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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第七十七話 箱の中に託した願い

第七十七話 箱の中に託した願い


食事が進むにつれ、兵たちの間にも、少しずつ会話が戻ってきた。


故郷の話をする者がいた。


家族の話をする者もいた。


いつか行ってみたかった場所や、食べてみたかった料理の話をする者もいた。


それは、まるで戦争が始まる前の若者たちの集まりのようだった。


誰かが冗談を言うと、何人かが小さく笑った。


その笑い声は長く続かなかったが、確かにそこにはあった。


さとるも、仲間たちの話に耳を傾けた。


「さとるは、帰ったら何がしたい?」


突然、田中に尋ねられた。


さとるは、すぐには答えられなかった。


帰ったら。


その言葉を聞くだけで、胸が熱くなった。


「……俺は」


さとるは、ゆっくりと口を開いた。


「好きな人と、一緒に暮らしたい」


田中が、目を丸くした。


「好きな人?」


「……ああ」


さとるは少し照れながらも、視線をそらさなかった。


「薫っていう人なんだ。戦争が終わったら、一緒に暮らそうって約束した」


その場にいた仲間たちの表情が、少しだけ和らいだ。


「そうか」


山本が笑った。


「いいじゃないか。帰ったら、約束を守らないとな」


「そうだな」


田中も、うなずいた。


「俺も、帰ったら家族に会いたい。何も言わずに家に帰って、母さんを驚かせてやるんだ」


「俺は酒だな」


高橋が言った。


「帰ったら、仲間と腹いっぱい飲む。今度こそ、最後なんて考えずにな」


中村も、少しだけ笑った。


「俺は、何日も寝ていたい。朝になっても起きなくていいくらい、ゆっくり眠りたいよ」


「それなら俺もだ」


佐々木が、久しぶりに口を開いた。


「目が覚めたら、戦争が終わっていたらいいのにな」


その言葉に、誰もすぐには答えなかった。


戦争が終われば。


ただ、それだけでよかった。


もう誰も死ななくていい。


もう誰も、大切な人を失わなくていい。


もう誰も、最後の食事などと呼ばれるものを囲まなくていい。


さとるは、仲間たちの顔を一人ずつ見つめた。


この人たちにも、帰りたい場所がある。


待っている人がいる。


生きて迎えたい明日がある。


自分と同じだった。


「みんなで、帰ろう」


さとるは、気づけばそう口にしていた。


仲間たちが、一斉にさとるを見た。


「……帰ろう。任務が終わったら、みんなで帰って、もう一度集まろう」


さとるの声は震えていた。


それでも、言葉を止めなかった。


「そのときは、今日みたいな食事じゃなくていい。普通の飯を食べて、酒を飲んで、好きなだけ笑おう。誰も、最後だなんて言わない場所で」


一瞬、静寂が訪れた。


やがて、山本がゆっくりとうなずいた。


「そうだな。俺たちは、帰るために生きよう」


田中も、中村も、佐々木も、高橋も、それぞれにうなずいた。


その約束が、どこまで現実になるのかは分からなかった。


けれど、その瞬間だけは、誰もが同じ未来を見ようとしていた。


     *


食事が終わりに近づいた頃、上官が再び兵たちの前に立った。


兵たちは箸を置き、静かに姿勢を正した。


上官は、しばらく全員の顔を見渡していた。


その表情には、厳しさだけではなく、複雑な感情が浮かんでいるようにも見えた。


やがて、上官は口を開いた。


「諸君。これから君たちには、重要な任務を担ってもらう」


兵たちは、黙って耳を傾けた。


「君たちが向かう海は、決して容易な場所ではない。敵の艦船が展開する海域であり、任務の遂行には大きな危険が伴う」


上官の声が、静かな空間に響いた。


「しかし、君たちには、これまで積み重ねてきた訓練がある。仲間とともに学び、厳しい状況を乗り越えてきた経験がある」


上官は、ひと呼吸置いた。


「君たちは、国のために立派に任務を果たしてくれ」


その言葉に、兵たちは一斉に背筋を伸ばした。


「期待している。諸君の健闘を祈る」


「はっ!」


兵たちの声が重なった。


その声は、船内に強く響いた。


さとるも、ほかの兵たちと同じように返事をした。


けれど、胸の中では、いくつもの感情が渦巻いていた。


国のために任務を果たす。


その言葉の重さは分かっている。


