第七十八話 動かない身体、迫りくる命令
第七十八話 動かない身体、迫りくる命令
最後の晩餐が終わった。
豪華な料理が並んでいた食卓は、片づけられた皿と空になった椀だけを残し、少しずつ元の姿へ戻っていった。
先ほどまで聞こえていた仲間たちの会話も、もうほとんど聞こえない。
兵たちは席を立ち、それぞれの持ち場へ戻っていった。
故郷へ帰ったら何をしたいか。
家族に何を伝えたいか。
好きな人と、どんな未来を過ごしたいか。
ほんの少し前まで、そんな話をしていた若者たちだった。
けれど、食事が終われば、再び軍人としての時間が始まる。
そして、その時間は、誰の都合も待ってはくれなかった。
「出撃予定者は、ただちに所定の場所へ集合!」
鋭い号令が船内に響き渡った。
「これより出撃準備に入る! 各自、装備を確認し、命令された手順に従え! 準備が整い次第、指定された場所で待機せよ!」
その声を聞いた瞬間、さとるの身体が硬直した。
とうとう、この時が来た。
出撃準備命令。
それは、ただ荷物をまとめるという意味ではなかった。
これから自分が向かう場所を、現実のものとして受け入れなければならないということだった。
さとるは、立ち上がろうとした。
しかし、膝に力が入らなかった。
「……っ」
足元が、急に頼りなくなった。
周囲の兵たちは、すでに動き始めている。
装備を手に取り、確認を行い、互いに声を掛け合っていた。
その中で、さとるだけが取り残されたように感じられた。
――動け。
心の中で、自分に命じる。
――早く動くんだ、さとる。
頭では分かっていた。
ここで立ち止まっていれば、上官に見つかる。
命令に従わなければならない。
仲間たちも、同じように準備をしている。
自分だけが動かないわけにはいかない。
それなのに、身体が言うことを聞かなかった。
指先が震えている。
手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。
喉が乾き、息が浅くなる。
胸の奥では、心臓が異常なほど激しく打っていた。
さとるは、無理に一歩を踏み出そうとした。
けれど、その足は、床に張りついたように動かなかった。
「……怖い」
思わず、声が漏れた。
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「俺は……怖いんだ」
自分がこれから向かう海。
帰還できる保証のない任務。
そして、もう二度と薫に会えなくなるかもしれないという現実。
それらが一度に押し寄せ、さとるの心を押しつぶそうとしていた。
訓練を重ねてきた。
厳しい命令にも従ってきた。
何度も、恐怖を押し殺してきた。
けれど、どれだけ訓練を受けても、死ぬことへの恐怖がなくなるわけではなかった。
むしろ、出撃が現実に近づくほど、その恐怖は大きくなっていた。
さとるは、震える手を強く握りしめた。
――薫。
心の中で、恋人の名前を呼ぶ。
――会いたい。
――まだ、君と生きていたい。
あの高台で、二人で海を見た日。
薫が涙を浮かべながら、自分の手を握ってくれた日。
戦争が終わったら、一緒に暮らそうと約束した夜。
その記憶が浮かぶたび、さとるは生きたいという気持ちを強くした。
しかし同時に、失うことへの恐怖も膨らんでいった。
自分がここで出撃すれば、薫と再び会える保証はない。
それどころか、最後の言葉さえ交わせないまま、別れることになるかもしれない。
さとるは、唇を噛んだ。
「……嫌だ」
その言葉は、誰にも聞かれないまま、震える息と一緒に消えた。
「死にたくない……」
*
「おい! 何をしている!」
突然、怒声が飛んできた。
さとるは、びくりと肩を震わせた。
振り返ると、上官が険しい表情でこちらを見ていた。
「出撃準備命令が聞こえなかったのか!」
「……っ!」
さとるは、すぐに返事をしようとした。
しかし、喉が締めつけられ、声が出なかった。
