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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第七十六話 最後の晩餐、託された言葉

第七十六話 最後の晩餐、託された言葉


出撃まで、残された時間は四時間を切っていた。


船内では、いつもとは違う慌ただしさが続いていた。


出撃を控えた者たちは、それぞれの持ち場で最後の確認を行い、必要な装備を整えていた。誰もが口数少なく、時折交わされる会話も、いつもより短かった。


笑い声はほとんど聞こえない。


冗談を言い合う者もいない。


ただ、誰もが心の中で何かを考えながら、迫りくる時間を待っていた。


さとるも、その一人だった。


剛から伝えられた言葉が、頭から離れない。


――俺が薫を連れていく。お前は先に行って、そこで待っていろ。


剛はそう約束してくれた。


薫も、必ず自分のもとへ来るつもりでいる。


けれど、訓練用の回天を使えるという許可は、まだ下りていない。


この先どうなるのか、誰にも分からなかった。


それでも、さとるは信じたかった。


薫ともう一度会えることを。


二人で生きる道を、まだ探せることを。


そんなときだった。


「出撃を予定している者は、全員、指定された場所に集合せよ!」


船内に、兵の声が響き渡った。


さとるは、はっと顔を上げた。


出撃する者たちを集める命令だった。


とうとう、その時が来たのだろうか。


胸の奥が、急に冷たくなった。


さとるは深く息を吸い、指定された場所へと歩き出した。


     *


集合場所には、出撃を控えた兵たちが次々と集まっていた。


その中には、以前、山口の基地で同じ訓練を受けた仲間たちの姿もあった。


山本一郎。


田中清二。


中村浩。


佐々木誠。


高橋修。


彼らの顔を見た瞬間、さとるは、あの基地で過ごした日々を思い出した。


厳しい訓練。


教官の怒声。


海から上がったあと、冷えた身体を温め合った時間。


夜、布団の中で小声で交わした、ささやかな夢。


いつか故郷へ帰ること。


家族と食卓を囲むこと。


戦争が終わったら、普通の人間として生きること。


そんな未来を、彼らもまた願っていたはずだった。


しかし今、彼らは同じ場所に立っている。


これから向かう先が、どれほど危険な海なのかを知りながら。


さとるの隣にいた若い兵が、かすれた声で話しかけてきた。


「さとるさん……いよいよですね」


「……ああ」


さとるは、うなずいた。


それ以上、言葉が続かなかった。


本当は、言いたいことがいくつもあった。


怖い。


帰りたい。


まだ生きていたい。


大切な人に、もう一度会いたい。


けれど、それを口にすることが、ひどく難しかった。


周囲を見れば、兵たちはそれぞれ違う表情をしていた。


唇を強く結んでいる者。


まっすぐ前を見つめている者。


両手を握りしめ、指先を震わせている者。


平静を装っている者もいたが、その目には、隠しきれない不安が浮かんでいた。


彼らは、特別な人間ではない。


誰かの息子であり、兄であり、友人であり、恋人だった。


それぞれに帰りたい場所があった。


それぞれに、失いたくない人がいた。


そのことを、さとるは誰よりも強く感じていた。


やがて、上官が姿を現した。


兵たちのざわめきが止まり、集合場所は静まり返った。


上官は全員を見渡したあと、ゆっくりと口を開いた。


「諸君。本日は、出撃を前にした最後の食事を用意した」


その言葉に、兵たちは一斉に顔を上げた。


上官の合図とともに、食事が運び込まれてきた。


普段の食事とは明らかに違っていた。


白い米が盛られた飯椀。


丁寧に焼かれた魚。


煮物や卵料理。


色とりどりのおかず。


温かな汁物。


そして、普段なら簡単には口にできないような料理まで並べられていた。


食事のそばには、酒も用意されていた。


兵たちの間に、わずかなざわめきが広がった。


「こんなに……」


誰かが、小さくつぶやいた。


「最後だから、ということか……」


別の兵が答えた。


その声には、喜びよりも戸惑いが混じっていた。


上官は、兵たちの前に立ったまま告げた。


「出撃を前にした諸君に、せめて最後は十分な食事を取ってもらいたい。今日の食事は、上からの特別な配慮によるものだ。遠慮せず、しっかり食べておくように」