自分たちの任務が、戦況を変えるためのものだということも理解していた。


それでも、さとるの心から消えない願いがあった。


生きたい。


薫と生きたい。


その願いは、国を思う気持ちと同じ場所にあるのか、それとも違う場所にあるのか。


さとるには、もう簡単には分からなかった。


ただ一つ、確かなことがあった。


自分は、死ぬことを望んでいるわけではない。


命令を受けたからといって、恐怖が消えたわけでもない。


立派な言葉を聞いたからといって、薫への想いを捨てられるわけでもなかった。


さとるは、そっと目を伏せた。


――上官は、俺たちに任務を果たせと言った。


――けれど、俺は帰りたい。


その気持ちを、誰かに責められたとしても。


さとるは、薫と交わした約束を忘れたくなかった。

上官の話が終わると、兵たちは再び静かに席を立ち始めた。


最後の食事。


そう呼ばれた時間は、終わろうとしていた。


山本は、さとるのそばへやってきた。


「さとる」


「……何だ?」


「さっきの話、覚えておけよ」


「さっきの話?」


「みんなで帰ろうって話だ」


山本は、まっすぐさとるを見つめた。


「俺は、あの約束を忘れない。帰って、またみんなで集まる。そう決めたんだ」


さとるは、ゆっくりとうなずいた。


「ああ。俺も忘れない」


田中も近づいてきた。


「薫さんとの約束も、忘れるなよ」


「……ああ」


「帰ったら、ちゃんと幸せになれ。俺たちの分まで、なんて言うつもりはない。ただ、お前自身が幸せになってほしいんだ」


さとるは、思わず言葉を失った。


田中は、いつものように笑おうとした。


「俺だって、自分で帰って幸せになるつもりだからな」


「そうだな」


さとるは、かすかに笑った。


「お前も帰ってこい。みんなで、もう一度集まろう」


「もちろんだ」


二人は、強く握手を交わした。


その手の温もりを、さとるは忘れないようにした。


いつか、もう一度この手を握れるように。


いつか、今日のことを笑って話せるように。


そして、二人とも帰れるように。


     *


集合場所を離れたさとるは、人目の少ない通路で立ち止まった。


窓の向こうには、沖縄の海が広がっていた。


青い海。


遠くまで続く水平線。


その向こうには、敵の艦船がいるのかもしれない。


やがて、自分たちはその海へ向かう。


さとるは、窓枠にそっと手を置いた。


薫は今、どうしているだろう。


剛は、迎えに行く準備を進めているだろうか。


二人は、自分のもとへ来てくれるだろうか。


さとるは、胸の中で何度も名前を呼んだ。


薫。


薫。


もう一度、会いたい。


今度こそ、手を離したくない。


けれど、どれだけ願っても、時間は止まってくれなかった。


残された時間は、確実に減っている。


さとるは、窓の外の海を見つめたまま、静かに息を吐いた。


「……俺は、まだ生きたい」


その声には、恐怖も、願いも、そして小さな決意も込められていた。


国のために任務を果たせと告げられた若者たち。


豪華な食事を前に、家族や故郷を思い出した若者たち。


酒を飲みながら、帰ったあとの未来を夢見た若者たち。


彼らは皆、同じ時代に生きた、普通の若者だった。


その中の一人であるさとるもまた、普通の未来を望んでいた。


薫と暮らし、朝を迎え、食卓を囲み、時には喧嘩をして、それでも隣にいる彼女と笑い合う。


そんな日々を、手に入れたかった。


その願いが叶うかどうかは、まだ分からない。


それでも、さとるは諦めたくなかった。


剛が薫を連れてくる。


自分は、訓練用の回天がある場所で待つ。


そこから先に何が起きるのかは分からない。


許可が下りる保証もない。


二人が安全に帰れる道が見つかる保証もない。


それでも、最後まで探す。


薫と生きるために。


さとるは、窓から離れた。


そして、もう一度、心の中で約束した。


――薫。俺は、ここで待っている。


――二人で生きる未来を、まだ諦めない。


その願いを胸に、さとるは静かに歩き出した。


出撃の時は、刻一刻と近づいていた。

船内では、出撃を控えた兵たちの最後の晩餐が続いていた。


豪華な食事が並ぶ部屋からは、ときおり小さな笑い声や、仲間同士で言葉を交わす声が聞こえてくる。故郷の話をする者、家族の思い出を語る者、帰還したあとの約束を交わす者。それぞれが、胸の内にある不安を隠しながら、残された時間を過ごしていた。