上官は、さらに近づいてきた。
「何をぼんやり突っ立っている! ほかの者は全員、準備を始めているぞ!」
「はっ……!」
ようやく返事をしたものの、その声はかすれていた。
「ならば、さっさと動け!」
上官の怒鳴り声が、船内に響いた。
「何のために訓練を受けてきた! 今さら怖じ気づいたのか! 任務を前にして、立ち尽くすつもりか!」
周囲の兵たちが、一瞬こちらを見た。
さとるは、その視線に耐えられなかった。
恥ずかしさと恐怖で、顔から血の気が引いていく。
「申し訳ありません!」
叫ぶように返事をした。
「すぐに準備します!」
「返事だけは立派だな! 行動で示せ!」
「はっ!」
上官は、最後にもう一度さとるを睨みつけると、ほかの兵たちのところへ向かっていった。
怒鳴り声が遠ざかっても、さとるの身体の震えは止まらなかった。
むしろ、叱責されたことで、頭の中がさらに混乱していた。
――動かなければ。
――早く準備しなければ。
そう思えば思うほど、手足がこわばっていく。
さとるは、壁に手をついた。
「……くそっ」
自分の弱さが、情けなかった。
訓練では、何度も厳しい言葉を浴びせられてきた。
苦しくても耐えた。
疲れていても動いた。
仲間たちと一緒に、ここまでやってきた。
なのに、今はどうだ。
ほんの数歩、歩くだけのことができない。
目の前にある装備を手に取ることさえ、難しく感じられる。
さとるは、震える手を見つめた。
指先が、自分の意思とは関係なく小刻みに揺れている。
「……俺は、軍人なのに」
そうつぶやいた瞬間、胸の奥が痛んだ。
軍人なら、恐怖を感じてはいけないのだろうか。
命令を受けたら、何も考えずに従わなければならないのだろうか。
死ぬかもしれないと分かっていても、平然としていなければならないのだろうか。
さとるには、分からなかった。
ただ、怖かった。
怖くて、怖くて、たまらなかった。
そして何より、自分が死ぬかもしれないことよりも、薫を二度と抱きしめられなくなることが怖かった。
「さとる……」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り返ると、山本一郎が立っていた。
山本は、さとるの顔を見るなり、何かを察したようだった。
「大丈夫か?」
さとるは、慌てて表情を整えようとした。
「……大丈夫だ」
しかし、声が震えていた。
山本は、何も言わずにさとるの手を見た。
その指先が震えていることに、気づいていた。
「無理して、平気なふりをしなくてもいい」
「……」
「俺だって怖い」
さとるは、顔を上げた。
山本は、周囲に聞こえないよう声を落としていた。
「さっき、最後の食事をしていたときは、帰れる気がしていた。みんなで帰って、もう一度集まろうって話もしただろう」
「ああ……」
「でも、今は……正直、怖くて仕方がない」
山本は、自分の手を握りしめた。
「命令が出ると、急に現実になるんだな。さっきまで、まだ先のことだと思っていたのに」
その言葉を聞いた瞬間、さとるの胸にこらえていた感情が込み上げてきた。
「……山本」
「何だ?」
「俺は、死にたくない」
口にした途端、目の奥が熱くなった。
「俺は、まだ二十歳なんだ。まだやりたいことがある。好きな人がいるんだ。薫と一緒に生きたいんだよ……」
声が、途中で詰まった。
「戦争が終わったら、二人で暮らすって約束したんだ。朝起きて、飯を食べて、くだらないことで笑って……そんな普通の生活がしたいだけなんだ」
山本は、黙って聞いていた。
さとるは、もう止められなかった。
「なのに、どうして俺は、こんなところにいるんだろう。どうして、死ぬかもしれないと分かっているのに、出撃しなきゃならないんだろう……」
最後の言葉は、ほとんど泣き声になっていた。
山本は、さとるの肩を強くつかんだ。
「さとる。お前がそう思うのは、弱いからじゃない」
「……え?」
