第八十四話 命令の隙間、君のもとへ
第八十四話 命令の隙間、君のもとへ
船内に、張り詰めた空気が満ちていた。
出撃を控えた兵士たちは、上官の指示に従い、それぞれの持ち場で最後の準備を進めていた。足音が通路を行き交い、確認の声が飛び交う。その慌ただしさの中で、さとるは何度も胸の奥に湧き上がる焦りを押し殺していた。
薫が待っている。
剛がそう伝えてくれた。
すぐそばにいるはずなのに、まだ会えない。
さとるは手を握りしめ、目の前の作業に集中しようとした。けれど、心のどこかでは、薫の顔ばかりを思い浮かべていた。
無事だろうか。
疲れていないだろうか。
自分が会いに行くまで、待っていてくれるだろうか。
考えるたびに、胸が締めつけられた。
そのときだった。
「出撃員、集合!」
鋭い声が響いた。
さとるは、はっと顔を上げた。
周囲の兵士たちが一斉に動き始める。さとるも慌てて列に加わった。
上官は、集まった者たちの顔を一人ずつ見渡した。その表情には、任務を前にした厳しさが浮かんでいた。
「これより、各員は指定された魚雷のもとへ向かい、最終準備に入れ。自分に割り当てられた機体を確認し、指示があるまで勝手な行動を取るな」
その言葉を聞いた瞬間、さとるの胸が強く脈打った。
自分に割り当てられた魚雷。
それは、命令どおりなら、帰還を前提としない特攻兵器だった。
さとるは、自分の手が再び震え始めるのを感じた。
とうとう、この時が来たのか。
頭の中に、さまざまな思いが押し寄せた。
死にたくない。
薫と生きたい。
もう一度、あの高台から海を見たい。
それでも、目の前には命令があった。
上官は、続けて各員の配置を告げていった。
「山本、田中、中村、佐々木、高橋。それぞれ指定位置へ」
名前を呼ばれた者たちが、短く返事をして動き出す。
そして、上官の視線がさとるに向いた。
「さとる!」
「はっ!」
「お前は指定された機体の最終確認に向かえ。準備が整い次第、次の指示を待て。勝手な判断は許さん。命令を厳守しろ」
「はっ!」
返事をした声が、自分でも驚くほどかすれていた。
上官はそれ以上何も言わず、次の兵士へ指示を出し始めた。
さとるは、その場を離れながら、胸の中で何度も自分に言い聞かせた。
落ち着け。
今は命令に従うしかない。
焦って失敗すれば、薫まで危険にさらしてしまう。
だが、指定された場所へ向かう途中、さとるの脳裏には、剛から聞いた言葉がよみがえった。
――薫は、お前が来るのを信じている。
さとるは、前を向いた。
「……薫。必ず会いに行く」
その言葉を胸にしまい、彼は歩き続けた。
*
一方、薫は訓練魚雷の保管場所に近い区画で、じっと待っていた。
剛からは、さとるがまだ準備の持ち場を離れられないと聞かされていた。
それでも、薫は諦めていなかった。
さとるが来る。
そう信じていた。
船体がわずかに揺れるたび、薫は顔を上げた。
足音が近づくたび、胸が大きく跳ねた。
けれど、現れるのは自分の知らない兵士ばかりだった。
薫は膝の上で両手を握りしめた。
待つことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
会いたい。
ただ、顔を見たい。
声を聞きたい。
そして、もう一度、自分の気持ちを伝えたい。
自分は死ぬためにここまで来たのではない。
さとると一緒に生きる道を探すために、ここまで来たのだ。
だからこそ、二人で話したかった。
さとるが本当は何を恐れているのか。
何を諦めたくないと思っているのか。
自分の願いだけを押しつけるのではなく、彼の気持ちも、もう一度きちんと聞きたかった。
「……さとる」
薫は声にならないほど小さく、その名前を口にした。
そのとき、少し離れた場所から剛が姿を現した。
薫はすぐに立ち上がった。
「剛……!」
剛は、周囲を確認してから薫のそばへ来た。
「さとるに命令が出た」
その一言に、薫の顔から血の気が引いた。
「……命令?」
「ああ。自分に割り当てられた魚雷の最終確認に向かうように、上官から指示された」
薫は、胸の前で手を握った。
それは、出撃が確実に近づいているということだった。
さとるが、死と隣り合わせの場所へ向かっている。
その現実が、今まで以上に重くのしかかってきた。
「……さとるは、どうするの?」
「命令された場所へ向かうしかない。だが、今は船内が慌ただしい。人の移動も多く、確認のために兵士たちがそれぞれの場所へ向かっている」
剛はそこで言葉を切った。
薫は、剛の顔を見つめた。
「……その間に、会えるの?」
剛は、すぐには答えなかった。
簡単に約束できることではなかった。
命令を無視すれば、さとる自身が危険にさらされる。薫の存在が知られれば、彼女もまた厳しい立場に置かれるかもしれない。