さとるも、仲間たちと同じ場所にいた。


目の前には、まだ食べきれていない料理が残っている。


しかし、さとるの心は、そこにはなかった。


剛は、薫を連れてくると言った。


自分は訓練用の回天が保管されている場所で待つ。


そう約束したものの、薫が本当に無事にたどり着けるのか、まだ分からなかった。


出撃までの時間は、刻一刻と減っている。


さとるは仲間たちの話に相づちを打ちながらも、何度も時計に目を向けてしまった。


「さとる、どうした?」


隣に座っていた山本一郎が、心配そうに尋ねた。


「さっきから、落ち着かないようだが」


「……少し、考え事をしていたんだ」


「好きな人のことか?」


さとるは、思わず顔を上げた。


山本は、ほんの少しだけ笑った。


「さっき話していただろう。戦争が終わったら、一緒に暮らしたい人がいるって」


「ああ……」


「会いたいんだろうな」


その言葉に、さとるは返事ができなかった。


山本は、それ以上深く尋ねなかった。


ただ、目の前の飯椀を手に取ってから、静かに言った。


「大切な人がいるっていうのは、いいことだと思う。帰りたい理由があるんだからな」


さとるは、うつむいた。


「……俺は、帰りたいんだ」


「そうだろうな」


「薫と一緒に生きたい。戦争が終わったら、二人で普通に暮らしたいんだ」


「なら、その気持ちを忘れるな」


山本は、さとるの肩を軽くたたいた。


「俺たちも、帰るつもりでいる。まだ何も終わっちゃいないんだからな」


さとるは、山本の顔を見つめ、ゆっくりとうなずいた。


「……ああ。みんなで帰ろう」


そう答えながらも、さとるの胸の奥には、言葉にできない不安が残っていた。


自分は、これから何をしようとしているのだろう。


命令に従って出撃すれば、薫とは二度と会えないかもしれない。


しかし、薫を連れて訓練用の回天へ向かったとしても、二人が生きて帰れる保証はない。


それでも、何もしないまま別れることだけは、どうしても受け入れられなかった。


さとるは、そっと目を閉じた。


――薫、どうか無事でいてくれ。


その願いを胸に、彼は再び仲間たちのいる食卓へと目を向けた。


その頃、船内の別の場所では、剛が人目を避けながら動いていた。


薫を訓練用の回天がある場所まで連れていく。


それが、剛にできると約束したことだった。


だが、薫は男の手伝いとして船に乗っている。周囲には兵も乗組員もいる。正体を知られれば、計画そのものが止められてしまうかもしれない。


まして、出撃を前に船内の警戒は強まっていた。


誰かに見つかれば、薫だけでなく、さとるや剛まで厳しく問いただされる可能性がある。


剛は、その危険を十分に理解していた。


だからこそ、薫を人目につかない形で移動させる必要があった。


剛が向かったのは、船内の荷物室だった。


そこには、食料や作業用品、さまざまな備品が保管されていた。壁際には大きな木箱がいくつも積まれ、隅には荷物を運ぶための台車が置かれている。


剛は、まず周囲を見渡した。


近くに人影はない。


彼は台車の車輪を確かめ、動かしたときに大きな音が出ないかを慎重に確認した。


それから、空の木箱を一つ選んだ。


箱は、人が中に入れるほどの大きさがあった。だが、長時間その中にとどまることを考えれば、決して安全なものではない。


剛は箱の蓋を開け、中を確かめた。


「……これしかないか」


小さくつぶやいた剛の表情には、迷いが浮かんでいた。


こんな方法で薫を運ぶことが、本当に正しいのだろうか。


箱の中は狭い。空気が十分に通るかも分からない。船が揺れれば、箱ごと動いてしまう危険もある。