そう言うと、上官はわずかに表情を和らげた。


「酒も用意してある。飲める者は、少し口にしても構わん。ただし、飲みすぎるな。出撃を控えた身であることを忘れないように」


兵たちは、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます!」


何人かが声をそろえた。


しかし、その声には、普段のような張りがなかった。


目の前に並ぶ豪華な食事を見つめながら、さとるは胸の奥に、言葉にできないものが込み上げてくるのを感じていた。


こんな食事を用意してもらえることは、ありがたい。


出撃する者たちを気遣っているのだろう。


けれど、なぜこれが最後なのだろう。


なぜ、最後の食事として用意されなければならないのだろう。


自分たちは、まだ二十歳なのだ。


本当なら、これから何度でも食事をするはずだった。


故郷に帰って、家族と囲む食卓。


好きな人と食べる、何でもない夕飯。


腹いっぱい食べて、明日のことを考えながら眠る夜。


そんな当たり前の時間が、欲しかった。


さとるは、用意された食事を見つめたまま、そっと拳を握った。


「……薫と、食べたかったな」


声にならないほど小さなつぶやきだった。


戦争が終わったら、薫と一緒に食事をしたい。


特別な料理でなくてもいい。


温かいご飯と汁物があれば、それで十分だった。


薫が笑いながら自分の皿を差し出してくる。


自分が少しだけおかずを分けてやる。


そんな、誰もが当たり前にしていることを、さとるは夢見ていた。


目の前の豪華な食事は、その願いをいっそう強く思い出させた。


     *


兵たちは、順番に席についた。


最初は、誰もが箸を手にすることをためらっていた。


食事をするよう促されても、すぐに口を開く者は少なかった。


やがて、山本一郎が静かに箸を持ち上げた。


「せっかく用意してくださったんだ。食べよう」


山本は、周囲に聞こえる程度の声で言った。


「食べられるときに食べておかないとな」


その言葉に、田中清二が小さく笑った。


「山本、お前らしいな」


「何だよ。腹が減ったまま出撃するわけにはいかないだろ」


「それはそうだが……」


田中は、目の前の魚を見つめた。


「母さんが焼いてくれた魚を思い出したよ。家にいた頃は、毎日のように食べていたんだ。あの頃は、こんなことになるなんて考えもしなかった」


山本は、何も言わずにうなずいた。


「俺も、帰りたいよ」


田中の言葉は、食事の音に紛れそうなほど小さかった。


「もう一度、家に帰って、母さんの飯を食べたい」


その場にいた兵たちは、誰も笑わなかった。


誰も、田中を弱いとは言わなかった。


ただ、それぞれが自分の帰りたい場所を思い浮かべていた。


中村浩は、飯を一口食べてから、ゆっくりと箸を置いた。


「……うまいな」


その声が、かすかに震えていた。


「こんなにうまい飯を食べたら、余計に帰りたくなるじゃないか」


冗談めかして言おうとしたのだろう。


けれど、最後まで笑顔を作ることはできなかった。


佐々木誠は、黙々と食事をしていた。


彼は、出撃が決まってから、あまり自分の気持ちを話さなくなっていた。


それでも、さとるには分かっていた。


佐々木もまた、怖いのだ。


ただ、怖いと口にする代わりに、目の前の食事を一口ずつ食べている。


高橋修は、用意された酒を見つめていた。


「酒なんて、帰ってから飲みたかったな」


彼は、そう言って苦笑した。


「無事に帰ったら、仲間と一緒に飲むつもりだったんだ。腹いっぱい食べて、好きなだけ笑って……そういうことを考えていたんだけどな」


「帰ってから飲めばいい」


山本が、静かに答えた。


高橋は顔を上げた。


「……そうだな」


山本は、箸を持ったまま、まっすぐ高橋を見つめた。


「俺たちは、帰るつもりでいよう。今ここで、最後だなんて決めつけたくない」


その言葉に、高橋はゆっくりとうなずいた。


「そうだな。俺だって、帰りたいよ」


さとるは、仲間たちの会話を聞きながら、胸が苦しくなった。


みんな、帰りたいのだ。


怖くない人間などいない。


立派な兵士だと言われても、死ぬことが怖くなくなるわけではない。


国のために任務を果たす覚悟と、生きて帰りたいという願いは、必ずしも相反するものではなかった。


彼らは、恐怖を抱えながらも、命令された場所へ向かおうとしている。


けれど、心の奥には、それぞれの人生が残っていた。


