第八十話 さとるのもとへ、あと少し
第八十話 さとるのもとへ、あと少し
台車の車輪が、船内の床を静かに転がっていた。
剛は取っ手を握り、前方を確かめながら慎重に進んでいた。
木箱の中には、薫がいる。
さとるに会うために、長い髪を切り、男の姿に身を変え、声を出さないふりまでして、この船に乗り込んだ薫。
ここまで来るだけでも、何度も危険な場面があった。
先ほどは兵士に呼び止められ、荷物の中身や運搬先を尋ねられた。剛は何とかその場を切り抜けたものの、まだ安心できる状況ではなかった。
出撃を控えた船内では、兵士たちが慌ただしく行き交っている。
誰かに呼び止められれば、また説明を求められるかもしれない。
箱を開けられれば、薫が隠れていることが知られてしまう。
剛は、額に浮かんだ汗をぬぐうこともせず、台車を押し続けた。
「……もう少しだ」
小さくつぶやいた声が、自分自身を励ましているように聞こえた。
箱の中から、かすかな合図が返ってきた。
薫は、ずっと息をひそめていた。
狭い空間で身体を自由に動かすこともできず、船が揺れるたびに、木箱の内側に身体が触れた。
車輪が床の継ぎ目を越えるたび、箱が小さく揺れる。
そのたびに、薫の胸は恐怖でいっぱいになった。
けれど、声を出すわけにはいかなかった。
自分がここにいると知られれば、剛まで危険な立場に追い込まれるかもしれない。
薫は、唇をかみしめた。
――さとる。
心の中で、何度も名前を呼んだ。
――今、あなたのところへ向かっているよ。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
最後に顔を見たときのさとるの表情が、何度も頭に浮かんだ。
自分を抱きしめてくれた腕の温かさ。
二人で見上げた空。
高台から眺めた海。
いつか戦争が終わったら、一緒に生きたいと語り合った時間。
そのすべてが、今の薫を支えていた。
「……もう一度、会いたい」
声にならないほど小さく、薫はつぶやいた。
怖かった。
ここまで来ても、さとるに会えるとは限らない。
途中で見つかるかもしれない。
計画が失敗するかもしれない。
それでも、ここで諦めることだけはできなかった。
さとると生きる未来を、まだ手放したくなかったからだ。
*
やがて、剛は通路の奥にある区画へたどり着いた。
周囲を見渡すと、近くには物資が置かれ、兵士たちが行き来していた。
出撃準備が進んでいるため、船内のあちこちで人の動きが増えている。
剛は台車を止めた。
ここから先へ進むには、もう一度、周囲の様子を確かめる必要があった。
「……ここで少し待つぞ」
箱に向かって、小さく声をかける。
薫は、内側から合図を返した。
剛は、通路の向こうを見つめた。
すぐに動くわけにはいかない。
人が途切れるのを待つ間、剛の頭にはさまざまな思いが浮かんでいた。
自分は、本当にこれでよかったのだろうか。
薫をここまで連れてきた。
さとるに会わせたいと思った。
二人が離れ離れのまま、最後の時を迎えることだけは避けたかった。
けれど、再会させることと、二人を危険にさらすことは、決して別々には考えられなかった。
訓練用の回天を出撃に使う許可は、まだ下りていない。
仮に二人がそこへたどり着いたとしても、その先に何が待っているのか分からない。
剛は、箱を見つめた。
「……薫」
返事を待ってから、静かに続けた。
「ここまで来たんだ。だけど、まだ無理はするな。苦しくなったら、必ず合図してくれ」
箱の中から、かすかな合図が返った。
「分かった」
剛は小さくうなずいた。
彼女の決意を尊重したい。
それでも、危険を危険ではないかのように扱うことはできなかった。
剛はもう一度、通路の先を確かめた。
今なら進めそうだった。
取っ手を握り直し、ゆっくりと台車を動かす。
車輪が床を転がる音が、静かな通路に響いた。
*
その途中、船体が大きく揺れた。
台車が傾き、木箱がわずかに動いた。
「……っ!」
剛はすぐに台車を止め、箱がそれ以上揺れないように支えた。
木が台車に当たり、鈍い音が響く。
剛は、思わず周囲を見渡した。
少し離れたところにいた兵士が、こちらへ顔を向けた。
「おい、大丈夫か?」
「はい。船が揺れたもので」
剛は平静を装って答えた。
兵士は台車を一瞥したが、特に何も言わず、再び自分の仕事へ戻っていった。
剛は、兵士の姿が遠ざかるのを見届けてから、ようやく息を吐いた。
箱の中では、薫が身体を固くしていた。
揺れた瞬間、身体が木箱の内側にぶつかった。
痛みよりも、見つかるかもしれないという恐怖のほうが大きかった。
外で剛が兵士と話している間、薫は声を出さないように唇を結び、じっと耐えていた。