「生きたいんだろう。大切な人に会いたいんだろう。それは、恥ずかしいことじゃない」
山本の目も、わずかに赤くなっていた。
「俺だって帰りたい。家族に会いたい。もう一度、故郷の空を見たい。さっきみんなで話したことを、本当にしたいんだ」
「……ああ」
「だから、俺たちは、怖いままなんだと思う。守りたいものがあるから、失うことが怖いんだ」
さとるは、唇を震わせながら、うなずいた。
山本は、さとるの肩から手を離さなかった。
「今すぐ、怖くなくなれなんて言わない。俺にも、そんなことはできない。ただ……一人で抱え込むな」
その言葉に、さとるは深くうつむいた。
一人で抱え込むな。
剛にも、同じようなことを言われた。
薫にも、一人で決めないでほしいと言われた。
自分は、ずっと一人で恐怖に耐えようとしていたのかもしれない。
誰にも弱さを見せてはいけないと思っていた。
けれど、仲間たちも同じように怖がっていた。
そのことに、今さらながら気づいた。
「……ありがとう、山本」
さとるは、かすれた声で答えた。
山本は、静かにうなずいた。
「さあ、準備をしよう。怖くても、今できることを一つずつやるしかない」
「……ああ」
さとるは、深く息を吸った。
まだ、恐怖は消えていない。
手も震えている。
けれど、少しだけ、身体に力が戻ってきた。
*
さとるは、装備を置いてある場所へ向かった。
一歩。
また一歩。
自分の足で、ゆっくりと進んだ。
目の前には、出撃に必要な装備が並んでいる。
それを確認し、準備を整えなければならない。
さとるは、手を伸ばした。
しかし、装備に触れる直前、再び指先が震えた。
その瞬間、頭の中に、海の光景が浮かんだ。
暗い海。
遠ざかっていく母艦。
自分を乗せた回天。
そして、もう戻れないかもしれないという現実。
「……っ!」
さとるは、思わず手を引っ込めた。
息が詰まった。
胸が苦しい。
視界が揺れる。
「嫌だ……」
小さくつぶやいた。
「まだ、行きたくない……」
周囲では、兵たちが準備を進めている。
誰もが、自分の装備を確かめ、必要な作業を続けていた。
さとるだけが、また立ち止まっていた。
そこへ、再び上官の声が飛んできた。
「さとる! まだ準備ができていないのか!」
さとるは、肩を震わせた。
「申し訳ありません!」
「何度言わせるつもりだ! 命令に従え! 今は迷っている時間などない!」
「はっ!」
「自分の任務を忘れるな! すぐに取りかかれ!」
上官の声は、容赦なくさとるを追い詰めた。
さとるは、歯を食いしばった。
「……はい!」
今度こそ、手を伸ばした。
震える指で装備をつかむ。
うまく力が入らず、一度、手から滑り落ちそうになった。
さとるは慌てて握り直した。
――動け。
――今できることを、一つずつ。
山本の言葉を思い出す。
怖くてもいい。
震えていてもいい。
恐怖を感じている自分を、無理に消そうとしなくてもいい。
さとるは、息を整えながら、目の前の準備に取りかかった。
確認する。
もう一度確認する。
必要なものをそろえる。
その一つひとつの動作が、ひどく重かった。
それでも、さとるは手を止めなかった。
準備を続けながら、さとるは何度も薫のことを思い出していた。
今ごろ、薫はどうしているだろう。
剛は、約束どおり薫を連れていくために動いてくれているのだろうか。
二人は、訓練用の回天が保管されている場所へ向かえているのだろうか。
さとるは、周囲に気づかれないよう、何度も通路のほうへ視線を向けた。
けれど、薫の姿は見えなかった。
当然だった。
薫は、正体を隠して船内を移動している。
人目を避けるために、剛が慎重に動いているはずだった。
それでも、待つ時間は長く感じられた。
「……剛、頼む」
さとるは、心の中で祈った。
「薫を、無事に連れてきてくれ」
そして、薫にも願った。
「薫……無理はしないでくれ。必ず会いたい。でも、君に何かあったら、俺は……」
