第七十五話 君を連れていく、その約束
第七十五話 君を連れていく、その約束
出撃まで、残された時間は五時間。
船内には、張りつめた空気が漂っていた。
出撃を控えた兵たちは、それぞれの持ち場で最後の準備を進めている。廊下を行き交う足音も、装備を確認する音も、いつもより慌ただしく感じられた。
さとるは、その音を聞きながら、壁に背を預けていた。
あと五時間。
その時間が過ぎれば、自分は出撃することになる。
回天に乗り込み、沖縄周辺の敵艦を目指す。任務を果たしたとしても、生きて戻れる保証はない。そもそも、回天は帰還を前提とした兵器ではなかった。
そのことは、誰よりもさとる自身が分かっていた。
だからこそ、薫を残していくことが怖かった。
もう二度と会えないかもしれない。
もう二度と名前を呼べないかもしれない。
あの高台で一緒に海を眺めることも、戦争が終わったあとの未来を語り合うことも、すべて叶わなくなるかもしれない。
考えるたび、胸の奥が締めつけられた。
「……薫と生きたい」
さとるは、小さくつぶやいた。
昨夜、薫に自分の覚悟を伝えた。
許可が下りなかったとしても、命令に背いてでも一緒に行くつもりだと。
けれど、薫はただ喜んだわけではなかった。
彼女も怖がっていた。
自分が危険な選択をすることを。
二人で行ったとしても、帰ってこられないかもしれないことを。
それでも薫は、さとると生きる道を諦めたくないと言ってくれた。
だからこそ、さとるはもう一人で決めるつもりはなかった。
二人で考える。
二人で選ぶ。
そして、どんな結果になろうとも、互いの気持ちから目をそらさない。
そう決めていた。
そのとき、通路の向こうから足音が近づいてきた。
顔を上げると、剛がこちらへ歩いてくるのが見えた。
剛はさとるの前まで来ると、周囲を確認した。近くに人がいないことを確かめてから、声を落とした。
「さとる。話がある」
「剛……何か分かったのか?」
「ああ。これからのことだ」
剛の表情は、いつになく真剣だった。
さとるは背筋を伸ばした。
「訓練用の回天のことか?」
「そうだ。まず、はっきりさせておく。正式な許可は、まだ下りていない。訓練用の回天を出撃に使えると認められたわけじゃないんだ」
「……分かってる」
「それでも、保管場所については確認できた」
さとるの胸が大きく揺れた。
「本当か?」
「ああ」
剛は短くうなずいた。
「俺が薫を連れていく。お前は先に訓練用の回天がある場所へ行って、そこで待っていろ」
さとるは、言葉を失った。
昨夜、剛はもう一度、上官に確認すると言っていた。
そして今、剛は自分の前に立ち、薫を連れていくと告げている。
「剛……本当に、薫を連れてきてくれるのか?」
「そのつもりだ。薫にも話をして、本人の意思を確かめたうえで連れていく」
剛は、さとるの肩に手を置いた。
「ただし、何があっても必ず行けると約束することはできない。途中で問題が起きたら、無理に進むわけにはいかないんだ」
「ああ」
「それから、訓練用の回天がある場所に着いても、すぐに出撃できるとは限らない。使用の許可もないし、実際の作戦に使える状態なのかも、確認が必要だ」
さとるは、真剣な顔でうなずいた。
「分かってる。そこに行けばすべて解決するなんて思っていない。ただ、最後まで可能性を確かめたいんだ」
「……そうか」
剛は、少しだけ目を伏せた。
「なら、俺もできるところまで力を貸す」
その言葉に、さとるの目が熱くなった。
「ありがとう、剛」
「礼はまだ早い。これからが大事なんだ」
剛は、声を落としたまま続けた。
「出撃まで五時間しかない。時間を無駄にはできないが、焦って勝手なことをするなよ。お前が先に行くのは、俺が薫を連れていくまで待つためだ。俺たちが来る前に、一人で何かを決めるな」
「分かった。そこで待っている」
「本当だな?」
「ああ。剛と薫を信じて待つ」
剛は、さとるの顔をじっと見つめた。
「さとる。お前は、薫と生きたいんだろう?」
「そうだ」
「死ぬために一緒に行くんじゃないんだな?」
さとるは、迷わず答えた。
「違う。俺は薫と生きたい。二人で帰って、普通の暮らしをしたい。そのために、できることを探しているんだ」
