第八十一話 迫る出撃、届かない君
第八十一話 迫る出撃、届かない君
薫は、訓練用の回天が保管されている区画に近い場所で、剛が戻ってくるのを待っていた。
木箱から出ることはできたものの、安心して立ち上がれる状況ではなかった。周囲には兵士たちが行き交い、出撃に向けた準備が着々と進められている。
少し離れた場所から、上官の号令が響いた。
そのたびに、薫の肩が小さく震えた。
さとるも、今ごろは出撃の準備をしているのだろうか。
震える手で装備を確かめているのだろうか。
それとも、もう出撃する場所へ向かうよう命じられているのだろうか。
考えるほど、胸が苦しくなった。
会いたい。
ただ、会いたい。
ここまで来れば、すぐに会えると思っていたわけではない。それでも、さとるの姿が見えない時間は、思っていた以上に長く感じられた。
薫は、両手を胸の前で握りしめた。
「……さとる」
その名前を呼んでも、返事はない。
当然だった。
彼は、まだここにはいないのだから。
薫は、涙をこらえながら、周囲の様子をうかがった。
人前では、声を出すことができない。
男の姿をしている以上、余計な疑いを持たれるわけにはいかなかった。
これまで守ってきた秘密を、ここで失うわけにはいかない。
彼女は、再びうつむき、誰にも気づかれないように息を整えた。
*
その頃、さとるは出撃準備のため、指定された場所で上官の指示を受けていた。
最後の確認が続いている。
周囲の兵士たちは、表情を引き締め、それぞれの役目を果たしていた。
さとるも、その場に立っていた。
しかし、心は落ち着かなかった。
薫は、今どこにいるのだろう。
剛は、無事に彼女を連れてこられたのだろうか。
自分が待つ場所へ、薫は本当にたどり着けるのだろうか。
何度も通路のほうへ目を向けたくなった。
けれど、今は勝手に持ち場を離れることができない。
さとるは、両手を握りしめた。
手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。
「……まだ、会えていない」
その事実が、胸に重くのしかかった。
さとるは、薫に伝えたいことがあった。
ここまで来てくれたことへの感謝。
危険な思いをさせてしまったことへの申し訳なさ。
そして、何よりも伝えたいこと。
自分は、死にたくないということ。
薫と生きたいということ。
戦争が終わったら、二人で普通の暮らしをしたいということ。
それを、もう一度、自分の口から伝えたかった。
しかし、出撃の時刻は近づいていた。
もし、このまま会えなかったら。
もし、言葉を交わすことさえできなかったら。
その先を考えた瞬間、さとるの呼吸が浅くなった。
「……落ち着け」
小さくつぶやく。
怖かった。
回天に乗ることも、帰れなくなることも怖かった。
そして今は、薫に会えないまま別れることが、何よりも怖かった。
*
やがて、剛が戻ってきた。
その姿を見つけたさとるは、すぐに声をかけようとした。
しかし、周囲に兵士がいることに気づき、言葉を飲み込んだ。
剛も、何事もないような表情で近づいてきた。
二人は、周囲から不自然に見えない距離で立ち止まった。
「……どうだ」
さとるが、小さな声で尋ねた。
剛は、短く答えた。
「薫は、無事だ」
その言葉を聞いた瞬間、さとるの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……本当か?」
「ああ。目的の区画の近くまで連れてきた。今は、そこで待っている」
さとるは、目を閉じた。
よかった。
薫は無事だった。
途中で見つかってはいなかった。
ここまで来てくれたのだ。
それだけで、胸がいっぱいになった。
しかし、次の瞬間、さとるは顔を上げた。
「会わせてくれ。今すぐ、薫に会いたい」
剛は、苦しそうな表情を浮かべた。
「俺だって、そうしてやりたい。だけど、今は簡単に動けないんだ」
「どうしてだよ」
「出撃準備が進んでいる。お前が持ち場を離れれば、すぐに気づかれるかもしれない。俺も、薫のそばを長く離れられない」
さとるは、唇をかんだ。
分かっていた。
剛が慎重になっているのは、自分たちを守るためだ。
焦って行動すれば、薫まで危険にさらしてしまう。
それでも、会いたかった。
あと少しの距離にいるのに、会うことができない。
その現実が、さとるには耐えがたかった。
「……薫は、何か言っていたか?」
剛は、少し考えてから答えた。
「お前が来るのを待つと言っていた。自分から無理に動くつもりはないそうだ」
さとるの目が潤んだ。
薫らしいと思った。
どれほど会いたいと思っていても、剛を危険にさらさないようにしている。
自分と同じように、彼女も必死に耐えているのだ。
「……俺が行く」