それに、途中で誰かに止められたらどうするのか。


考えれば考えるほど、不安は尽きなかった。


それでも、ほかに人目を避けて薫を連れていく方法を、すぐには思いつけなかった。


剛は箱の中に詰められていた不要な梱包材を取り出し、底に残っていた木片などを片づけた。薫が入ることになれば、少しでも身体を傷つけないようにしなければならない。


さらに、箱の蓋を閉め切らずに済むよう、空気が通る隙間を確保できるか確認した。


「これでも、安心できるわけじゃない……」


剛は、誰にともなく言った。


箱を用意したからといって、薫を安全に運べると決まったわけではない。


自分は、彼女の命を預かることになるのだ。


剛は台車の取っ手を握りしめた。


「さとる。お前は、薫と生きたいんだよな……」


友人の顔が浮かんだ。


訓練のあと、疲れ切った顔で笑っていたさとる。


出撃を告げられたとき、恐怖を隠しきれなかったさとる。


そして、薫の名前を口にするときだけ、ほんの少し表情が変わるさとる。


剛は、その姿を知っていた。


さとるは、死ぬことを望んでいるわけではない。


薫も、ただ一緒に死にたいと願っているわけではない。


二人は、生きたいのだ。


一緒に暮らし、同じ朝を迎え、何でもない日々を過ごしたいのだ。


だからこそ、剛は手を貸そうとしていた。


しかし、助けるということは、何をしてもいいということではない。


危険を見ないふりをして、二人を無理に進ませることもできない。


剛は、箱の蓋をそっと閉めてから、もう一度開けた。


そして、しばらくの間、その箱を見つめていた。


「……頼むから、無事にたどり着いてくれ」


その言葉には、友人への願いと、これから自分が背負う責任が込められていた。


     *


一方、薫もまた、料理人の手伝いを続けながら、剛からの合図を待っていた。


最後の晩餐が行われている間、船内の人々の動きは普段と違っていた。


兵たちが食事のために集まっている一方で、食器を片づける者や、出撃準備に関わる作業をする者もいる。


薫は、目立たないように作業を続けていた。


表向きは、何も変わらない。


声を出さず、指示された仕事をこなし、周囲から不審に思われないようにする。


しかし、心の中では、さとるのことばかり考えていた。


今ごろ、さとるも食事をしているのだろうか。


仲間たちと一緒に、最後の食事を口にしているのだろうか。


その食卓で、さとるは何を思っているのだろう。


薫は、胸の前でそっと手を握った。


「……さとる」


声に出して呼びたい。


あなたに会いたい。


もう一度、顔を見て話したい。


そして、二人で生きる未来を諦めたくない。


その気持ちは、ここへ来るまで一度も変わらなかった。


けれど、今になっても恐怖は消えてくれない。


訓練用の回天が見つかったとしても、それが本当に使えるのか分からない。


許可が下りていないことも知っている。


さとると一緒に行くことが、必ずしも二人の命を救うとは限らない。


それでも、何もせずに彼を見送ることはできなかった。


そのとき、料理人が薫のそばへやってきた。


「薫さん」


薫は、すぐに顔を上げた。


料理人は、周囲を確かめてから、声を落とした。


「剛さんが準備を進めています。荷物室に台車と箱を用意したそうです」


薫の表情が、わずかに強張った。


「……箱、ですか?」


「ええ。人目につかないように運ぶつもりのようです。ただ、箱の中に入るのは危険もあります。狭いですし、空気の通りや揺れの問題もあります。剛さんも、それを心配していました」