そこまで考えて、さとるは言葉を止めた。
薫を守りたい。
一緒に生きたい。
けれど、彼女を危険にさらしてしまうのではないかという恐怖もあった。
自分の願いが、薫を追い詰めているのではないか。
そんな思いが、何度も胸をよぎる。
それでも、薫は自分の意思でここまで来た。
ただ、さとるの言葉に従っているわけではない。
彼女自身が、生きる未来を諦めたくないと願っているのだ。
さとるは、目を閉じた。
――一人で決めない。
薫と約束した言葉を、心の中で繰り返す。
――必ず、二人で考える。
自分だけで彼女の運命を決めてはいけない。
彼女の気持ちを聞き、自分の気持ちも伝え、二人で選ばなければならない。
さとるは、再び目を開けた。
そして、震えの残る手で、最後の確認を続けた。
*
やがて、上官が準備状況を確認しにやってきた。
兵たちは次々と報告を行い、さとるも姿勢を正した。
「準備状況を報告しろ」
「はっ。現在、確認を進めております!」
上官は、さとるの顔をじっと見た。
「まだ震えているのか」
さとるは、答えられなかった。
上官は、厳しい口調で言った。
「恐怖を抱くこと自体を責めているのではない。だが、命令された準備を怠ることは許されん。自分の役目を果たせ」
その言葉は、先ほどの怒鳴り声とは少し違っていた。
それでも、さとるの胸には重く響いた。
「……はっ」
「準備を続けろ。次の指示を待て」
「はっ!」
上官が去っていくと、さとるは長く息を吐いた。
恐怖を抱くこと自体を責めているのではない。
その言葉が、頭の中に残っていた。
けれど、恐怖を抱えたまま、どこまで動けるのだろう。
この先、出撃の時が来たら。
本当に回天に乗り込むことになったら。
自分は、そのときも動けるのだろうか。
さとるは、考えるだけで胸が苦しくなった。
しかし、その一方で、別の思いもあった。
――まだ、すべてが決まったわけじゃない。
剛が薫を連れてきてくれる。
訓練用の回天がある場所で、二人で考える機会が残されている。
許可は下りていない。
何ができるのかも分からない。
それでも、まだ道が完全に閉ざされたわけではなかった。
さとるは、そのわずかな可能性を胸に抱いた。
*
準備を続ける兵たちの中で、さとるはふと、最後の晩餐で交わした約束を思い出した。
「みんなで帰ろう」
自分がそう言ったとき、仲間たちはうなずいてくれた。
山本も、田中も、中村も、佐々木も、高橋も。
彼らは、それぞれ帰りたい場所がある。
守りたい人がいる。
生きて、もう一度会いたい人がいる。
自分だけではない。
ここにいる誰もが、普通の未来を望んでいるのだ。
さとるは、仲間たちの姿を見つめた。
誰もが恐怖を抱えながら、それぞれの準備を進めている。
さとるは、自分の震える手を見つめたあと、ゆっくりと握りしめた。
「……俺も、帰りたい」
その気持ちは、変わらなかった。
国のために任務を果たせという命令。
軍人としての責任。
訓練を重ねてきた者としての誇り。
それらがあることを、さとるは否定しなかった。
けれど、それだけで、自分の命や薫への想いを消し去ることはできなかった。
さとるは、もう一度だけ、心の中で薫の名前を呼んだ。
「薫……待っているから」
今度は、さっきよりも少しだけ、はっきりとした声だった。
出撃準備命令は、すでに下されている。
船内の兵たちは、刻一刻と迫る時刻に向けて動いていた。
さとるの恐怖も、震えも、まだ消えていない。
上官に怒鳴られても、気持ちを切り替えることは簡単ではなかった。
それでも、さとるは準備を続けた。
ただ命令に従うためだけではない。
薫と再び会うために。
二人で生きる未来を、最後まで諦めないために。
そして、自分自身が本当に望むものを、見失わないために。
さとるは、震える息を整えながら、次の指示を待った。
その胸の奥では、恐怖と希望が、今も激しくぶつかり合っていた。




