第七十九話・ 箱の中に迫る危険
第七十九話・箱の中に迫る危険
剛は、台車の取っ手を握り直した。
木箱の中には、薫がいる。
その事実を知っているのは、自分と料理係、そして、再会を待つさとるだけだった。
一歩間違えれば、すべてが終わる。
船内では、出撃準備が進んでいた。兵たちは忙しそうに行き交い、物資を運ぶ者、上官の指示を受ける者、それぞれが自分の任務に追われている。
そんな中、剛は荷物を運ぶ兵の一人として振る舞い、台車を押していた。
だが、平静を装うほど、周囲の小さな変化が気になった。
誰かの足音が近づくだけで、背中がこわばる。
通路の先で人影が動けば、思わず台車を止めたくなる。
それでも、急に立ち止まれば不自然だった。剛は周囲の流れを見ながら、平静を装って歩き続けた。
そのとき、船体が大きく揺れた。
「……っ」
台車の上の箱が、わずかにずれた。
剛は反射的に取っ手を強く握り、箱が傾かないように支えた。木が台車に当たって、鈍い音がした。
剛の心臓が跳ね上がった。
通路の向こうにいた兵士が、こちらを振り返った。
「今の音は何だ?」
「荷物が揺れただけです」
剛は、できるだけ自然な声で答えた。
兵士は疑わしそうに台車を見た。
剛は、視線をそらさなかった。けれど、手のひらには汗がにじんでいた。
箱の中で、薫は身体を固くしていた。
船の揺れが伝わるたび、狭い箱の内側に身体が触れる。思うように身を動かせず、息を整えようとしても、胸の奥が緊張で締めつけられた。
外で兵士の声が聞こえた瞬間、薫は息を止めた。
見つかったのだろうか。
剛はどうなったのだろう。
ここで箱を開けられたら、さとるに会うことさえできなくなる。
薫は、声を出さないよう唇を強く結んだ。
自分の鼓動が、箱の外にまで聞こえてしまいそうだった。
「……気をつけろよ。出撃前で、みんな神経質になっているんだ」
兵士はそう言い残し、ようやく通路の向こうへ歩いていった。
剛は、すぐには動かなかった。
足音が十分に遠ざかったことを確かめてから、胸の中にたまっていた息をゆっくり吐いた。
「……危なかった」
小さくつぶやいた声は、誰にも届かなかった。
剛は箱に目を向けた。
「薫、大丈夫か」
返事の代わりに、箱の内側からかすかな合図が返ってきた。
無事だ。
そのことに安堵した一方で、剛の胸には重いものが残った。
この先も、同じようなことが起きるかもしれない。
自分が一瞬でも判断を誤れば、薫を守れない。
そして、ここまで来たとしても、二人が本当に生きて帰れる保証はどこにもなかった。
剛は再び台車を押し始めた。
しばらく進むと、今度は床の継ぎ目に車輪が引っかかった。
ガタン、と音が響く。
剛はすぐに台車を止めた。
箱の中で薫の身体が揺れ、彼女は思わず手をついた。狭い空間で姿勢を保つだけでも苦しく、額には汗がにじんでいた。
息苦しさと恐怖で、頭の中がぼんやりする。
それでも、薫は声を上げなかった。
――さとるに会いたい。
その思いだけを、何度も心の中で繰り返した。
外では、剛が周囲の様子をうかがっていた。
幸い、誰も近づいてこなかった。
しかし、台車を押すたびに車輪の音が響き、船体が揺れるたびに荷物が動く。どれほど気をつけても、完全に音を消すことはできない。
剛は、箱の中にいる薫の苦しさを想像した。
本当なら、今すぐ箱を開けて外の空気を吸わせてやりたい。
だが、ここで人目に触れれば、薫の正体が知られてしまうかもしれない。
剛は、唇をかみしめた。
「もう少しだ……」
それは薫に向けた言葉であると同時に、自分自身を奮い立たせる言葉でもあった。
やがて、通路の先から複数の足音が聞こえてきた。
剛は足を止めた。
数人の兵士が、こちらへ向かってくる。
そのうちの一人が、台車を見て声をかけた。
「おい。どこへ運ぶ荷物だ?」
剛は、胸の鼓動を押さえながら答えた。
「指定された保管区画へ運んでいます」
「こんな時刻にか?」
「はい。出撃準備に伴う物資の移動です」
兵士は剛の顔を見たあと、箱へと視線を移した。
「中身は何だ?」
剛の喉が、ひどく乾いた。
一瞬、言葉が出てこなかった。
ほんのわずかな沈黙だった。
だが剛には、その時間がひどく長く感じられた。
箱の中の薫も、外の会話を聞いていた。
中身を尋ねられた。
このままでは、箱を開けられるかもしれない。
薫は震える指を握りしめた。
怖かった。
さとるに会いたいという願いが、今、自分だけでなく剛の身まで危険にさらしている。
それでも、ここで諦めることはできなかった。
「……物資です」
剛は、ようやく答えた。
「詳しい内容は、保管担当に確認してください。自分は運搬を命じられただけです」
兵士は納得していない様子だった。
「待て。確認する」
そう言って、兵士の一人がその場に残り、別の兵士が奥へ向かった。
剛は、動けなかった。
台車の取っ手を握る手に、力が入る。
ここで調べられれば、薫が見つかる。
自分が命令に背いていることも明らかになる。
さとるの願いも、薫の覚悟も、ここで断ち切られてしまうかもしれない。
箱の中では、薫が必死に息を整えていた。
狭さと緊張で胸が苦しい。
外の兵士の足が、すぐ近くにある。
あと少しでさとるに会えるかもしれないのに、その一歩がひどく遠かった。
剛は、箱を見つめることさえできなかった。
ただ、心の中で願った。
――頼む。今だけは、通してくれ。
やがて、確認に向かった兵士が戻ってきた。
剛は息を止めた。
「……行っていい。ただし、急げ。ここは出撃準備で人が増えている。邪魔になるなよ」
剛は深く頭を下げた。
「分かりました」
兵士たちが離れていく。
剛は、しばらくその場を動けなかった。
全身から力が抜けそうだった。
それでも、立ち止まっている時間はない。
さとるが待っている。
薫も、必死に耐えている。
剛は台車の取っ手を握り直し、再び歩き始めた。
今度は、車輪の音さえ耳に痛かった。
ようやく通路の角にたどり着いたとき、剛は箱に向かって静かに告げた。
「薫……もう少しだ。さとるが待っている」
箱の中から、小さな合図が返ってきた。
薫は、苦しさと恐怖に耐えながら、その言葉を胸に刻んだ。
もう少し。
もう少しで、会える。
剛の目の前には、訓練用の回天が保管されている区画へ続く通路があった。
そして、その先には、薫を待つさとるがいる。
けれど、たどり着いたからといって、すべてが解決するわけではない。
訓練用の回天を出撃に使う許可は、まだ下りていない。
二人がそこへ乗り込むことができるのか。
その先に、生きて帰る道があるのか。
何一つ、確かな答えはなかった。
それでも剛は、台車を押し続けた。
戦争が決めた運命に、せめて一度だけでも抗うために。
箱の中の薫は、目を閉じ、さとるの顔を思い浮かべていた。
――お願い。どうか、間に合って。
彼女の願いを乗せた台車は、静かに、しかし確実に、最後の通路へと進んでいった。




