第八十五話 あなたが来るのを、信じて待つ
第八十五話 あなたが来るのを、信じて待つ
船内には、出撃を前にした慌ただしい音が響いていた。
兵士たちの足音、機材を運ぶ音、上官の指示する声。
誰もが自分の任務を果たそうと動いている。
その一方で、訓練魚雷の保管区画に近い場所では、薫と剛が、さとるの到着を待っていた。
薫は、通路の曲がり角から目を離せなかった。
さとるが来る。
剛は、そう信じられるだけのことを伝えてくれた。
けれど、いつ来るのかは分からない。
本当に来られるのかも、まだ確かではなかった。
それでも薫は、ここを離れようとはしなかった。
「……剛」
薫は、小さな声で呼びかけた。
「さとるは、ちゃんと来られるかな」
剛は、彼女の顔を見た。
その目には、期待と不安が入り交じっていた。
「さとるは、お前に会いたがっている。それは間違いない」
「うん……」
「だが、今は出撃前の準備で、どこも慌ただしい。上官から命令された場所へ向かわなければならないし、自由に動ける状況じゃない」
剛は、言葉を選びながら続けた。
「だから、必ず来るとは言えない。でも、あいつは簡単に諦めるような男じゃない」
薫は、唇を結んだ。
さとるが自分に会いたいと思ってくれていることは、信じていた。
けれど、彼がどれほど苦しい立場にいるのかも分かっていた。
命令に従わなければならない。
出撃の準備をしなければならない。
兵士としての務めを果たすよう、周囲から求められている。
その中で、自分に会いに来ることがどれほど難しいのか。
薫には、想像することしかできなかった。
「……私が、もっと早くここに来られていたら」
思わず口からこぼれた言葉に、剛は首を横に振った。
「そんなことを考えるな」
「でも……」
「お前は、お前にできることをして、ここまで来たんだ。さとるに会いたい一心で、慣れない場所まで来た。それだけでも、十分すぎるほどだ」
薫は、目を伏せた。
剛の言葉は優しかった。
けれど、胸の奥にある不安までは消えなかった。
会いたい。
それだけなのに。
好きな人の顔を見て、言葉を交わしたいだけなのに。
どうして、それがこんなにも難しいのだろう。
薫は、両手をぎゅっと握りしめた。
「……私、さとるに伝えたいことがあるの」
「何を?」
「もう一度、ちゃんと伝えたい。私は、さとると一緒に生きたいって」
剛は、黙って聞いていた。
「ただ、さとると一緒に死にたいわけじゃない。そんなことを望んで、ここまで来たんじゃないの」
薫の声が、少し震えた。
「本当は怖い。出撃のことも、これから何が起こるのかも。さとるが帰ってこられないかもしれないって考えると、どうしたらいいのか分からなくなる」
薫は、一度言葉を切った。
涙がこぼれそうになり、唇をかみしめる。
「でも、私は諦めたくないの。さとると一緒に朝を迎えて、一緒にご飯を食べて、何でもないことで笑って……そんな毎日を送りたい」
剛は、静かにうなずいた。
「……あいつも、同じことを言っていた」
薫が顔を上げた。
「さとるも?」
「ああ。お前と生きたいって言っていた。死ぬことを覚悟したから会いたいんじゃない。生きて帰って、お前と一緒に暮らしたいから会いたいんだってな」
その言葉を聞いた瞬間、薫の目から涙がこぼれた。
ずっと聞きたかった言葉だった。
自分と同じ願いを、さとるも抱いてくれている。
戦争に命を奪われることを、二人とも望んでいるわけではない。
本当は、生きたい。
一緒に生きて、二人の未来をつくりたい。
それなのに、二人の前には、どうにもならない現実が立ちはだかっていた。
「……会いたい」
薫は、涙をぬぐいながらつぶやいた。
「一度でいいから、ちゃんと顔を見て話したい」
「分かっている」
剛は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「だから、俺も待っているんだ。さとるが来るのを」
*
しばらくすると、通路の向こうから複数の足音が聞こえてきた。
薫は、はっと顔を上げた。
誰かが近づいてくる。
足音は次第に大きくなり、やがて近くで止まった。
薫は、思わず一歩前へ出た。
けれど、姿を現したのは、見知らぬ兵士たちだった。
彼らは何かを確認しながら通り過ぎ、こちらに目を向けることもなく、別の区画へ向かっていった。
薫の肩から、力が抜けた。
また、違った。
ほんの少し期待した自分が、恥ずかしくなった。
「……ごめんね、剛」
「何がだ?」
「何度も、さとるが来たと思ってしまって」
剛は、首を横に振った。
「謝る必要なんかないだろ。好きな人が来るのを待っているんだ。当たり前のことだ」
薫は、かすかに笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……そうだね」
剛は、通路の先へ視線を向けた。
さとるが来るには、まだ時間がかかるのかもしれない。
命令された準備を終えられないのかもしれない。