それでも、今ならわずかな可能性がある。
「さとるが自分の機体へ向かう途中で、状況が許せば、ここへ来られるかもしれない。だが、確実じゃない。俺も、周囲の様子を見ておく」
薫は、ゆっくりとうなずいた。
「分かった。待っている」
「無理はするな。少しでも危険だと思ったら、俺の指示を待て」
「うん」
薫は、目を伏せた。
本当は、今すぐ走ってさとるのもとへ行きたかった。
けれど、それでは二人とも危険になる。
ここまで来たのだから、最後まで冷静でいなければならなかった。
剛は、薫の肩にそっと手を置いた。
「さとるも、お前に会いたいと思っている。俺が必ず、その気持ちは伝える」
薫の目に涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
剛は短くうなずくと、再び通路の向こうへ歩いていった。
*
さとるは、指定された機体のある場所へ向かっていた。
通路には、次々と兵士たちが行き交っていた。
機材を運ぶ者、上官の指示を受ける者、確認事項を報告する者。
誰もが自分の役目を果たそうと動いていた。
その中で、さとるは周囲に気を配りながら歩いた。
命令された場所へ向かうこと。
それは、兵士として当然のことだった。
けれど、彼の胸には、どうしても消せない願いがあった。
薫に会いたい。
ほんの少しでいい。
顔を見て、手を握って、話がしたい。
自分が何を恐れているのか。
本当はどうしたいのか。
そして、薫と一緒に生きたいと願っていることを、もう一度伝えたかった。
さとるは、通路の角を曲がった。
その先では、複数の兵士が荷物を運び、別の方向から上官の声が響いていた。
慌ただしさが増していた。
さとるは足を止めず、指定された場所へ向かおうとした。
そのとき、通路の先に、見慣れた姿が一瞬だけ目に入った。
剛だった。
剛は、さとるに気づくと、ごくわずかに視線を動かした。
声はかけない。
表情も大きく変えない。
ただ、何かを伝えようとするように、さとるを見つめていた。
さとるは、その視線に気づいた。
剛は、ほんの一瞬だけ、別の通路へ目を向けた。
その先に、訓練魚雷の保管区画へ続く場所があった。
さとるの心臓が跳ねた。
――薫が、あそこにいる。
そう理解した瞬間、彼の足が止まりそうになった。
今すぐ向かいたい。
けれど、上官からは自分の機体の最終確認を命じられている。
勝手な行動は許されない。
もし、ここで誰かに不審に思われたら。
もし、薫の存在が知られたら。
さとるは、奥歯をかみしめた。
剛の視線は、もうこちらを向いていなかった。
周囲の兵士たちも、それぞれの作業に追われている。
一瞬だけ、通路の人の流れが変わった。
そのわずかな隙間に、さとるは決断を迫られた。
命令された場所へ向かうべきだ。
それは分かっていた。
だが、薫が待っている。
自分が行かなければ、彼女はまた一人で待ち続けることになる。
さとるは、震える息を吐いた。
「……少しだけだ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「顔を見るだけでもいい」
彼は、周囲の動きに気を配りながら、訓練魚雷の保管区画へ続く通路の方へ足を向けた。
それは、命令に背くかもしれない行動だった。
何が起こるか分からない。
会える保証もなかった。
それでも、今ここで何もしなければ、二人は顔を合わせられないまま、別れの時を迎えてしまうかもしれない。
さとるは、歩きながら薫の名前を心の中で呼んだ。
「薫……今、行くから」
*
薫は、通路の向こうから聞こえる足音に気づいた。
顔を上げる。
誰かが近づいてくる。
その足音は、少しずつ大きくなっていた。
薫の胸が高鳴った。
まさか。
けれど、期待することが怖かった。
違う人だったら、また待たなければならない。
それでも、どうしても目をそらせなかった。
薫は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
足音が近づく。
もう一度、近づく。
そして、通路の曲がり角の向こうに、人影が現れかけた。
薫は息を止めた。
その姿が、さとるなのか。
まだ、はっきりとは分からなかった。
ただ、胸の奥で、抑えきれない願いがあふれていた。
会いたい。
今度こそ、会いたい。
戦争が二人を引き離そうとしている。
出撃の命令が、すぐそこまで迫っている。
それでも、二人には、まだ伝えなければならない言葉があった。
薫は、涙をこらえながら、通路の先を見つめ続けた。
さとるもまた、彼女が待つ場所へ向かっていた。
二人の距離は、少しずつ縮まっている。
けれど、そのわずかな時間さえ、戦争は容赦なく奪おうとしていた。