足音が遠ざかったあと、ようやく少しだけ力を抜いた。
「……大丈夫か、薫」
剛が小声で尋ねる。
薫は、無事だと伝える合図を返した。
剛は安堵したものの、眉間のしわを消すことはできなかった。
「よし。もう少しだけ頑張ってくれ」
薫は、もう一度うなずいた。
*
やがて、剛は目的の区画に近い場所まで台車を進めた。
ここまで来ると、周囲の空気も少し違っていた。
出撃準備に関わる兵士たちが、必要な確認を行っている。
訓練用の回天が保管されている場所も、この先にある。
しかし、剛はまだ台車を進めなかった。
今、無理に動けば、かえって目立つ可能性があった。
剛は周囲を確認し、台車を邪魔にならない場所で止めた。
「……薫、着いたぞ」
箱の中の薫は、その言葉を聞いて、目を見開いた。
着いた。
とうとう、ここまで来た。
けれど、まださとるに会えたわけではない。
そのことを理解した瞬間、胸の中に安堵と不安が同時に広がった。
「……さとるは?」
薫は、箱の中から小さな声で尋ねた。
剛は、少しだけ言葉に迷った。
「まだだ。さとるは、出撃準備をしている。今、ここへ来られるかどうかも、まだ分からない」
薫は、静かにうなずいた。
会いたい。
今すぐ会いたい。
けれど、さとるがまだここにいないことを知り、無理に急がせるわけにはいかないと理解した。
剛は、箱のそばにしゃがんだ。
「ここから先は、俺が様子を見ながら動く。勝手に箱から出ないでくれ。見つかったら、今までのことが全部無駄になるかもしれない」
「……うん」
「それと、身体は大丈夫か?」
薫は少し迷ったあと、正直に答えた。
「……少し、苦しい。でも、大丈夫」
剛は、その言葉を聞いて、心配そうに箱を見つめた。
本当に大丈夫なはずがなかった。
長い時間、狭い箱の中で身を縮めていたのだ。
疲れていないはずがない。
怖くないはずもない。
それでも薫は、ここまで来た。
さとるに会いたいという気持ちだけで。
剛は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……無理はするな。さとるに会うことも大事だけど、お前自身のことも大事なんだ」
薫は、目を閉じた。
その言葉が、胸にしみた。
「ありがとう、剛」
小さな声だった。
剛は、照れくさそうに視線をそらした。
「礼なんかいらない。俺は、二人が自分の気持ちをちゃんと伝えられるようにしたいだけだ」
*
しばらくして、剛は再び立ち上がった。
まだ、安心はできない。
この場所に長くとどまるわけにもいかない。
さとるが来るまで、薫をどこで待たせるのがよいのか。
誰にも見つからず、彼女の身体にも負担をかけないようにするにはどうすればいいのか。
剛は考え続けていた。
そのとき、遠くから号令が聞こえてきた。
出撃準備に関する指示らしかった。
剛の表情が険しくなった。
時間は、確実に過ぎている。
さとるも、いずれ自分の持ち場を離れられなくなるかもしれない。
「……急がないとな」
剛は、静かにつぶやいた。
箱の中の薫は、その言葉を聞いて、胸の前で手を握りしめた。
さとるに会いたい。
けれど、焦って剛を危険にさらしたくもなかった。
「剛……」
「ん?」
「私、ここで待つよ。さとるが来るまで」
剛は、薫を見つめた。
「本当にいいのか?」
「うん。ここまで連れてきてくれたんだもの。あとは、さとるが来てくれるのを待ちたい」
薫の声には、疲れがにじんでいた。
それでも、その目には強い意志があった。
剛は、ゆっくりとうなずいた。
「分かった。できるだけ早く、さとると連絡を取る」
「ありがとう」
剛は、箱のそばを離れる前に、もう一度だけ薫に声をかけた。
「必ず戻る。だから、それまで無理をするな」
薫は、小さくうなずいた。
剛は周囲を確認してから、その場を離れた。
一人残された薫は、箱の中で静かに目を閉じた。
さとるは、まだここにいない。
再会できたわけではない。
それでも、ここまで来ることができた。
長い距離を越えて、危険を乗り越えて、ようやく彼がいる場所の近くまでたどり着いたのだ。
薫は、涙をぬぐった。
「……さとる。待っているからね」
その声は、誰にも届かなかった。
けれど、薫の願いは確かにそこにあった。
どうか、会えますように。
どうか、もう一度、あなたの顔を見られますように。
そして、二人で生きる道を、まだ諦めずに探せますように。
船の外では、海が静かに揺れていた。
その海の向こうには、戦争が待っている。
出撃の時刻も、刻一刻と近づいていた。
それでも薫は、さとるが来ることを信じていた。
まだ再会は果たされていない。
ただ、彼女は先に、さとるのもとへ続く場所にたどり着いたのだった。