剛は、静かにうなずいた。
「なら、その気持ちを忘れるな。危険を覚悟することと、危険を考えずに突っ走ることは違う。薫の気持ちも聞いて、二人で考えるんだ」
「約束する」
剛は最後にもう一度、さとるの肩をたたいた。
「俺が薫を連れていく。お前は先に行って、そこで待っていろ」
「……ああ」
剛は、それ以上何も言わず、通路の向こうへ歩いていった。
さとるは、その背中が見えなくなるまで見つめていた。
剛も、怖くないわけではないはずだ。
命令に背く危険もある。計画が途中で止まるかもしれない。自分たちの選択が、誰かを巻き込む結果になる可能性もある。
それでも、剛は動いてくれた。
二人が何もできないまま別れることを、少しでも避けるために。
さとるは、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
その声は、誰にも届かなかった。
剛と別れたさとるは、薫のもとへ向かう前に、もう一度だけ心を落ち着かせた。
出撃まで五時間。
時間は、待ってくれない。
この先、自分たちがどこまで進めるのかは分からなかった。訓練用の回天を確認できても、使用が認められなければ、その先へ進むことは難しいだろう。
それでも、さとるは、ただ命令の日を待つだけではいられなかった。
薫と交わした約束を思い出す。
戦争が終わったら、一緒に暮らそう。
朝、目を覚ましたら、隣にいる薫に「おはよう」と言おう。
何も特別なことがなくても、二人で笑って過ごせる毎日を手に入れよう。
そんな未来が、欲しかった。
さとるは、拳を握りしめた。
「俺は、薫と生きるために行くんだ」
誰かに言い聞かせるように、もう一度つぶやいた。
そして、薫のいる場所へと足を向けた。
*
薫は、料理人の手伝いをしながら、落ち着かない時間を過ごしていた。
周囲には兵たちがいる。
今までどおり、声を出すことはできない。男の手伝いとして船に乗っている以上、正体を知られるわけにはいかなかった。
薫は、指示された作業を黙々とこなしながらも、何度も時間を気にしていた。
さとるは、今どこにいるのだろう。
剛は、何か分かったのだろうか。
二人が生きるための道は、本当に残されているのだろうか。
考えれば考えるほど、不安が大きくなった。
それでも、薫は逃げ出したいとは思わなかった。
怖い。
その気持ちは、少しも消えていない。
さとると一緒に行ったとしても、無事に帰れるとは限らない。訓練用の回天を使えるかどうかも分からない。
けれど、さとるを一人で出撃させて、二度と会えなくなるかもしれない未来を、何もせずに受け入れることもできなかった。
「……さとる」
薫は、心の中で名前を呼んだ。
そのとき、料理人がそっと近づいてきた。
「薫さん。剛さんから伝言です」
薫は、すぐに顔を上げた。
料理人は、周囲に聞かれないよう声を落とした。
「これから、訓練用の回天がある場所へ向かう準備をしてほしいそうです。ただし、剛さんから合図があるまでは、勝手に動かないようにとのことです」
薫の心臓が、大きく跳ねた。
ついに、動き出すのだ。
「……分かりました」
声に出す代わりに、薫は静かにうなずいた。
料理人は、彼女の顔を見つめた。
「薫さん。本当に、覚悟はできていますか?」
薫は、すぐには答えなかった。
覚悟という言葉は、簡単には口にできない。
さとると一緒に行くことを選んでも、未来が保証されるわけではない。自分の行動によって、さとるをさらに危険な状況へ追い込む可能性だってある。
それでも、薫は自分の気持ちを見失いたくなかった。
「……怖いです」
薫は小さく答えた。
「でも、さとると生きたいんです。死ぬために行くのではありません。二人で生きる道を、最後まで探したいんです」
料理人は、しばらく黙っていた。
やがて、静かにうなずいた。
「分かりました。私も、できることはします。ただし、危険だと判断したら、立ち止まることも忘れないでください」
薫は、深く頭を下げた。
料理人もまた、二人の願いを理解しながら、無条件にすべてを認めているわけではなかった。
彼は、二人が生きる可能性を探すことと、危険を軽く考えることは違うと分かっていた。