さとるは箸を持ち直し、飯を一口食べた。


温かかった。


その温かさが、かえって悲しかった。


生きているから、温かいものをおいしいと感じられる。


生きているから、誰かと食卓を囲むことが嬉しい。


生きているから、明日を望むことができる。


「……俺は、帰りたい」


さとるは、心の中でつぶやいた。


薫のもとへ。


二人が出会った高台へ。


戦争が終わった世界へ。


そして、誰にも命を奪われる心配をせずに、ただ生きていける場所へ。


その願いだけは、何があっても消したくなかった


食事が進むにつれ、兵たちの間にも、少しずつ会話が戻ってきた。


故郷の話をする者がいた。


家族の話をする者もいた。


いつか行ってみたかった場所や、食べてみたかった料理の話をする者もいた。


それは、まるで戦争が始まる前の若者たちの集まりのようだった。


誰かが冗談を言うと、何人かが小さく笑った。


その笑い声は長く続かなかったが、確かにそこにはあった。


さとるも、仲間たちの話に耳を傾けた。


「さとるは、帰ったら何がしたい?」


突然、田中に尋ねられた。


さとるは、すぐには答えられなかった。


帰ったら。


その言葉を聞くだけで、胸が熱くなった。


「……俺は」


さとるは、ゆっくりと口を開いた。


「好きな人と、一緒に暮らしたい」


田中が、目を丸くした。


「好きな人?」


「……ああ」


さとるは少し照れながらも、視線をそらさなかった。


「薫っていう人なんだ。戦争が終わったら、一緒に暮らそうって約束した」


その場にいた仲間たちの表情が、少しだけ和らいだ。


「そうか」


山本が笑った。


「いいじゃないか。帰ったら、約束を守らないとな」


「そうだな」


田中も、うなずいた。


「俺も、帰ったら家族に会いたい。何も言わずに家に帰って、母さんを驚かせてやるんだ」


「俺は酒だな」


高橋が言った。


「帰ったら、仲間と腹いっぱい飲む。今度こそ、最後なんて考えずにな」


中村も、少しだけ笑った。


「俺は、何日も寝ていたい。朝になっても起きなくていいくらい、ゆっくり眠りたいよ」


「それなら俺もだ」


佐々木が、久しぶりに口を開いた。


「目が覚めたら、戦争が終わっていたらいいのにな」


その言葉に、誰もすぐには答えなかった。


戦争が終われば。


ただ、それだけでよかった。


もう誰も死ななくていい。


もう誰も、大切な人を失わなくていい。


もう誰も、最後の食事などと呼ばれるものを囲まなくていい。


さとるは、仲間たちの顔を一人ずつ見つめた。


この人たちにも、帰りたい場所がある。


待っている人がいる。


生きて迎えたい明日がある。


自分と同じだった。


「みんなで、帰ろう」


さとるは、気づけばそう口にしていた。


仲間たちが、一斉にさとるを見た。


「……帰ろう。任務が終わったら、みんなで帰って、もう一度集まろう」


さとるの声は震えていた。


それでも、言葉を止めなかった。


「そのときは、今日みたいな食事じゃなくていい。普通の飯を食べて、酒を飲んで、好きなだけ笑おう。誰も、最後だなんて言わない場所で」


一瞬、静寂が訪れた。


やがて、山本がゆっくりとうなずいた。


「そうだな。俺たちは、帰るために生きよう」


田中も、中村も、佐々木も、高橋も、それぞれにうなずいた。


その約束が、どこまで現実になるのかは分からなかった。


けれど、その瞬間だけは、誰もが同じ未来を見ようとしていた。


     *


食事が終わりに近づいた頃、上官が再び兵たちの前に立った。


兵たちは箸を置き、静かに姿勢を正した。


上官は、しばらく全員の顔を見渡していた。


その表情には、厳しさだけではなく、複雑な感情が浮かんでいるようにも見えた。


やがて、上官は口を開いた。


「諸君。これから君たちには、重要な任務を担ってもらう」


兵たちは、黙って耳を傾けた。


「君たちが向かう海は、決して容易な場所ではない。敵の艦船が展開する海域であり、任務の遂行には大きな危険が伴う」


上官の声が、静かな空間に響いた。


「しかし、君たちには、これまで積み重ねてきた訓練がある。仲間とともに学び、厳しい状況を乗り越えてきた経験がある」


上官は、ひと呼吸置いた。


「君たちは、国のために立派に任務を果たしてくれ」


その言葉に、兵たちは一斉に背筋を伸ばした。


「期待している。諸君の健闘を祈る」


「はっ!」


兵たちの声が重なった。


その声は、船内に強く響いた。