薫は、しばらく黙っていた。


箱の中に入って、荷物として運ばれる。


それは、決して楽なことではないだろう。


見つかるかもしれない。


途中で止められるかもしれない。


身体を動かせず、息苦しくなるかもしれない。


それでも、薫はさとるの顔を思い浮かべた。


あの高台で、初めて言葉を交わした日のこと。


さとるが、帰りたいと正直に打ち明けてくれた夜のこと。


二人で生きる未来を、最後まで探そうと約束したこと。


「……行きます」


薫は、静かに答えた。


料理人は、彼女を見つめた。


「本当に、いいのですか?」


「はい。怖いです。でも、さとるに会いたいんです」


薫は、まっすぐに料理人を見た。


「私は、ただ彼のそばで死にたいわけじゃありません。二人で生きる道を探したいんです。たとえ難しくても、最後まで諦めたくないんです」


料理人は、深く息を吐いた。


「分かりました。ただし、身体に異変を感じたら、無理をしてはいけません。剛さんにも、必ずそのことを伝えます」


「ありがとうございます」


薫は深く頭を下げた。


それから、周囲に気づかれないよう、作業の合間に必要な準備を進めた。


荷物を増やしすぎないこと。


目立つものを持たないこと。


そして、剛から合図があったら、すぐに動けるようにしておくこと。


薫は、何度も心の中で確認した。


さとるのもとへ行く。


けれど、焦ってはいけない。


二人で生きるために行くのだから、自分の命を粗末にしてはいけない。


そのことを、忘れないようにした。


しばらくして、剛は荷物室を出た。


台車には木箱が載せられ、いつでも動かせるように準備されていた。


剛は周囲を見渡し、人の流れを確かめた。


出撃する兵たちは、まだ最後の晩餐の場にいる者が多い。


しかし、いつまでも同じ状況が続くわけではない。


食事が終われば、それぞれが持ち場へ戻り、船内の動きも変わる。


今のうちに、薫を移動させる準備を整えておかなければならなかった。


剛は、料理人と短く言葉を交わした。


「薫は準備できているか?」


「はい。ただ、箱の中に長くいるのは危険です。できるだけ短い時間で移動できるようにしなければなりません」


「分かってる。無理をさせるつもりはない」


剛は、箱を見つめた。


「途中で何かあれば、すぐに止まる。見つからないことだけを優先して、薫を危険にさらすわけにはいかない」


料理人は、真剣な表情でうなずいた。


「そのとおりです」


「それから、訓練用の回天がある場所に着いたとしても、そこで何ができるかは分からない。許可もないままだ。さとるにも、勝手に進まないように伝えてある」


「はい」


剛は、台車の取っ手を握り直した。


「……あいつらには、生きてほしいんだ」


その声は、いつもの剛よりもずっと静かだった。


「さとるも、薫も。二人が本当に望んでいるのは、一緒に死ぬことじゃない。一緒に生きることなんだ」


料理人は、黙って聞いていた。


「だから、俺たちにできることをする。ただし、何があっても二人が助かるなんて、軽々しく約束することはできない」


剛は、まっすぐ前を見た。


「それでも、何もしないまま終わらせたくないんだ」


料理人は、ゆっくりとうなずいた。


「私も同じです」


二人は、それ以上言葉を交わさなかった。


今は、時間がなかった。


     *


最後の晩餐が続く中、剛は薫を迎えに行った。


薫は、指定された場所で静かに待っていた。


男の手伝いとしての服装を整え、周囲から見れば、ただ仕事を待つ者にしか見えない。


剛が近づくと、薫は小さく頭を下げた。


「剛さん……」


「準備はできたか?」


「はい」


剛は、薫の表情を確かめた。


「箱に入って運ばれることになる。狭いし、揺れもある。危険がないとは言えない。少しでも苦しくなったら、我慢しないで合図をするんだ」


薫は、真剣にうなずいた。


「分かりました」


「途中で人に止められたら、無理に動こうとしない。俺が対応する。危ないと判断したら、そこで計画を止めることもある」


薫は、一瞬だけ目を伏せた。


せっかく、ここまで来た。


もうすぐ、さとるのもとへ行けるかもしれない。


途中で止められることを考えると、怖かった。


けれど、剛の言葉は、薫を守るためのものだった。


「……分かっています。私も、無理をするつもりはありません」


薫は顔を上げた。


「さとると生きたいからこそ、慎重に行きます」


剛は、彼女の言葉を聞いて、静かにうなずいた。


「よし。行こう」


     *


荷物室に着くと、薫は用意された木箱を見つめた。


箱の中は、想像していたよりも狭かった。


中に入れば、身体を自由に動かすことは難しいだろう。


蓋が閉じられれば、外の様子も分からなくなる。


薫は、思わず息をのんだ。


剛が、心配そうに声をかけた。


「薫。無理だと思ったら、今でも言っていいんだ」


薫は、箱から目を離し、剛を見つめた。


「……怖いです」


正直な言葉だった。


「でも、行きたいです。さとるが待っているから」


剛は、何も言わずにうなずいた。


薫は、箱の縁に手を置いた。


そして、もう一度、深く息を吸った。


「さとるに、会いたい」


その声を聞いた剛は、胸の奥が痛くなった。


彼女は、決して死ぬことを望んでいるのではない。


さとると生きる未来を、最後まで諦めたくないのだ。


剛は、薫が無理なく入れるよう手を貸し、箱の中の状態を確かめた。身体を押し込むようなことはせず、苦しい姿勢にならないか、空気が通る隙間が確保されているかを確認する。