だからこそ、最後まで慎重に進もうとしていた。
薫は、必要なものを静かに確認し始めた。
目立つものは持たない。
余計な行動はしない。
剛の合図を待ち、落ち着いて動く。
そう決めた。
やがて、さとるは薫と短い時間だけ顔を合わせることができた。
人目につかない場所で、二人は向かい合った。
薫は、さとるの姿を見た瞬間、胸がいっぱいになった。
「さとる……」
「薫」
さとるは、彼女の手をそっと握った。
「剛から話があった。俺は先に訓練用の回天がある場所へ行って、そこで待つことになった。剛が、お前を連れてきてくれる」
薫は、何度もうなずいた。
「私も、剛さんから伝言を聞いたよ」
「そうか……」
二人は、手をつないだまま、しばらく黙っていた。
会えたことが嬉しかった。
けれど、今は安心していられる状況ではない。
出撃まで、残り五時間。
その時間が過ぎれば、さとるは任務へ向かうことになる。
「薫」
さとるが、静かに口を開いた。
「俺は、お前を連れていくことだけを考えているわけじゃない。お前と生きるために、何ができるのかを最後まで確かめたいんだ」
薫は、さとるの手を握り返した。
「分かってる。私も同じだよ」
「もし、訓練用の回天が使えないと分かったら……そのときは、また一緒に考えよう」
「うん。一人で決めないでね」
「ああ。約束する」
薫は、目に涙を浮かべながら微笑んだ。
「私、あなたと一緒に帰りたい。あの高台から、もう一度海を見たい」
さとるは、彼女の言葉に胸を締めつけられた。
自分も、同じことを願っていた。
「俺もだ。戦争が終わったら、二人であそこへ行こう」
「本当に?」
「ああ。約束する」
その約束が守れる保証はない。
二人とも、それを分かっていた。
それでも、約束を交わさずにはいられなかった。
未来が見えないからこそ、未来を願いたかった。
さとるは、薫の手を両手で包み込んだ。
「剛が迎えに来るまで、無理をするな。何かあったら、すぐに止まっていいんだ」
「さとるもね。焦って一人で先に進まないで」
「ああ」
「私たちは、一緒に生きたいんだから」
その言葉に、さとるは静かにうなずいた。
「……ああ。一緒に生きよう」
遠くから、人の足音が聞こえてきた。
二人は、名残惜しそうに手を離した。
薫は再び、声を出さない手伝いの男として振る舞う準備をした。さとるも、出撃を控えた兵として、自分の持ち場へ戻らなければならなかった。
別れ際、薫はさとるを見つめた。
声には出せない。
けれど、その目は、はっきりと伝えていた。
必ず会いに行く。
さとるも、わずかにうなずいた。
そこで待っている。
そう伝えるように。
*
さとるは、指定された場所へ向かう準備を整えた。
出撃まで、残り五時間。
剛が薫を連れてくる。
それまでは、待つしかなかった。
訓練用の回天が保管されている場所へ行けたとしても、正式な許可がない以上、すべてが認められるわけではない。
それでも、さとるは最後まで可能性を確かめると決めていた。
剛の助けを借り、薫の意思を聞き、危険を考えながら進む。
自分たちが生きるために、できることを探す。
それが、今のさとるにできることだった。
船の外では、風が強くなり始めていた。
海は、いつもと変わらず広がっている。
その海の向こうに、二人の未来があるのか。
それとも、もう二度と帰れない場所が待っているのか。
まだ、誰にも分からなかった。
さとるは、静かに目を閉じた。
薫の笑顔を思い浮かべる。
あの高台で、初めて自分を見つめてくれた瞳。
不安なとき、そっと手を握ってくれた温もり。
戦争が終わったら、一緒に生きようと約束した声。
そのすべてを、失いたくなかった。
「……薫。待っているから」
さとるは、小さくつぶやいた。
残された時間は、五時間。
剛は薫を連れていくと約束した。
そして、薫もまた、さとるのもとへ向かう決意を固めていた。
三人の選択が、これからどんな結果を招くのかは分からない。
それでも、さとるはもう、ただ出撃の時刻を待つだけではなかった。
薫と生きる未来を、最後まで諦めない。
その願いを胸に、さとるは剛と薫が来るのを待ち続けた。




