第八十三話 君に会うための、わずかな時間
第八十三話 君に会うための、わずかな時間
船内に響く号令が、途切れることなく続いていた。
出撃を控えた兵士たちは、それぞれの持ち場で最後の確認を進めている。通路を行き交う足音も、上官の声も、いつも以上に慌ただしかった。
さとるは、指示された準備を終え、次の命令を待っていた。
手の震えは、まだ完全には止まっていなかった。
それでも、先ほどのように何もできなくなるほどではない。
頭の中には、薫の姿があった。
自分に会うために、危険を冒してここまで来た薫。
今も、どこかで自分を待っている薫。
さとるは、何度も通路の先に目を向けた。
けれど、彼女の姿は見えない。
「……いつになったら、会えるんだ」
つぶやいた声は、周囲の喧騒に消えた。
同じ船の中にいる。
剛がそう教えてくれた。
無事でいることも分かった。
それなのに、顔を見ることさえできない。
さとるは、唇をかみしめた。
会えたら、何を話そう。
最初に謝るべきだろうか。
危険な目に遭わせてしまったことを。
それとも、ありがとうと伝えるべきだろうか。
自分に会うために、ここまで来てくれたことを。
きっと、どちらも伝えたい。
けれど、本当に会えたなら、最初の一言さえ出てこないかもしれなかった。
ただ、彼女の顔を見て、無事でいてくれたことを確かめたい。
そして、もう一度、その手を握りたい。
さとるは、胸の前で両手を握りしめた。
「……薫。もう少しだけ、待っていてくれ」
*
その頃、薫は壁際に座り、剛が戻ってくるのを待っていた。
木箱の中で長い時間を過ごした疲れは、まだ身体に残っていた。
足を伸ばすと、こわばった筋肉が痛んだ。
それでも、薫は休んでばかりはいられないような気持ちだった。
さとるは、今も準備を続けている。
自分がここまで来たことを知っている。
きっと、会いたいと思ってくれている。
そう考えると、じっとしていることさえもどかしかった。
しかし、自分から動けば、周囲に不審に思われる可能性がある。
男の姿をして、声を出せないふりをしている以上、余計な行動は避けなければならなかった。
薫は、膝の上で手を組んだ。
その手は、少し震えていた。
怖くないわけではない。
出撃が近づいていることも、さとるが危険な任務へ向かうことも、すべて分かっていた。
本当なら、今すぐこの船を降りて、二人でどこかへ逃げてしまいたかった。
戦争のない場所へ。
命令に追われることも、明日を恐れることもない場所へ。
けれど、そんな願いを簡単にかなえられる時代ではなかった。
薫は、ゆっくりと目を閉じた。
高台で、さとると一緒に海を眺めた日のことを思い出す。
あのとき、二人は未来の話をした。
戦争が終わったら、何をしたいか。
どんな場所で暮らしたいか。
どんな毎日を送りたいか。
さとるは、特別なことなど望んでいなかった。
ただ、普通に働いて、帰る場所があって、好きな人と一緒に夕食を食べられるような生活がしたいと言っていた。
薫も、同じだった。
朝になったら、隣にさとるがいる。
帰ってきたら、おかえりと言える。
疲れた日には、二人でお茶を飲みながら話をする。
そんな毎日を、ずっと夢見ていた。
「……私は、その未来を諦めたくない」
薫は、小さくつぶやいた。
死ぬために、ここまで来たのではない。
さとると一緒に生きる道を見つけるために、ここまで来たのだ。
だから、どんなに怖くても、その思いだけは手放さなかった。
*
やがて、剛が戻ってきた。
薫は、すぐに顔を上げた。
「剛……」
声を抑えて呼ぶと、剛は周囲を確認してから、彼女のそばへ来た。
「待たせたな」
薫は、すぐに尋ねた。
「さとるは?」
剛は、少しだけ表情を和らげた。
「無事だ。準備を続けている」
「……そう」
薫は、胸をなで下ろした。
剛は、その様子を見ながら、近くに腰を下ろした。
「さとるも、お前に会いたがっている」
その言葉に、薫の目が潤んだ。
「……本当に?」
「ああ。今すぐにでも会いに行きたいと言っていた」
薫は、思わず顔を伏せた。
嬉しかった。
自分だけが会いたいのではない。
さとるも、自分と同じ気持ちでいてくれる。
それだけで、張りつめていた心が少しだけ緩んだ。
「……私も、会いたい」
「分かっている」
剛は、静かにうなずいた。
「だから、どうにか二人が話せる時間をつくりたいんだ。ただ、今は出撃準備で人が多い。さとるが持ち場を離れるのも難しい」
薫は、残念そうに目を伏せた。
「……そうだよね」
剛は、しばらく考えてから言った。
「準備の確認が一段落すれば、少し時間ができる可能性はある。確実なことは言えないが、俺が様子を見てくる」
「ありがとう、剛」
「礼はいい。だが、約束はできない。無理をしてお前やさとるが見つかることだけは避けたいんだ」
「分かっている」
