第八十二話 会いたい、その一言さえ
第八十二話 会いたい、その一言さえ
船内に、再び号令が響いた。
出撃準備を進める兵士たちの足音が重なり、通路には緊張が満ちていた。誰もが自分の任務に追われ、立ち止まって話をする余裕さえなくなっている。
剛は、壁際に立ったまま、周囲の様子をうかがっていた。
薫は、訓練用の回天が保管されている区画に近い場所で待っている。
さとるは、まだ出撃準備の持ち場を離れられない。
二人は同じ船の中にいる。
それなのに、会うことができない。
剛は、奥歯をかみしめた。
「……何とかしないとな」
ここまで薫を連れてきた以上、ただ待たせておくわけにはいかなかった。
しかし、焦って動けば、彼女の存在が明らかになるかもしれない。さとるが持ち場を離れれば、上官に気づかれる可能性もある。
どちらか一方を危険にさらすようなことはしたくなかった。
剛は、少し離れたところにいた料理係を見つけ、静かに近づいた。
「ちょっと、話がある」
料理係は剛の顔を見て、すぐに事情を察したようだった。
「……あの子のことか」
剛はうなずいた。
「ああ。薫は、もう目的の区画の近くまで来ている。でも、さとるがまだ来られない」
料理係は、しばらく黙って考えていた。
「出撃準備が始まった今、勝手に動くのは危ない。誰もが神経を張りつめている。いつもなら見過ごされることでも、今は疑われるかもしれない」
「分かっている」
「それでも、会わせてやりたいんだな」
剛は、強くうなずいた。
「二人とも、ずっと会いたがっていたんだ。ここまで来た薫の気持ちも、さとるがどんな思いで待っているかも知っている。せめて、一度だけでも、ちゃんと話をさせてやりたい」
料理係は、深く息を吐いた。
「……俺も同じ気持ちだ。だが、無理をして二人をもっと危険な立場に追い込むわけにはいかない」
「どうすればいいと思う?」
「まずは、さとるが今どこまで準備を終えているかだ。持ち場を離れられる時間があるのか、それを確かめないと」
剛はうなずいた。
「俺が様子を見てくる」
「焦るなよ、剛。二人を助けたいなら、お前自身も冷静でいなければならない」
その言葉に、剛は一瞬、目を伏せた。
分かっていた。
二人のために何かをしたいという思いが強いほど、判断を誤る危険もある。
「……ああ。分かっている」
剛は、さとるのいる持ち場へ向かった。
*
薫は、壁際に腰を下ろし、静かに息を整えていた。
木箱の中で長い時間を過ごしたせいか、身体には疲れが残っていた。狭い空間で縮こまっていた腕や脚も、まだ少しこわばっている。
それでも、薫の心は休まらなかった。
さとるに会いたい。
今すぐ、顔を見たい。
声を聞きたい。
自分がここまで来たことを、直接伝えたい。
彼がどれほど心配しているのかも知りたかったし、自分もどれほど怖かったのかを聞いてほしかった。
けれど、周囲には兵士たちがいる。
人前では、声を出せない。
男の姿をして、話すことができない人間を装っている以上、余計なことをすれば疑われるかもしれない。
薫は、両手を膝の上で握りしめた。
――私は、何をしているのだろう。
ふと、そんな思いが浮かんだ。
さとるに会いたくて、ここまで来た。
彼と一緒に生きる道を探したくて、危険を承知で船に乗った。
けれど、実際にここまで来ても、会うことさえ簡単にはできない。
戦争は、こんなにも人の心を追い詰めるのだ。
好きな人に会いたい。
その人の手を握りたい。
一緒にいたいと伝えたい。
それだけの願いが、どうしてこんなに難しいのだろう。
薫は、目を閉じた。
思い出したのは、高台から見た海だった。
あの日、さとるは自分の隣に座り、遠くの水平線を見つめていた。
戦争が終わったら、どこへ行こうか。
何をしようか。
そんな話をした。
特別なことなど、何もなかった。
ただ、二人で未来について話せたことが、何より幸せだった。
薫は、唇を震わせた。
「……また、一緒に海を見たい」
誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。
その願いだけは、今も変わっていなかった。
*
さとるは、上官からの指示を受けながら、最後の確認を続けていた。
表面上は、何とか落ち着いているように見えたかもしれない。
しかし、心の中では、薫のことが頭から離れなかった。
剛から聞いた。
薫は無事にここまで来ている。
自分を待っている。
それなのに、まだ会えていない。
さとるは、手にした装備を確認しながら、何度も通路へ目を向けた。
「さとる!」
突然、上官の声が飛んできた。
さとるは、はっとして姿勢を正した。
「はい!」
「何度もよそ見をするな。確認に集中しろ!」
「申し訳ありません!」
さとるは頭を下げた。
上官は厳しい目でさとるを見たあと、次の兵士のところへ移っていった。
さとるは、うつむいた。
自分が何をしているのか、分かっていた。
薫のことばかり考えていては、今の任務に集中できない。
けれど、彼女がすぐ近くにいると知ってしまった以上、気持ちを切り離すことは難しかった。
会いたい。
ただ、その一言を伝えたい。
ここまで来てくれてありがとう。
怖い思いをさせてごめん。
そして、俺も君に会いたかった。
それだけでもいい。