それでも、安全だと言い切れるものではなかった。


薫は狭い箱の中で身をかがめ、できるだけ落ち着いて呼吸をした。


「剛さん……」


「どうした?」


「さとるに会えたら、伝えてください」


剛は、箱のそばに膝をついた。


「何をだ?」


薫は、目を閉じた。


「私は、最後まで一緒に生きることを諦めなかったって」


剛は、しばらく黙っていた。


それから、静かに答えた。


「ああ。必ず伝える」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは、二人で無事に会えたあとでいい」


剛は、箱の蓋を完全に閉め切らないよう気を配りながら、外から中の様子を確認できる状態にした。


「薫。苦しくなったら、すぐに知らせるんだ。絶対に我慢するな」


薫は、小さくうなずいた。


「はい」


剛は、最後にもう一度だけ、彼女の顔を見た。


「……さとるのところまで、必ず行けるとは約束できない。でも、できる限りのことはする」


「分かっています」


薫は、静かに答えた。


「お願いします」


剛は、そっと蓋を下ろした。


完全に閉じることはせず、空気の通り道を残した。


箱の外から見れば、ただの荷物に見える。


けれど、その中には、二十歳の女性がいた。


大切な人と生きる未来を諦めず、恐怖を抱えながらも、さとるのもとへ向かおうとしている薫が。


剛は台車の取っ手を握った。


重みが、いつもよりずっと大きく感じられた。


その重みは、荷物の重さだけではなかった。


薫の命。


さとるの願い。


そして、自分が引き受けた約束の重さだった。


剛は、周囲を確かめてから、ゆっくりと台車を動かし始めた。


車輪が、床の上を静かに転がっていく。


薫は箱の中で、身体を動かさないようにしながら、心の中でさとるの名前を呼んだ。


――さとる。


――今、あなたのところへ向かっているよ。


外から聞こえるのは、台車の車輪の音と、人々の足音だけだった。


     *


最後の晩餐の場では、兵たちが少しずつ席を立ち始めていた。


上官の言葉を胸に刻み、出撃へ向けた準備に戻っていく。


さとるも、仲間たちと別れ、指定された場所へ向かう準備をしていた。


そのとき、ふと、胸の奥に不思議な感覚が走った。


何かが動き始めている。


そんな気がしたのだ。


さとるは、足を止めた。


薫は、今どこにいるのだろう。


剛は、もう迎えに行ったのだろうか。


さとるは、誰にも気づかれないように、そっと拳を握った。


「……薫」


その名前を、心の中で呼ぶ。


まだ会えていない。


まだ、何も解決していない。


それでも、剛は動いてくれている。


薫も、自分のもとへ向かおうとしてくれている。


さとるは、もう一度歩き始めた。


訓練用の回天が保管されている場所で、二人を待つために。


     *


剛が押す台車は、船内の通路をゆっくりと進んでいた。


人の姿が見えるたび、剛は足を止め、自然な様子を装った。


木箱を運ぶ作業員として振る舞い、余計な視線を集めないようにする。


けれど、胸の中では、ずっと緊張が続いていた。


もし、箱の中の薫が苦しくなったら。


もし、誰かに中身を確かめられたら。


もし、訓練用の回天が保管されている場所へたどり着けなかったら。


考えれば、いくらでも不安は浮かんできた。


それでも、剛は台車を押し続けた。


一歩ずつ。


慎重に。


薫の様子を確かめながら。


やがて、船内の奥へと続く通路が見えてきた。


その先にあるのは、訓練用の回天が保管されている場所へ向かうための区画だった。


剛は、台車を止めた。


まだ、ここから先へ進めるとは限らない。


正式な許可はない。


訓練用の回天を出撃に使えるかどうかも分からない。


ここまで来たからといって、すべてがうまくいくわけではなかった。


剛は、箱の中へ向けて小さく声をかけた。


「薫。もう少しだ。大丈夫か?」


箱の内側から、小さな合図が返ってきた。


剛は、安堵の息を吐いた。


「よし……」


彼は、もう一度周囲を確かめた。


そして、台車の取っ手を握り直した。


この先には、さとるが待っている。


二人を会わせることができれば、次のことを一緒に考えられる。


それでも、剛は忘れなかった。


二人の願いは、死ぬことではない。


生きることだ。


だからこそ、ここから先も、無理をせずに進まなければならない。


剛は、ゆっくりと台車を押し始めた。


箱の中で、薫は目を閉じていた。


恐怖は消えない。


不安もなくならない。


それでも、心の中には、たった一つの願いがあった。


――さとるに会いたい。


――二人で生きる未来を、まだ諦めたくない。


その願いを胸に、薫は剛に導かれながら、訓練用の回天が待つ場所へと近づいていった。


出撃の時は、刻一刻と迫っていた。




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