薫は、まっすぐに剛を見つめた。
「私、ここで待つ。さとるが来られるまで」
剛は、彼女の言葉を聞き、深くうなずいた。
「……分かった。もう一度、様子を見てくる」
*
さとるのいる場所では、最後の確認が続いていた。
上官が兵士たちに指示を出し、一人ひとりの準備状況を確かめている。
さとるも、指示を受けるたびに返事をしていた。
けれど、心は落ち着かなかった。
いつ、次の命令が下されるのか。
その命令が出れば、もう自由に動くことはできなくなるかもしれない。
薫に会えないまま、出撃の時刻を迎えてしまうかもしれない。
その考えが、さとるを追い詰めていた。
「……さとる」
ふと、近くにいた山本一郎が声をかけてきた。
さとるは顔を上げた。
「何だ、山本」
「さっきから、ずっと落ち着かない様子だな」
さとるは、一瞬言葉に詰まった。
山本は、責めるような目をしていなかった。
ただ、同じように死の恐怖を抱えている者として、さとるの様子を気にかけているようだった。
「……会いたい人がいるんだ」
さとるは、声を落として答えた。
山本は、しばらく黙ったあと、静かにうなずいた。
「そうか」
「ここまで来てくれたのに、まだ会えていない」
「……それは、つらいな」
山本は、遠くを見つめた。
「俺も、家族にもう一度会いたい。出発する前に、もっと話しておけばよかったと思うことが、いくつもある」
さとるは、山本の横顔を見つめた。
山本も、死を恐れている。
帰りたいと願っている。
それでも、命令に従うために、ここに立っている。
「……俺たちは、どうしてこんなことになったんだろうな」
さとるがつぶやくと、山本は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
しばらくして、山本は小さく言った。
「せめて、会える可能性があるなら、会っておきたいよな」
さとるは、強くうなずいた。
「……ああ」
その言葉は、さとるの胸に深く残った。
自分は、まだ薫に会えるかもしれない。
ならば、諦めたくなかった。
*
その頃、剛は、さとるがいる場所の近くで様子をうかがっていた。
上官の確認は、まだ終わっていない。
兵士たちは、指示を受けながら次々と動いている。
剛は、さとるに近づく機会を探していた。
だが、無理に声をかければ、周囲に不自然に思われるかもしれない。
そのとき、上官が別の兵士たちを呼び、短い指示を出した。
一時的に人の流れが変わった。
剛は、そのわずかな隙に、さとるのそばへ近づいた。
「さとる」
さとるは、すぐに振り返った。
「剛……!」
「長くは話せない。今、準備の確認が続いているが、一段落したら次の指示が出る可能性がある」
さとるは、うなずいた。
「分かっている」
剛は、声をさらに落とした。
「薫は、ここで待っている。お前が来るのを信じているんだ」
その言葉に、さとるの目が揺れた。
「……俺も、行きたい」
「分かっている。だが、今は持ち場を離れるな。俺も、もう少し様子を見る」
さとるは、唇をかみしめた。
焦る気持ちを抑えるのは、苦しかった。
けれど、ここで自分が疑われれば、薫まで危険にさらしてしまう。
「……頼む、剛」
「ああ」
剛は短く答え、再びその場を離れた。
さとるは、もう一度、手元の確認に戻った。
それでも、心の中では、薫の名前を何度も呼んでいた。
*
時間が過ぎていく。
薫は、剛が戻るのを待っていた。
さとるは、次の命令を待ちながら、何とか持ち場を守っていた。
そして剛は、二人が会えるわずかな時間をつくろうと、周囲の動きを見続けていた。
誰も、簡単には動けなかった。
一つの行動が、二人だけでなく、剛自身の立場まで危険にさらす可能性がある。
それでも、剛は諦めていなかった。
二人が、互いの顔を見ることさえできないまま、別れの時を迎えてしまう。
そんな結末だけは、何とか避けたかった。
薫は、遠くから聞こえる足音に耳を澄ませた。
さとるだろうか。
そう思って顔を上げるたび、違う兵士の姿が目に入った。
そのたびに、胸の中に小さな失望が広がった。
それでも、薫は待ち続けた。
さとるも、同じ船の中で待っている。
自分に会いたいと願ってくれている。
その思いを信じたかった。
「……さとる」
薫は、そっと胸に手を当てた。
「私、ここにいるから」
声に出せないその言葉を、心の中で繰り返す。
戦争が、二人の間に見えない壁をつくっていた。
会いたいという気持ちだけでは、その壁を越えられない。
それでも、二人の願いまで奪うことはできないはずだった。
さとると生きたい。
さとると、もう一度海を見たい。
その願いを胸に、薫は静かに目を開けた。
そして、剛が戻ってくるのを、もう一度待ち始めた。
二人が再会できる時間は、まだ訪れていなかった。
けれど、確かに近づいていると信じながら。