さとるは、決意したように言った。
「何とか時間をつくって、薫のところへ行く」
剛は、すぐには答えなかった。
「さとる、よく聞け。気持ちは分かる。だけど、今ここで無理をすれば、二人とも会えなくなる可能性がある」
「それでも……」
「分かっている。お前がどれだけ会いたいか、俺にも分かるんだ」
剛は、さとるの肩に手を置いた。
「だからこそ、焦るな。俺も方法を考える。薫を一人にしたままにはしない」
さとるは、悔しそうにうつむいた。
「……頼む、剛」
「ああ」
短い返事だった。
だが、その言葉には、二人を何とか助けたいという剛の思いが込められていた。
*
一方、薫は、剛が戻ってくるのを待ちながら、遠くから聞こえる声に耳を澄ませていた。
船内では、出撃に関する指示が続いている。
兵士たちの表情は硬く、誰もが落ち着かない様子だった。
薫は、その光景を見て、改めて戦争の恐ろしさを感じていた。
ここにいる人たちは、みな若い。
家族がいる人もいるだろう。
恋人がいる人もいるだろう。
帰りたい場所がある人もいるはずだ。
それなのに、彼らはこれから命をかけた任務へ向かおうとしている。
本当なら、こんな場所にいる必要などなかった。
さとるも、ここにいる若者たちも、普通に生きていくはずだったのだ。
好きな人と出会い、家族をつくり、仕事をして、何でもない日々を重ねていく。
それが、どうして許されないのだろう。
薫は、目を閉じた。
「……さとると、一緒に生きたい」
その願いだけは、変わらなかった。
死ぬことを望んでいるわけではない。
さとるを失うことも、自分の命を失うことも、怖くてたまらない。
それでも、彼が一人で死へ向かうかもしれないと思うと、何もせずに待っていることができなかった。
ここまで来たのは、彼と一緒に生きる道を探すためだ。
その思いを、忘れたくなかった。
*
しばらくして、剛が再び薫のもとへ戻ってきた。
薫は、彼の姿を見つけると、すぐに近づいた。
「……さとるは?」
小さな声で尋ねる。
剛は、周囲を確かめてから答えた。
「無事だ。今は出撃準備の途中で、持ち場を離れられない」
薫は、ほっと胸をなで下ろした。
「……よかった」
けれど、すぐに不安そうな顔になった。
「会えないの?」
剛は、正直に答えた。
「今すぐは難しい。だが、何とか二人が話せる時間をつくれないか、考えている」
薫は、うつむいた。
「……そうだよね。今は、みんな出撃の準備で忙しいものね」
その声には、寂しさがにじんでいた。
剛は、そんな薫を見て、胸が痛くなった。
ここまで来たのに。
あと少しの距離にいるのに。
二人は、まだ顔を合わせることさえできない。
「薫、もう少しだけ待ってくれ」
剛は、できるだけ穏やかな声で言った。
「必ず方法を考える。お前をここまで連れてきたのは、ただ待たせるためじゃない」
薫は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう、剛」
「礼はいい。今は身体を休めておけ。ずっと箱の中にいたんだ。無理をするな」
薫はうなずいた。
そして、再び、さとるがいる方向へ目を向けた。
姿は見えない。
声も聞こえない。
それでも、彼が同じ船の中にいる。
それだけが、今の薫にとって確かな希望だった。
その頃、さとるは、剛と別れたあとも、何度も通路の向こうを見つめていた。
薫は、無事だ。
自分を待ってくれている。
そのことを知っただけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
けれど、時間は待ってくれなかった。
出撃の時刻は、確実に近づいている。
上官の指示があれば、さとるは自分の持ち場へ向かわなければならない。
訓練用の回天を使う許可も、まだ下りていない。
薫と会えたとしても、二人で生きる道が見つかるとは限らない。
それでも、さとるは諦めたくなかった。
自分は、まだ生きたい。
薫と一緒に帰りたい。
戦争が終わったあとの世界を、この目で見たい。
そして、薫と並んで、もう一度海を眺めたい。
さとるは、胸の前で手を握りしめた。
「……必ず、会いに行く」
それは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
自分自身に誓う言葉だった。
薫が先にたどり着いた場所へ。
彼女が待っている場所へ。
必ず、自分の足で向かう。
その決意を胸に、さとるは再び、出撃準備のための指示に意識を戻した。
まだ、二人は再会していない。
同じ船の中にいながら、互いの姿を見ることもできない。
けれど、二人の心は、確かにつながっていた。
そして、戦争が迫る中、剛は二人を再び会わせるために、次の一手を考え始めていた。