直接、顔を見て伝えたかった。
さとるは、深く息を吸った。
「……今は、やるべきことをやる」
自分に言い聞かせ、確認を再開した。
だが、その手はまだ、わずかに震えていた。
*
やがて、剛がさとるの持ち場に姿を現した。
さとるは、すぐに気づいたものの、周囲に人がいるため、すぐには声をかけられなかった。
剛も、何事もないような顔で近くを通り過ぎた。
そして、兵士たちの動きが一段落したところで、短く声をかけた。
「さとる、少しだけいいか」
さとるは、周囲を確認してから近づいた。
「……薫は?」
「無事だ。お前を待っている」
その言葉を聞くと、さとるの顔に安堵が広がった。
「そうか……」
「ただ、今は人の出入りが多い。ここを離れられるかどうか、確かめに来たんだ」
さとるは、苦しそうにうつむいた。
「まだ、勝手には動けない。準備が終わっても、すぐに次の指示が出るかもしれない」
「そうか」
剛も、厳しい表情になった。
「無理に動くな。お前が疑われれば、薫のことも調べられるかもしれない」
「分かっている。でも……」
さとるは、声を震わせた。
「あと少しのところにいるんだろう? それなのに、会えないなんて……」
剛は、何も言わずにさとるを見つめた。
さとるの目には、涙が浮かんでいた。
恐怖を押し殺し、出撃準備を続けながら、彼はずっと薫のことを考えていたのだ。
「……俺は、あいつに会いたい」
さとるは、ようやく本音を口にした。
「死ぬかもしれないから会いたいんじゃない。ただ、一緒に生きたいから会いたいんだ。これからどうするのか、二人で話したいんだ」
剛は、静かにうなずいた。
「分かっている。俺も、二人にちゃんと話をしてほしいと思っている」
「……頼む」
「できることを探す。だから、お前は今、自分の持ち場でやるべきことを続けてくれ。何か動きがあったら知らせる」
さとるは、しばらく剛を見つめてから、うなずいた。
「……分かった」
剛は、その場を離れた。
さとるは再び準備に戻ったが、胸の中には焦りが残っていた。
いつ会えるのか。
本当に、会えるのか。
その答えは、まだ分からなかった。
*
剛が戻ってきたとき、薫はすぐに顔を上げた。
「……さとるは?」
剛は、彼女のそばに立ち、静かに答えた。
「無事だ。今も準備を続けている」
薫は、ほっと息を吐いた。
「よかった……」
けれど、剛が続けた言葉に、表情が曇った。
「まだ、ここへ来られるかは分からない。持ち場を離れれば、上官に気づかれるかもしれないんだ」
薫は、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
本当は、すぐにでも会いたかった。
会えない時間が長くなるほど、不安は膨らんでいく。
それでも、さとるを困らせるわけにはいかなかった。
「剛、さとるに伝えてほしいことがあるの」
「何だ?」
薫は、少しだけ目を伏せた。
「私は大丈夫だって。怖くないわけじゃないけど、ここまで来られたから。だから、さとるも一人で怖がらないでって」
剛は、黙って聞いていた。
「それから……」
薫は、声を詰まらせた。
「会いたいって。早く顔を見たいって。それだけ、伝えてほしい」
剛は、深くうなずいた。
「分かった。必ず伝える」
薫は、涙をぬぐった。
「ありがとう」
剛は、彼女のそばに腰を下ろした。
「薫。お前も無理をするな。ここまで来るのに、ずいぶん苦しい思いをしただろう」
「……うん」
「二人が会えるように、俺もできるだけ動く。だけど、何が起きても、お前の命を軽く扱うつもりはない。それだけは分かっていてくれ」
薫は、剛の顔を見つめた。
「分かっている。私も、生きたいもの」
その言葉に、剛は少しだけ表情を和らげた。
「……そうか」
「さとると一緒に、生きたい」
薫は、はっきりと言った。
「だから、ここまで来たの」
剛は、その決意を受け止めるように、静かにうなずいた。
*
時間は、容赦なく過ぎていった。
船内では、出撃に向けた準備がさらに進み、兵士たちへの指示も増えていた。
さとるは持ち場を離れられず、薫は彼が来るのを待ち続けている。
剛は、二人を会わせる方法を探しながら、周囲の様子を見守っていた。
誰もが、次に何が起きるのか分からないまま、時間だけが進んでいく。
薫は、壁にもたれ、静かに目を閉じた。
疲れていた。
怖かった。
本当に、さとるに会えるのだろうか。
このまま会えないまま、出撃の時刻が来てしまうのではないだろうか。
そんな考えが、何度も頭をよぎった。
それでも、薫は諦めなかった。
さとるも、きっと同じ気持ちでいる。
会いたいと願っている。
だから、自分はここで待つ。
彼が来てくれると信じて。
「……さとる」
薫は、そっと目を開けた。
「私、ここにいるからね」
その声は、静かな船内に溶けていった。
二人の距離は、決して遠くない。
けれど、戦争と命令が、その間に見えない壁をつくっていた。
その壁を越え、二人がもう一度向き合える日は来るのだろうか。
まだ、誰にも分からなかった。
ただ、さとるも薫も、同じ願いを胸に抱いていた。
**もう一度、会いたい。**
そして、会えたなら、今度こそ二人で、生きる未来について話したい。
その願いを胸に、二人はそれぞれの場所で、次の瞬間を待ち続けていた。