さとるも、ほかの兵たちと同じように返事をした。


けれど、胸の中では、いくつもの感情が渦巻いていた。


国のために任務を果たす。


その言葉の重さは分かっている。


自分たちの任務が、戦況を変えるためのものだということも理解していた。


それでも、さとるの心から消えない願いがあった。


生きたい。


薫と生きたい。


その願いは、国を思う気持ちと同じ場所にあるのか、それとも違う場所にあるのか。


さとるには、もう簡単には分からなかった。


ただ一つ、確かなことがあった。


自分は、死ぬことを望んでいるわけではない。


命令を受けたからといって、恐怖が消えたわけでもない。


立派な言葉を聞いたからといって、薫への想いを捨てられるわけでもなかった。


さとるは、そっと目を伏せた。


――上官は、俺たちに任務を果たせと言った。


――けれど、俺は帰りたい。


その気持ちを、誰かに責められたとしても。


さとるは、薫と交わした約束を忘れたくなかった。


     *


上官の話が終わると、兵たちは再び静かに席を立ち始めた。


最後の食事。


そう呼ばれた時間は、終わろうとしていた。


山本は、さとるのそばへやってきた。


「さとる」


「……何だ?」


「さっきの話、覚えておけよ」


「さっきの話?」


「みんなで帰ろうって話だ」


山本は、まっすぐさとるを見つめた。


「俺は、あの約束を忘れない。帰って、またみんなで集まる。そう決めたんだ」


さとるは、ゆっくりとうなずいた。


「ああ。俺も忘れない」


田中も近づいてきた。


「薫さんとの約束も、忘れるなよ」


「……ああ」


「帰ったら、ちゃんと幸せになれ。俺たちの分まで、なんて言うつもりはない。ただ、お前自身が幸せになってほしいんだ」


さとるは、思わず言葉を失った。


田中は、いつものように笑おうとした。


「俺だって、自分で帰って幸せになるつもりだからな」


「そうだな」


さとるは、かすかに笑った。


「お前も帰ってこい。みんなで、もう一度集まろう」


「もちろんだ」


二人は、強く握手を交わした。


その手の温もりを、さとるは忘れないようにした。


いつか、もう一度この手を握れるように。


いつか、今日のことを笑って話せるように。


そして、二人とも帰れるように。


     *


集合場所を離れたさとるは、人目の少ない通路で立ち止まった。


窓の向こうには、沖縄の海が広がっていた。


青い海。


遠くまで続く水平線。


その向こうには、敵の艦船がいるのかもしれない。


やがて、自分たちはその海へ向かう。


さとるは、窓枠にそっと手を置いた。


薫は今、どうしているだろう。


剛は、迎えに行く準備を進めているだろうか。


二人は、自分のもとへ来てくれるだろうか。


さとるは、胸の中で何度も名前を呼んだ。


薫。


薫。


もう一度、会いたい。


今度こそ、手を離したくない。


けれど、どれだけ願っても、時間は止まってくれなかった。


残された時間は、確実に減っている。


さとるは、窓の外の海を見つめたまま、静かに息を吐いた。


「……俺は、まだ生きたい」


その声には、恐怖も、願いも、そして小さな決意も込められていた。


国のために任務を果たせと告げられた若者たち。


豪華な食事を前に、家族や故郷を思い出した若者たち。


酒を飲みながら、帰ったあとの未来を夢見た若者たち。


彼らは皆、同じ時代に生きた、普通の若者だった。


その中の一人であるさとるもまた、普通の未来を望んでいた。


薫と暮らし、朝を迎え、食卓を囲み、時には喧嘩をして、それでも隣にいる彼女と笑い合う。


そんな日々を、手に入れたかった。


その願いが叶うかどうかは、まだ分からない。


それでも、さとるは諦めたくなかった。


剛が薫を連れてくる。


自分は、訓練用の回天がある場所で待つ。


そこから先に何が起きるのかは分からない。


許可が下りる保証もない。


二人が安全に帰れる道が見つかる保証もない。


それでも、最後まで探す。


薫と生きるために。


さとるは、窓から離れた。


そして、もう一度、心の中で約束した。


――薫。俺は、ここで待っている。


――二人で生きる未来を、まだ諦めない。


その願いを胸に、さとるは静かに歩き出した。


出撃の時は、刻一刻と近づいていた。

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