでもない。私は、あなたと生きる未来が欲しいの」
さとるは、彼女の手を強く握り返した。
「……俺もだ」
その声は、震えていた。
「俺も、君と生きたい。まだ何もできていない。君と一緒に行きたい場所も、話したいことも、たくさん残っている」
彼は、涙をこらえながら笑った。
「だから、本当は……帰りたいんだ」
薫は、彼の手を両手で包み込んだ。
「うん」
「君と一緒に、帰りたい」
「……うん」
二人は、しばらく手を握り合っていた。
それは、別れを受け入れるための時間ではなかった。
二人が本当に何を望んでいるのか、もう一度確かめるための時間だった。
訓練魚雷は、すぐそばにある。
けれど、それが二人の未来を切り開くのかどうかは、まだ分からない。
正式な許可は出ていない。
安全も保証されていない。
そして、出撃の命令は、刻一刻と近づいていた。
それでも、さとると薫は、もう一度、互いの手を握りしめた。
「……一緒に考えよう」
さとるが言った。
薫は、うなずいた。
「うん。二人で」
そのとき、通路の向こうから、再び上官の声が響いた。
出撃準備が、次の段階へ進もうとしていた。
さとるは、その声を聞きながら、薫の手を離さなかった。
ここから先、何を選ぶことになるのか。
二人が生きる道は、残されているのか。
まだ、答えは出ていなかった。
けれど、少なくとも今、二人は同じ場所にいた。
互いの気持ちを知り、互いの恐怖を知り、それでも一緒に生きたいと願っていた。
そして、この再会が、二人の運命を大きく変えていくことになる。
*
船内では、出撃を告げる時が、少しずつ近づいていた。
さとるは、薫の手を握りながら、訓練魚雷を見つめた。
もう一度、海を見たい。
薫と一緒に、あの高台へ帰りたい。
戦争のない世界で、普通の毎日を送りたい。
それが、二人の本当の願いだった。
その願いをかなえる方法は、まだ見つかっていない。
それでも、さとるは、もう一人で決めるつもりはなかった。
薫もまた、彼の気持ちを聞き、自分の気持ちを伝え続けるつもりだった。
二人は、訓練魚雷の前で、互いを見つめた。
そして、まだ誰にも知られていない選択を前に、静かに手を握り合っていた。
次に二人が選ぶ道は、命令に従う道なのか。
それとも、命令に背いてでも、共にいる道なのか。
その答えは、まだ出ていなかった。
けれど、二人の心には、同じ願いがあった。
――生きたい。
――あなたと、生きたい。
その願いを胸に、さとると薫は、次の瞬間を待っていた。