あるいは、上官の目が厳しく、こちらへ来る機会を失っているのかもしれない。
剛にも、正確なことは分からなかった。
分かっているのは、さとるが薫に会いたがっていること。
そして、薫が今も彼を信じて待っていることだった。
剛は、もう一度、周囲の様子を確かめた。
「俺は少しだけ、向こうの状況を見てくる」
薫は不安そうに彼を見た。
「……さとるを探しに行くの?」
「今、あいつがどこまで準備を進めているのか、確認できるかもしれない。だが、無理はしない。すぐ戻る」
薫は、迷ったあと、小さくうなずいた。
「分かった。ここで待っている」
剛は立ち上がった。
「何かあったら、勝手に動かず、俺が戻るのを待っていてくれ」
「うん」
剛は少し離れた場所まで進んだが、すぐには歩き出さなかった。
振り返ると、薫は一人で通路の先を見つめていた。
その姿が、剛の胸を締めつけた。
薫は、さとるに会うために、ここまで来た。
危険を承知で船に乗り、知らない土地へたどり着き、誰にも本当のことを明かせないまま、今も待ち続けている。
それほどまでに、さとると生きたいのだ。
剛は、心の中でつぶやいた。
――さとる。頼むから、薫に会ってやってくれ。
そして、今度こそ二人が、自分たちの未来について話せる時間を持てるようにと願った。
*
剛が離れたあと、薫は再び壁際に腰を下ろした。
一人になると、船内の音がいっそう大きく感じられた。
遠くで誰かが叫んでいる。
靴音が響いている。
何かを運ぶ音が聞こえる。
その一つひとつが、出撃の時が迫っていることを告げているようだった。
薫は、膝の上に置いた自分の手を見つめた。
この手で、もう一度さとるの手を握りたい。
初めて二人で言葉を交わした日のことを、覚えている。
高台で、海を眺めながら、さとるは少し照れたように笑っていた。
あのときの彼は、今よりもずっと穏やかな顔をしていた。
未来のことを話すとき、その瞳には希望があった。
戦争が終わったら。
いつか、二人で。
そんな言葉を、何の疑いもなく口にできた。
けれど、今は違う。
未来について話すだけでも、胸が痛くなる。
明日が来ることさえ、当たり前ではない。
さとるが生きて帰ってくる保証はない。
自分が、再び彼の顔を見られる保証もない。
それでも薫は、あの日のさとるを忘れたくなかった。
怖いと言っていた顔も。
帰りたいと願っていた声も。
自分と生きたいと伝えてくれた、その真剣なまなざしも。
全部、覚えていたかった。
「……さとる」
薫は、そっと目を閉じた。
「私、あなたに会いたい」
その声は、誰にも届かなかった。
それでも、薫は言葉を続けた。
「会えたら、もう一度言うね。あなたと生きたいって。あなたがいない未来じゃなくて、あなたと一緒につくる未来が欲しいって」
涙が頬を伝った。
「だから……お願い。来て」
薫は、ゆっくりと目を開けた。
そして、再び通路の先を見つめた。
今度こそ、さとるが現れることを願いながら。
*
一方、剛は、さとるが向かっているはずの場所へ続く通路の近くで、周囲の動きを確かめていた。
兵士たちは慌ただしく行き交い、上官の指示も途切れない。
今、さとるが勝手に動けば、すぐに気づかれる可能性があった。
剛は、焦る気持ちを押さえた。
薫を待たせていることは分かっている。
さとるが、どれほど会いたがっているかも分かっている。
それでも、二人を会わせることだけを考えて、周囲への注意を失うわけにはいかなかった。
剛は、通り過ぎる兵士に気づかれないよう、自然にその場を離れた。
まずは、さとるの様子を確かめる。
それから、できることを考える。
確かな方法があるわけではない。
けれど、何もしないまま、二人が別れを迎えることだけは避けたかった。
*
再び一人になった薫は、壁に背を預けたまま、じっと待ち続けた。
時間が、長く感じられた。
何度も、通路の向こうに目を向けた。
そのたびに、期待と不安が胸の中でぶつかり合った。
けれど、薫は立ち去らなかった。
ここにいれば、さとるに会えるかもしれない。
ここで待っていなければ、せっかく近くまで来てくれても、すれ違ってしまうかもしれない。
だから、待つしかなかった。
薫は、胸の前で両手を重ねた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「さとるも、きっと会いたいと思ってくれている」
そう信じることで、どうにか心を支えていた。
同じ船の中にいる二人。
ほんの少し歩けば届きそうな距離にいるはずなのに、命令と戦争が、その距離を果てしなく遠いものにしていた。
それでも、薫は信じていた。
さとるが、自分に会いに来てくれることを。
そして、二人で、もう一度未来について話せることを。
通路の先から、また足音が聞こえ始めた。
薫は顔を上げた。
今度こそ。
そう願いながら、彼女は息をひそめて、その姿が現れるのを待った。
さとるが来るまで、ここを離れない。
その決意だけを胸に、薫は静かに待ち続けた。




